第21話 クレープ
乗合馬車発着所の公園の前にある理髪店を出ると新緑を揺らす風が吹き、セドリックのさっぱりした耳元や襟足にも通り過ぎて思わずふるりと震えてしまった。
今まで覆っていた髪がなくなり、風が肌に直接触れる感覚に違和感がある。
慣れるまでそうかからないとは思うが、それまで何ともむず痒い。
などと思いながらぷらぷらと公園に入り、ベンチに腰掛けてもみあげを掻いた。
散髪が済んだのだからコテージに戻ろうかとも思ったが、妹の打ち合わせがまだ終わっていないかもしれないので、しばらく街で時間を潰そうと考えたのだ。
ティユーは観光の街として発展途上だが至る所に案内板があり、街の観光どころを印刷してある地図が商店にも置いてある。
理容店でもらった地図をポケットから出して、どこへ行ってみようかと思案している時だった。
目の前にクレープが現れた。
胃の奥がすっと冷え、身構えて隣を見ると黒髪の男がいつの間にか座っていて、彼自身もクレープに齧り付いている。
「どうぞ。ブルーベリークレープです。中は生クリームとカスタードクリームで、トッピングはくるみです」
たっぷりとしたクリームの間にブルーベリーの紺紫が見え、トップには砕いたくるみがまぶしてある。
セドリックの好きな組み合わせだ。
「俺の好みをちゃんと憶えててくれて嬉しいねえ。ありがと、先生」
家庭教師にいつまでも持たせているのもいけないので、セドリックは受け取ってすぐに頬張った。
甘めのクレープ生地とクリームにブルーベリーの甘酸っぱさが程良く合い、クリームチーズの濃厚さが後追いしてくる。
また、くるみが食感と味の変化を加えて飽きがこない。
「ティエリ様が騎士団を退団されたそうです」
弟が騎士団に入隊したのは、帰国してから父から聞いていた。
喘息持ちでよく寝込んでいた弟に軍役が勤まるのだろうかと思ったが、この間アデルが泥酔した時に色々聞いて事情は知っている。
「人妻にいれ上げたらしいな。なんだ、フラれたのか?」
「直にお聞きになった方がいいと思います」
「まさか、あいつも来んのか」
先生は顎を引いて肯定し、クレープをもう一口頬張った。
「やれやれ。妹は
うなじを掻いたら、それまでとは違い短くなったので指通りがいい。
「五年の間に変わっちまうもんだなあ」
家を離れ、父の命令で新大陸に渡り、かの地での様々なものを見聞きしてきた。
その間に、侯爵令嬢で蝶よ花よと育てられた妹は、世間の荒波に揉まれて世の不条理を味わって稼いだ金が尽きるまで期間限定で世捨て人になってしまったし、病弱だった弟は恋をして、騎士団に残るために体を鍛えて病を克服した。
「セドリック様も、です」
五年間、新大陸に同行してくれた家庭教師兼護衛は前を見据えたままそっと呟いた。
「そうかなあ」
自分では変わったという自覚はないのだが、アデルにもちょくちょく言われるので、きっと以前とは何かが違うのかもしれない。
「ところで、先生。休暇は?」
自分と同じくらいの休暇を父から与えられているはずなのに、こうしてまた自分の側にいる。
また無理を言って働かされているのではないだろうかと懐疑が湧き出た。
「ルヴロワのスパに入り浸っていますよ。受付の女の子達ともすっかり仲良くなりました」
「双方楽しんでいるなら結構だが、二年前のようなことはごめんだぞ」
「程々に満喫しています」
一般の程々の物差しと先生のそれとは目盛りの幅に差異があるので、あまりあてにならないことはセドリックも重々承知している。
だが、いい大人だし注意するのも野暮というものなので、セドリックは鼻を鳴らすだけに留めた。
「一週間後に夜会にご出席になるとか」
旗色が悪くなってきたと感じたのか、話題を変えてきた。
「さすがに早耳だな。アデルと一緒に出るよ」
すでに情報は手に入れているだろうが、共有するために事情を説明した。
「大丈夫ですか。侯爵子息として出席なさるのですよね」
「う、うん。何とか……色々思い出すよ」
アデルには見栄で断言できたが、先生の前では素直に歯切れが悪くなるセドリックだった。
この一週間は、侯爵子息としての感覚を戻すためのいい機会になるかもしれないと考えるように切り替えた。
「まあ! こんな所にいらしたのですか、お兄様」
空白の五年を埋める思案をしている時に、聞き覚えのある声がした。
振り向くと、数時間前にお世話になった
「そろそろ終わる頃かと思って理髪店を覗きに行ったら、もう終わっていると聞きました。あら、美味しそうなものをお召し上がりでございますね。別館にお戻りの際は歩きで、食べた分を消費なさることをお勧めします」
アデル様にもお渡ししましたがと続けて、この数日間の食生活の指示を立板に水のように話し始めた。
夜会服の替えは用意できないからこれ以上体重も筋肉も増やさないように節制を心掛けてほしいと。
短時間で無理を強いているので、それくらいはセドリックの方でも協力をしなくてはならない。
自覚を持ってはいるが、半分はクチュリエールの熱量に圧されて首を縦に振った。
「僭越ながらモロー商会が、ギレム様を名実共に当日一番の紳士淑女になるようお手伝い申し上げます。そのためにもご協力をよろしくお願いします」
同じ台詞を妹にも言ったとは知らず、セドリックは頼もしい言葉に対して感謝を述べた。
家庭教師のアリダ先生の姿は、現れた時と同じで、音も気配もなく消えていた。
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