三十四、結婚記念日には







「お、オリヴェル様。そのハンカチ、洗ってお返しします。あ、それよりも、新しい物をお贈りしましょうか」


 領の事を思い涙してしまったデシレアだが、少しして自分が置かれたその現状に顔から火が出るほどに狼狽えた。




 オリヴェル様の指が!


 ハンカチが!


 私の顔に!




 これまで、揶揄うようにつつかれたり、髪を撫でられたりすることはあれど、デシレアの涙を拭うために、オリヴェルがその指を這わせるなど前代未聞。


 しかも、拭い損ねてハンカチを使うという、手慣れていない感も最高、と脳内で絶賛しつつも、その対象が自分となれば気恥ずかしさも臨界点を越える、とデシレアはひとりあたふたしてしまった。


「いや、別に。思えば、こんな事をしたのは初めてだからな。相手がデシレアでもあることだし、このハンカチは、記念に取っておいても」


「オリヴェル様。それは、普通に引きます」


「くっ・・ふふっ」


 いくら推しのオリヴェルの言うこと、やろうとしていることでも、それはちょっと、とデシレアが言えば、どこからか笑い声がした。


「あ」


 何気なくその方向を見て、デシレアは思い出す。


 この部屋にいるのは、自分とオリヴェルだけではない。


 そして、先に話をしていたトールと三人だけでもない。


 当然のように、空気のように、壁際には護衛と、それからリナも居た。


「申し訳ありません、デシレア様。堪えきれず」


 吹き出してしまった本人らしく、リナが頭を下げる横で護衛も肩を震わせている。


 まさかとトールを見れば、こちらはもう、隠すことなく微笑ましい目でオリヴェルとデシレアを見ていた。


「・・・・・いたたまれない」


「領の事を気に掛けての涙だ。気にすることは無い」


「え?」


 デシレアにとっては、当事者のひとりである筈のオリヴェルが、何やら見当違いの事を言っている。




 え?


 オリヴェル様は、今の行動の一切を気にしていないということ?


 みんなに見られて、生温かく見守られていたのに?




 まさかの事態に、デシレアは呆然とオリヴェルを見た。


「きれいな涙だった」


「ありがとうございます?」


 照れた様子で言われた言葉に、デシレアが疑問符で返すもオリヴェルは気にした様子も、気づいた様子もなく、ただデシレアを優しい目で見返している。




 うん。


 最高にきれいな瞳。


 優しさの籠った、穏やかな瞳。




 デシレアには、分かったことがある。


 今、オリヴェルの目をより美しく感じるのは、そこに心、感情があるから。


 それは前世では知り得なかった、現実世界だからこそ感じ、見られるもの。


 この瞳を、そして色々なオリヴェルを、これからもずっと見つめられる距離にいたいとデシレアは思う。


「オリヴェル様。ずっとお傍にいたいです」


「その為の婚約だろう?」


「はいっ」


 即答され、ぱあっと笑顔になったデシレアに、リナがすすっと近づいた。


「デシレア様。ご昼食の用意が、整いました」




 




「も、モルバリ様は、ご結婚されてどのくらいなのですか?」


 熱く火照る頬を持て余し、いまだ漂う生温かく見守る空気を何とかするためにも、と果敢に話題変換に挑んだデシレアに、トールは暫く考えてから答えた。


「あと二ヶ月ほどで、七年目の結婚記念日を迎えます」


「まあ、それはおめでとうございます。贈り物など、されるのですか?」


「いや、もう七年目ですから」


 それを聞いたデシレアは、口角を意識して吊り上げる。


「それは、とても男性らしい回答ですね」


 この国の男性は、結婚して三年目くらいまでは記念日をきちんと覚えているし、贈り物もそれなりにしてくれるが、その後はもう、と既婚女性がこぞって言うような習性を持っている。


 なので、この優しくみえるトールもご多分に漏れずなのか、とデシレアがじと目で見れば、トールは頬を引き攣らせた。


「こ、子どももふたりいますし、結婚記念日と言っても」


「奥様も、そのように?去年はどうされたのですか?」


「帰る時間を幾度も確認されて。残業になりそうかどうか、とか。何故かと思ったら、その日が記念日で。随分手の込んだ料理を振る舞ってくれました。『腕によりをかけたのよ』と笑って。それで、そうだ。花でも買ってくればよかった、と思ったのでした」


 ぽん、と手を叩いたトールに、デシレアは呆れた顔を向けた。


「それなのに、今年はもう忘れていたのですか?それとも、お花は贈り物に数えないとかですか?」


 お花を贈るというのも素敵ですよね、と言うデシレアに、トールは益々顔を引き攣らせる。


「いえ。完全に、忘れていました」


「モルバリ様。奥様が望まれるかどうかも分からないので、余計なお世話かもしれませんが。お花を贈ったら、奥様も喜ばれると思いますよ」


「そうですよね。考えてみれば、もう随分、宝飾の類を贈っていません。伯爵家を継ぐわけでもない、兄が伯爵位を継げば平民となる身です。夜会に着けて行くような物は必要ありませんので、普段使うものであれば自由に買うと思っていたのですが。そういえば妻は、いつも同じペンダントをしていますし、髪飾りも」


 ひとつ気づけば、色々な事が気になりだしたらしいトールは、暫く下を向いて考えた後、思い切ったようにデシレアを見た。


「レーヴ伯爵令嬢。妻への贈り物について、ご相談させていただいてもよろしいでしょうか?」


「もちろ」


「先に、俺の許可を取れ」


 トールの願いに即答しようとしたデシレアを、不機嫌なオリヴェルが遮る。


「オリヴェル様。もちろん、お仕事に支障の無いようにします」


 お任せください、と胸を張るデシレアに、皆が残念な視線を向けた。


「え?あの。皆さん?」


「トール」


「はい。オリヴェル様、自分の結婚記念日の贈り物について、レーヴ伯爵令嬢のお智恵を拝借してもいいでしょうか?」


 真顔で言ったトールに、デシレアはぽかんと口を開けかけて、慌てて意識して閉じる。




 え?


 そっち?


 そもそも『オリヴェル様』って言うってことは、仕事に支障云々は最初から問題でない?


 問題はむしろ、私ということ?


 もしかして、暴走するとでも思われているとか?




「俺の居る所でなら」


「ありがとうございます。レーヴ伯爵令嬢、お願いできますか?」


「ええ。もちろん」


 ぐるぐると考えているうちに、オリヴェルとトールの間での承認も済んでしまい、デシレアはオリヴェルの真意に首を捻りながらも、トールの申し出を快諾した。




 オリヴェル様の居る所でなら、ということは、やはり私の暴走が心配なのね。




「私、もっとオリヴェル様に信頼してもらえるように頑張りますね」


 固く決意して言ったデシレアに、オリヴェルが何を今更というように首を傾げる。


「信頼と実績は、もう充分ある」


「え?じゃあ」


「レーヴ伯爵令嬢。早速よろしいですか?」


 


 信頼と実績が既にあるなら、何故?




 暴走疑惑ではないのか、と問いかけようとしたデシレアだが、トールの言葉にこちらが先と気持ちを切り替える。


「あ、はい。さっきお話に出た、ペンダントや髪飾りも素敵だと思うんですけれど、七年ということなので、七年目の贈り物と分かるような何かを贈るのも、いいかもしれませんね」


「なるほど。ペンダントや髪飾りの裏面に刻印を入れるなどすれば、七年の記念に贈ったと後からも分かりますね」


「あとは、七枚の花びら一枚一枚に、違う宝石や色硝子を使うとか。使う材料によって、普段使いの物に出来たり、ちょっとお出かけ用にと変えることも出来ますわ」


「七種の・・・あっ」


「どうした、トール」


 突然叫びをあげたトールにオリヴェルが声をかければ、そわそわとした様子でトールが幾度も首を振った。


「思い出したのです。妻と初めて会ったのは顔合わせの日だったのですが、その時、虹が出まして。『虹を髪飾りにしたら、きっととってもきれいね』と妻が言ったのです」


「まあ、素敵ですね。では花弁ではなく」


「いえ。妻は花も好きですので、七枚の花びらというのは凄くいいと思います。色使いによっては虹も連想できるでしょうし。ここ数年は、碌に贈り物もしていないのです。少々張り切って、妻を驚かせようと思います」


「貯蓄が減って驚く、などということのないようにしてくださいね・・・と、すみません」


 ついうっかり貧乏令嬢の癖が出てしまった、とデシレアが頭を下げるも、トールは気にしていない風で、頷いている。


「それは大事なことです。見栄を張り過ぎないよう、肝に銘じますね。それで、レーヴ伯爵令嬢。その七枚の花弁を持つ花で、髪飾り用の図案を描いていただけませんか?それと、私は宝石にも明るくないので、宝石の色についてもご教授いただけると幸いです」


「私がですか?専門職の方にお願いした方がいいと思いますよ?」


「いいえ。あの英雄ケーキを生み出したレーヴ伯爵令嬢に図案を描いてもらった、となれば妻も喜びます。もちろん、お礼はしますので」


 満面笑みで依頼され、お礼は要らないので、完成したら奥方に贈った後でいいから実物を見せて欲しい、とお願い返しをして、デシレアはオリヴェルの許可ももらって引き受けた。



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