幻視

Uさんは、学校を卒業してすぐに公務員になった。


「特に崇高な理念なんてありゃしませんでした。

説明会で人事の担当者が、

『うちは給料は安いです。けれど、原則定時で帰れますよ』

ってアピールしていて、それに惹かれて決めただけです」


しかし、その「定時」というのが、

実質のところ22時であったということを知るのは、

仕事を始めてわずか二日目のことであった。


それでも、働きはじめて数年のうちは問題なかった。

当時はまだ若くて、体力気力も充実していたし、

仕事の内容も自分に合っていたから。


しかし、三回目に転属された部署で、つまずいた。

そこの仕事は、一口で言えばクレーム対応だった。


「相手が明らかに無茶を言っているなら、いくらでもやりようはあります。

こちらに非があることがはっきりしているなら、それも何とかなる。

一番困るのは、双方に大義名分があったりするときですね。

相手だけではなく、身内にまで責められたりしますから……」


そう言った調整の仕事が、性格的に向いていなかったのだろう。


「深夜に家に帰って来て、布団に入ったらもう明日になる。

そうしたら仕事に行かなきゃいけない。

やがて、眠るのが嫌になってしまって――」


もちろん、心がいくら睡眠を拒否しても、肉体には限界が来る。

1日というものが24時間ではなく30時間になってしまったあたりで、

日常生活にまで支障が出てきた。


どうしようもなくなって、Uさんは心療内科にかかることになったのだが、

心の病というものには、特効薬というものが存在しない。

カウンセリングの後、とりあえずの睡眠薬が処方された。


確かに、その睡眠薬はよく効いた。

それさえ飲めば、あっというまに眠くなって、

夜中に何度も目を覚ますようなこともない。


けれど、眠りに落ちる寸前に、幻覚を見るようになった。


それが始まると、身動き一つできず、目を閉じることもできない。

灯を消した後の真っ暗な部屋、

その中央の空間がねじれ、ソフトボールほどの穴が開く。

そこに、部屋中の空気がものすごい勢いで流れ込んでいく。

しまいには、自身の体すらと吸い寄せられて――

あまりの臨場感に気を失うと、朝が来ている。


それが、夜ごとに繰り返される。

日を重ねるにつれ、穴はだんだんと大きくなっていき、

それと比例するように吸い込む力も強くなっていく。


さらには、その穴の中に、おぞましい存在が見えるようになった。

それは人の姿をしているのだが、顔も胴体も、果ては手足の先に至るまで、

無数の口で埋め尽くされていた。

そいつは、どうやら自分を食べようとしているのだが、

穴から外にでることができないので、

何とか向こう側に引きずり込もうとしているようだった。


「もし、前触れもなくこんなことが起きたら、途方も無く恐ろしかったでしょう。

ただ、薬が原因だってことがはっきりしていましたから、そこまで怖くは……」

Uさんは、ちょっと考え込んでから、

「例えて言うなら、ジェットコースターに乗っているのと似た感覚ですかねえ。

本能的には震えが止まらないほど怖いのに、頭では安全なことがわかっている。

……うまく伝わりますか?」


わかるような、わからないような……


それはさておき、

件の穴は着実に広がっていき、昨晩には、

人の体を吸い込めるほどの大きさにまでなっていた。


(こりゃあ、今日の夜には吸い込まれるな)


Uさんは直感的にそう思ったが、特に何をするでもなかった。


「しょせんは悪夢に過ぎませんし、仮にその化物に食い殺されたとしても、

明日、仕事に行かなくて済むなら、それはそれでいいかなあと。

……むしろ楽しみなくらいでしたよ」


いつものように睡眠薬を飲み、床に就く。

けれど、その晩は幻覚を見ることなく、そのまま朝になってしまった。





(ああ……生きてる……あああ……仕事に行かなくちゃ………)


1割の安堵と9割の不満、

そんな気分で目を開けると、違和感があった。

見慣れた自室ではあるのだが、明らかにいつもと違う。


はっとして目を凝らすと、部屋の中いっぱいに、




花、花、花、花、花、花、花、花、花、花、花、花……


 花、花、花、花、花、花、花、花、花、花、花、花……


花、花、花、花、花、花、花、花、花、花、花、花……


 花、花、花、花、花、花、花、花、花、花、花、花……


花、花、花、花、花、花、花、花、花、花、花、花……




――無数の白い花が浮いていた。


花々は、空中に固定されたかのよう、微動だにしない。

それらは、一見すると百合の花のようであったが、

明らかに生花ではなく、どこか記号めいたところがあった。


(なんだ、まだ夢の中か……

それにしても、ずいぶんと現実味のある夢だなあ……)


そんなことを思いながら半身を起こし、

手の届くところに咲く一輪に触れてみる。

すると――


「光の粉を散らしながら、消えていったんですよ。

ちょうど、触った自分の手に吸い込まれるようにね。

それがなんだか、楽しくなってきてしまって、

ひとつ触っては次、ひとつ触っては次……」


そうしてあたり全ての花を消し終えると、

神秘的ですらあった室内は、

まるで何事もなかったかのように見慣れた風景へと戻っていた。


体に変化はない――


何もない――


何も起きない――


外では、鳥が忙しそうに鳴いている――




(わかった、もういいよ。そろそろ覚めてくれないかな……)




苛立ち混じりに玄関のドアをばたんと開ける。

まずは朝日が、両の眼を強く焼いた。

遅れて流れ込んできた外気は、街が平日に発する悪臭を鼻にねじ込んでくる。


「このとき、理屈やら何やらを気が付いちゃったんです。

自分はどうやら、覚醒の世界に中途半端に戻って来てしまったということに」




Uさんは、この日を境に薬を飲むのを止めた。

そして同時に、仕事も辞めてしまった。

今は、海の近くに引っ越して、特に何をするでもなく、

貯金を食いつぶして生活しているのだという。


「あれ以来、魂の半分だけで、

ずっと夢と現実のはざまを彷徨さまよっているような気持ちなんですよ。

一方で、自分の半身は、ちゃんとした現実の世界に残っていて、

今日も仕事をしているんじゃないかって、そんなことを思ったりもします。

さてさて、こうしてあなたと話している今は、

夢の中なんでしょうか?それとも現実でしょうか?」


Uさんは、そこまで言うと自虐的な笑みを浮かべて、


「どちらにしろ、通帳の預金残高は着実に少なくなってきています。

これが0になれば、夢の世界なんぞは木端微塵に消え失せて、

強制的に現実に引き戻されるんでしょうから、

そんなに心配はしていませんけど」

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