第4話 ピーラー

 腹の刺繍をよく見ると、魔術図形だと気づいた。


「それは防犯グッズです」

 腹部の刺繍を押すと、轟音が鳴り響くとスターレンスは説明した。


 そう言われると試してみたくなるのは人の性ともいえるのだろう。


 アデルが腹部に親指を掛けると、スターレンスは目敏く制止する。


「大型の獣が逃げ出すくらいの音量が出ますのでご注意ください」


 熊やトナカイが驚いて逃走した検証結果もあるという。


 魔獣除けの結界はティユーの街全体で完成しているが、別館は丘の上にあるので対象外区域になっている。


 隣町のルヴロワの先にグラン・フリブールの森があり、魔獣がティユーまで来ることは滅多にないのだが、大型の獣類は街を取り囲む山や林に生息しているので、別館に宿泊している客に配っているのだとスターレンスは説明した。


「これはルヴロワに勤務している魔術師の開発商品で、先頃、弊社の社長が魔術庁に試験的に使用許諾を得たものです」


 魔術図形は人間の指紋や手の平の皺を認証して作動するようになっているので、どこかにぶつけてお腹を押してしまっても鳴らないようになっている。


 そして作動したら、警備を担当している部署にも鳴動作があったことがわかるようになっているので、すぐに駆けつけられるようになっているのだとスターレンスは続けた。


「警備担当も同じものを持っていますので」

「この熊を?」

 スターレンスは含み笑いを浮かべ、控えているソフィーも口元を手で押さえて笑いを押し殺した。


 警備担当は筋骨逞しい男性が多いので、この可愛いマスコットを持っているのを想像すると、アデルもふふっと笑みをこぼした。


「獣類のみならず、お困りの時に鳴らしていただくのでも構いません」


 恐らくスターレンスはアデルが一人で滞在しているのを慮ってそう提案してくれたのだと思われる。


 貴族の令嬢が一人でいることなど、今の時代ではないことだ。


 また、何かあった時にホテル側の手落ちを責められるのを最小限に抑えたいのだろう。


「ありがとうございます。持ち歩きたいと思います」


 肩の力が抜けたのか、スターレンスの首が伸びたように見えた。


「ありがとうございます、ギレム様。他にも何かありましたら、いつでも係員にお申し付けください」


「あ、それなら……」

 アデルは口にしかけて、噤んだ。


 後でソフィーに聞いてみればいい他愛もないことを、総支配人に尋ねるのもどうかと思ったので。


「何かございますか。何なりと仰ってください」

 身を乗り出すかのように聞く気満々なので、言わなくては引き下がらないような空気になった。


「大したことではないのですが、ここにはピーラーがあるかどうか聞きたかったのです」


「ピーラーですか。野菜の皮を剥いたりする?」


 アデルが頷くと、ソフィーはキッチンに確認しに行った。


「昼食のご用意ですか?」


「いいえ。レモンの皮を剥きたいのですが、包丁ではうまくゆきませんので、道具を変えてみようかと思ったのです」


 二人が訪問してきた時に作っていたのはレモンジャムで、思いの外苦戦していると正直に白状した。


「レモンの皮を剥く時は、包丁を上下に動かしながらやっていくと歯が進みますよ」

「上下に?」

 スターレンスが空で手振りをしてみせるが、よくわからない。


「口で言うだけではわかりづらいと思います。実際にやってみましょう」


 席を立ったスターレンスは慣れた仕草でアデルをエスコートして、キッチンへと連れ立った。


 心が折れかけた作業に光が差し込んだので、忙しいであろう総支配人をレモンジャムで足止めしていいのかと思いつつも、無下に拒むことはしなかった。


 キッチンでは棚を念入りに探しているソフィーが、二人が入ってくるのを見とめると手を止めて頭を下げた。


「申し訳ありません。用意しておりませんので、備品を確認して参ります」

 そう言って、止める間もなく事務棟へと行ってしまった。


 スターレンスは上着を脱いで作業テーブルの椅子の背もたれに掛け、シャツの袖を捲ってから手を洗う。


 布巾を取って、中断したままになっているまな板の上にある一筋だけ皮が剥けたレモンを見て手に取った。


「表皮を薄く剥くには、刃を入れたらこうして……」

 スターレンスは慣れた手付きで包丁を小刻みに上下に押し引きして、するすると滑るように剥く。


 実家の料理長と然程変わらぬ早さだった。


 アデルもレモンと包丁をとって、教わったように刃を進めると、先程とは比べものにならないくらい楽に、しかも果肉を削がずに剥くことができた。


 できたじゃないかと、綺麗な楕円に切れた表皮を見て感動していると、ソフィーがピーラーを持って戻ってきた。


「申し訳ありません。備品の用意がなかったので、厨房から借りて参りました」


 差し出されたピーラーを、アデルは受け取るのを躊躇う。


「それは料理人の仕事道具です。私の道楽にそんな大切な物を使う訳にはいきません」


 調理道具は料理を生業にしている人の第二の手とも言うべきものだ。

 美味しい料理を作るために勝手を工夫して日々使っているプロの道具を、貴族とはいえど素人が安易に借りて使っていいものではない。


 手数を掛けたソフィーにはその労に感謝をして、だが、今ある物でやり遂げると申し出た。


「スターレンスさんもソフィーも色々ありがとうございます。ですが、この調子でゆくと昼食の用意は難しいので、サンドイッチなどの軽食をお願いします」


 皮剥きだけでお昼いっぱいかかりそうなので、昼食の準備はできそうもない。

 そこは素直に甘えることにした。


「かしこまりました、ギレム様」


 スターレンスとソフィーは揃って笑顔でそう言った。

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