三十三、推しとの日常
「レーヴ伯爵令嬢。いつも美味しい昼食をありがとうございます。こちら、妻からお礼にと」
オリヴェルが薬を盛られ、無事復帰を果たしてから、半月ほど経ったある日のこと。
最早慣れた足取りで岡持を携えて王城へと赴き、いつもより何だか人の目が気になるな、と思いつつオリヴェルの執務室へ入ったデシレアは、そう言って差し出された包を恐縮仕切りの面持ちで見つめた。
「すみません、モルバリ様。気を遣わせてしまって」
「いいえ!いつも本当に美味しくて、お蔭様で仕事にも張りが出ました」
「確かに。昼食をきちんと摂るようになって、休憩と栄養を補うのは大事だと感じるようになったな。効率が違う」
にこにこ顔のトールの言葉にオリヴェルも頷くのを見て、デシレアの心は
「そのように言っていただけて、すごく嬉しいです。作り甲斐があります」
「こちらこそ、だ。デシレア。それに、今日のように君の笑顔を見られる日は、特にそれを強く思うな」
「そちらは、心の栄養、というものですね。メシュヴィツ公子息」
うんうんと頷くトールに、オリヴェルが目を見開いた。
「心の栄養?何だ、それは」
「言葉通りですよ。心が満たされて、気力が漲る。メシュヴィツ公子息にとって、レーヴ伯爵令嬢はそういう存在なのですね」
「ああ、なるほど。それは、そうかもしれないな」
あっさりと納得し、ちらりとデシレアを見たオリヴェルを、デシレアは熱心に見返す。
「私にとって、オリヴェル様は心の潤いです!毎日ありがとうございます!」
「おや、お熱いですね。流石、噂のおふたり」
トールに揶揄うように言われ、デシレアは首を傾げた。
「噂の、ですか?」
「はい。噂の、です。何といっても、今までどんな妖艶な美女にも、清廉な美少女にも、一顧だにしなかったオリヴェル様が『ただひとり』と言い切って、とてつもなく強い媚薬を盛られながらもその場は耐えきって、使うことを嫌悪していた節のある瞬間移動を使ってまでも、唯一と求めた愛しの婚約者。それが、レーヴ伯爵令嬢ですからね」
あら、モルバリ様。
お仕事でない時は、オリヴェル様のこと、メシュヴィツ公子息ではなくて、オリヴェル様と呼ぶのね。
ということは、おふたりは上司と部下でもあるけれど、仲良しでもある、と。
おお。
知られざるオリヴェル様の交友関係、発見!
「なんだ、それは」
まるで芝居の一節のように言い切ったトールに、デシレアは話の主旨とはまったく関係ないことで感激し、オリヴェルは不快さを装って眼鏡の細い縁を持ち上げるも、その耳は赤い。
「あれ?ほぼ脚色無しの実話だって自信ありますよ。何といっても、その場に居た兄から聞いたのですから」
「お兄様から、ですか?あの、失礼ですが。モルバリ様は、いらっしゃらなかったのですか?」
「はい。私は、伯爵家の出といっても次男ですし、既に婚姻もしていますからね。ああいった場には、余り行きません」
「それは、物知らずで失礼なことを申しました」
はっとして頭を下げるデシレアに、トールは気さくな笑顔をむけた。
「いえいえ、お気になさらず。普段は行きたいとも思わないのですが、こういう事があると、この目で見て、耳で聞きたかったと思います」
「お前は、噂好きの雀か」
「噂好きとは違います。私は、現場を見たかったのですから。それも、オリヴェル様が主役だというので、ですが」
「・・・・・」
「主役!そうですよね!オリヴェル様は、絶対主役に相応しい方ですよね!だって!誰よりも美しいですし、誰よりも強いですし、誰よりもやさし・・うぐっ」
主役というトールの言葉に絶句したオリヴェルを余所に、前世からの推しであり、誰よりも幸せになってほしいと願うオリヴェルだって主役に相応しいと思って来たデシレアは、我が意を得たりと嬉々として話ししていて、突然口を塞がれた。
「もごっ・・ごっ」
待ってください!
何も王子殿下や聖女様が主役に相応しくない、と言っているわけではなくてですね!
淑女らしからぬくぐもった声を上げながら、自分の口を塞ぐオリヴェルの手を外そうと試みるも、その大きさや厚みはデシレアの力でどうこうなるものではない。
ギブ!
ギブぅっっっ!
本気で命の危機を感じたデシレアは、懸命にぺしぺしとオリヴェルの手を叩いた。
「ああ。可愛い子猫に叩かれているようだな」
「うぐっ・・もごっ」
「苦しいのか?」
「ぐぐっ」
「そうか。ならば、いい子にしていると誓えるか?」
誓う!
誓いますから!
声に出せないデシレアが、懸命にこくこくと頷けば、オリヴェルが少しだけ手を緩める。
「本当だな?」
「んっ」
こくっ、とオリヴェルの手ごとひと際大きく頷き、デシレアは涙目でオリヴェルを見あげた。
「そんなに放して欲しいのか」
「んっ」
それはもう!
とっても、とおっても苦しいですから!
これで放して貰える、と思い、こくこくこくっ、と縋るようにオリヴェルの腕を掴みながら、思い切り何度も大きく頷いたデシレアを、オリヴェルは何故か不快そうに見つめた。
「何だか、面白くない」
そして、ぽつりと呟く理解不能な言葉。
当然、デシレアの口を塞ぐ手も放されないまま。
なんで!?
どうして放してくれないの!?
はっ。
もしかして、私をおもちゃと見立てて、対価に何か面白いことをしろとでも!?
さっきより更に緩んではいるものの、その拘束から解放はされず、デシレアは混乱ぎみにオリヴェルを見つめる。
「だって、そうだろう。それほど、俺の手から逃れることを望むとは。俺の手から逃れる、だぞ?傍に居たくないとでもいうのか?許し難い」
「うぐ?」
オリヴェル様の手から放れたがるということは、それ即ちオリヴェル様の傍に居たくないと思うのと同意?
無い無い無い!
傍に居たくないなんて、絶対に無い!
ってことは、このままでも・・・・って違う!
「・・・っ!オリヴェル様っ。それは意味が違いますっ!」
息苦しさも限界を迎えたデシレアは、火事場の莫迦力の如く集約した力を発揮し、オリヴェルの拘束から逃れ、精一杯息を吸った。
「何だ、元気だな」
「本気で殺す気だったのですか!?」
「そんな訳ないだろう。加減は心得ている」
「じゃあ、本気になったら、私などいちころ」
「当然」
「はうぅ。容赦無し」
「俺に敵おうなど百年、いや千年早い」
「それ、かるかんにも言われたやつぅ」
ここが執務室だということも、脳裏から飛んでいるのか。
ぽんぽんと軽妙に言い合うふたりは、既にしてトールの存在を忘れている。
「おお。こんなやり取りを生で見られるのは、僕だけの特権か。兄上に自慢できるな」
そんなふたりを、トールは記録するかの如く、温かく笑みながらじっと見つめていた。
「わああ。見事な刺繍ですね」
トールが妻から預かって来たデシレアへの礼の品は、きれいな刺繍が施されたハンカチだった。
縁取りもレースできれいに飾られていて、ちょっとした集まりで手に持っているのも素敵だと、デシレアは見惚れてしまう。
「妻は、手先がとても器用なのです。婚約時代から、私にも色々な品を贈ってくれて。結婚して、最初の子が生まれるとなった時などは、お出かけ用の服から下着まで、それぞれ布を吟味して手縫いしていました」
「お出かけ用の服もですか?それに下着は、とても繊細な肌の赤ちゃんの事を考えなければならない、大変な縫物だったと記憶しています。奥様すごいですね」
裁縫は余り得意でないデシレアは、真剣な目で刺繍を見つめた。
これくらいの腕があれば、私も職人として収入を得ることが出来るし、領の女の子たちにも教えてあげられるものを。
「はあ。本当に羨ましい・・・」
「デシレア」
「っ。はい、オリヴェル様。何でしょう?」
「いい匂いがして来た。今日は、何だ?」
オリヴェルに問われ、デシレアは凝視していた刺繍から目をあげる。
「今日は、じゃがいものグラタンと、ソーセージとブロッコリーの炒め物、それとスープとパンとサラダです」
「そうか。美味しそうだ」
嬉しそうに言うオリヴェルに、デシレアも微笑みを返し、他人を羨むことをやめて給仕に勤しむ。
「素敵な贈り物をありがとうございます、モルバリ様。奥様にも、よろしくお伝えください」
「はい。妻も喜びます。実は子どもが生まれてから、なかなか刺繍の時間が取れないらしくて。今回、レーヴ嬢に贈るにあたって、久しぶりで楽しかった、と晴れ晴れとした顔をしていたので、私としても嬉しかったです」
「お子さまがいらっしゃると、針仕事は危なくもありますものね」
言いながらスープの具合を見ていたデシレアは、オリヴェルがじっと自分を見ていることに気が付いた。
「オリヴェル様、もう少しお待ちください」
「待つ?それは、子どもの居る実体験を」
「スープですよね?あと少しで温まりますから」
「む。それは、見ていれば何となく分かる」
憮然として言われるも、理由が分からずデシレアは首を傾げる。
「そうですか。あ、分かっても見ていたい、その過程を、という」
「違う。その。先ほどから、赤ん坊の下着や服のこと、子どもが居ると針仕事は危ないなど、やけに詳しくないか?まるで、実際の経験があるかのようだ」
「ああ。それは、領で孤児院や託児所のような事もやっていたので、それでです」
「領で?そうか。慰問に行ったのか」
デシレアの説明に、オリヴェルが納得とばかり晴れやかに言った。
領に孤児院や託児所があるのは分かるし、デシレアがそこへ慰問へ行くというのも領主の娘として当然のこと。
そう思い安堵したオリヴェルは、続くデシレアの言葉に己の狭量を悟った。
「慰問というか。我が領は、魔物の異常発生で、多くの犠牲者が出ましたから。それで」
「っ。すまない・・っ」
二年ほど前、レーヴ領で起きた魔物の異常発生。
それにより多数の犠牲者が出たことは、オリヴェルとて知っていたのに、つまらない悋気でデシレアの傷を抉るような真似をしてしまった。
「大丈夫です」
ゆるゆると力なく首を振るデシレアに、いつもの活気は無い。
恐らくは領のこと、領民のことを思い出しているのだろうと思うと、オリヴェルは胸が塞がる思いがする。
「デシレア。今度、レーヴ領へ一緒に行こう」
そっと近づき言えば、デシレアが涙に潤んだ瞳をオリヴェルに向けた。
「託児所や孤児院の子ども達に、俺のことも紹介して欲しい」
「オリヴェル・・さま・・」
無骨な指がデシレアの涙を掬おうとして失敗し、自分のハンカチを取り出して慌てて拭う。
そんなオリヴェルの無器用な優しさに、デシレアはまた一粒、涙を零した。
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