玉石奇譚(仮)

吉田 晶

見られている

知り合いのAさんが、山岳信仰で知られるT山に一人で登った時の話。


その山の登山口までは、最寄りの駅からバスが出ており、

Aさんはそのバスを利用した。

バスに乗っている間は、何ともなかった。

天気は快晴。

時期はすでに秋口であったから、早朝の山の空気は涼しく澄んでおり、

車外に流れる景色も実に素晴らしかった。


そのまま何事もなく終点に到着。

期待に胸をふくらませてバスを降りた途端、Aさんは違和感を覚えた。


「例えるなら、あんまり親しくない人の家に初めて上がった時みたいな?

いや、違うな……

常連さんが集うような地方の飲み屋に、うっかり一人で入っちゃったとき……

うーん、とにかく、そんな居心地の悪さがあったんですよ」


ただ、その理由がわからない。

Aさんがそうして戸惑っているうちに、同じバスに乗っていた4・5名の人たちは

さっさと先にいってしまったから、バス停の周囲には誰もいない。


Aさんは、そこまで迷信深い人ではなかったから、そのときは

(妙なこともあるなあ……)

くらいの気持ちしかなかった。

ましてや、わざわざ暗いうちに家を出て、

安くない交通費を払ってここまで来たのだから、

引き返すという選択肢など、初めから頭になかった。


こうしてAさんは、一人きりで山道を歩き始めた。

けれど、30分ほど木々の合間を進んだところで、本能的に周囲を見回す。


――見られている


先ほどの違和感は、ここまでついて来ていた。


その山はそこまで有名でもなく、さらには平日だったから、

すれ違う人もほとんどいない。

でも、やはり誰かに見られているような気がする。


Aさんは、(気のせいに決まっている!)と自分に言い聞かせて先に進んだが、

緊張で冷や汗がとまらなくなってしまった。


「以前、北海道の山に登った時、『熊注意!』なんて書かれた看板のすぐ近くで

突然藪の中からガサガサ!って音がしたことがありました。

まあ、その時は結局ヒグマと出くわすことはなかったんですが、

その時の危機感と似たような気持ちでした」


それでも必死に足を動かしつづけると、林道を抜け、

広場のように開けた場所に出た。


Aさんはその中心に立ち、自分の周囲360度を勢いよく見まわす。

しかし、視界に怪しい人影は見当たらない。


心臓の鼓動はますます速くなる。目に冷や汗が入り、開けているのもつらい。

Aさんは、ほぼ無意識で目薬を取り出し、それを差そうと上を向いた瞬間、


誰かが、見ていた


「禿げ頭で、眉毛と髭がぼうぼうで、いかにも「入道」って見た目でした。

武田信玄の肖像画って見たことありますか?

あるいは、水木しげるの漫画で出てくるじゃないですか、

『○○入道』って呼ばれる類の妖怪、そんな感じの風体を思い浮かべてください。

そいつが、私の頭の上1mくらい離れたところから逆さ吊りの状態で、

こう筋骨隆々の腕を組んでね、私を覗き込んでいたんです。

――そこはちょうど死角になっていたから、気付かないはずですよ」


Aさんは、声にもならない叫びを上げて一歩後ずさる。

その「なんとか入道」は、見つかってしまったことを察したらしく、

眉間に深い皺を寄せ、そのままの逆さ吊りの姿勢で天へと落ちて行った。


「まるで、手を放してしまった風船のような勢いでした」


その姿がケシ粒みたいに小さくなり、やがて見えなくなってしまうまで、

Aさんは身動き一つできなかったという。


「いやあ、その日はさすがに登山をやめて、そのまま家に帰りました。

休日の計画が台無しになってしまうのは悔しかったですけど」

そこでAさんは一息つくと、

「日常生活をしていると、空を見上げる機会ってあんまりないですからね。

もし、視線を感じるのに誰もいないなんてときは、

気を落ち着けてから、頭の上を仰いで見てごらんなさい。

誰かが見ているかもしれませんよ」

そう言って、くっくっと笑った。

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玉石奇譚(仮) 吉田 晶 @yoshida-akira

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