二、推しとの遭遇
「なるほど。ここであの悪趣味なケーキを作成している、という訳か」
英雄達の凱旋から数日経ったある日の、とある小さな菓子工房。
アストリッドから任され、大切にしているそこを不機嫌な様子で見渡す推しの背中を見つめ、デシレアは静かにパニックを起こしていた。
え!?
何がどうなってどうすれば、オリヴェル様がここに居ることになるの?
英雄ケーキは、その凱旋の日が売り上げのピークだとのデシレア達の予想を裏切り、その後更なる人気を博し売れ続けているため、デシレアは連日工房に籠って英雄ケーキを作る日々を過ごしている。
嬉しくも忙しい、その一端となったのは、英雄ケーキに使っているデコレーションの元絵を店に展示したこと。
拙いとはいえ、愛情を込めて描いた元絵たちを最後にみんなに見て貰えたら、と思った、それだけだったのに、思いもかけず熱狂され、デシレアは元絵に群がるお嬢様方を信じられない瞳で見つめた。
え?
英雄様方を描いているとはいえ、私の絵ですよ?
皆さん、正気ですか?
かなり引き気味にデシレアは思ったものの、その心の声など誰にも聞こえる筈も無く。
それどころか、一枚しか元絵が無いのならば複写して欲しいと言われるほどの人気となってデシレア自身はとても驚いたが、アストリッドは意外そうな様子も見せず、嬉々として日々対応に励んでいる。
『何をそんなに驚いているのよ。そもそも、元絵を飾ろうと言ったのは貴女じゃないの』
アストリッドは何を今更と苦笑気味に言うけれど、デシレアが元絵を飾ろうと思ったのは、人気が下降していくだろう英雄様達の絵を、せめて最期に陽のあたる場所にと考えたからに他ならない。
私が描いたのだとしても、英雄様達には変わらないのだもの。
せめて最期に、みんなの目に触れられたら嬉しい。
ただそれだけの、いわば推したちへの鎮魂のための催しだった筈だったのだけれど、それが何故か大人気となってしまった。
それともうひとつ。
というより、そしてなによりと言うべき事柄が、英雄のひとりである双斧を扱う戦士ディックが店を自ら訪れ、絶賛してくれたこと。
『味も格別だし、個々のケーキを寄せると一つの大きなケーキになるというのも、我らを表しているようで秀逸だ』
と、その見ためも味も素晴らしい、と手放しで褒めてくれた。
その時は単純に気に入ってくれたのが嬉しかったのと、大きな身体の男のひとが甘党ってなんか可愛い、と豪快にケーキを食べるディックを見ていたデシレアだったが、その後から来るわ来るわ、英雄ケーキを求める人の列は益々途切れることを知らず、それでも一日に作れる数には限りがあるため、現在は完全予約制とさせてもらっている。
それでも、人々の興味が逸れる前に楽しい気持ちで受け取ってもらえるように、とデシレアは、午前と午後にその日の分のケーキを納品した後、翌日分の仕込みまでもするという、かつてない稼働時間で対応している。
そして今日も漸く一日の作業を終えようかという、ほっと一息の時間に突然推しが訪ねて来て、デシレアは固まった。
生きて動く推しが目の前に居る。
その緊張で動きが硬くなるデシレアを余所に、推しことオリヴェルはつかつかと工房内へと立ち入り、無遠慮に周りを見渡した。
「私の名は、オリヴェル・メシュヴィツ。君に折り入って話がある。作業に支障の無い場所は何処だ?」
「あ、なら、こちらに」
尋ねられ、休憩室にオリヴェルを案内したデシレアは、置いてあるソファをオリヴェルに勧めてから、お茶の支度に取り掛かる。
といっても別に厨房があるわけではないから、オリヴェルを背に、自分の休憩用に用意してあるお茶をその場で淹れることとなり、デシレアは当然のように緊張した。
推しが、私の生活圏内に居るなんて、これは夢?
夢なの?
余りの現実感の無さに、自分の手の甲を抓ってみても痛いだけ。
夢じゃない。
でも、じゃあ何で来たの?
推しが、お茶を淹れる私の後ろに居るとか、これはご褒美?それとも試練?
推しがわざわざ工房を訪ねた理由が判らないまま、蒸らし終わってしまった紅茶をカップに注ぎ、デシレアはオリヴェルに供した。
「ありがとう・・・うん。趣味の悪いケーキを作る割に、茶を淹れるのは上手いな」
オリヴェルはデシリアに礼を言い、紅茶をひと口飲んでそう言った。
「畏れ入ります」
嫌味と誉め言葉が一緒に来たが、とりあえず褒められた事にデシレアが礼を言えば、オリヴェルが眼鏡の細い縁を持ち上げる。
「今更の確認だが。今巷で流行っている趣味の悪いケーキ・・・英雄ケーキという恥ずかしい名のあれを作っているのは、君だな?デシレア・レーヴ伯爵令嬢」
「っ・・・はい、そうです」
突然名を呼ばれ、デシレアはぴんと背筋を伸ばした。
推しに名前を呼ばれるとか・・・・!
でも、悪趣味な、とか、恥ずかしい名、なんて言う、ってことは苦情かな。
推しに罵られる。
その覚悟をしたデシレアに、オリヴェルは判決を言い渡すように言った。
「そうか。ではその責任を取って、俺と契約婚約、そして契約結婚して欲しい」
「は?」
責任を取って、というからには、やはり苦情なのだろうとデシレアは思う。
しかし、その後の言葉が何か、おかしかったような。
「デシレア・レーヴ伯爵令嬢。君がきちんと陛下の許可を取って、あのケーキを作成、販売していることは知っている。だが悪趣味に過ぎ、当事者である俺は気分を害した。よって、その精神的打撃、苦痛に対する慰謝料を請求したい。とはいっても、金銭は必要としていないからな。その代わりに、俺と契約婚約し、そのまま契約結婚しろ」
予想外の言葉にデシレアの脳内処理が追いつかないなか、オリヴェルは追撃するように今度は命令して来た。
「あの、すみません。意味がよく」
「何処が理解出来て、何処が理解できない?」
漸く言葉を発したデシリアの問いに、オリヴェルが教師のような問いで返す。
「私の作ったケーキでご気分を害された、のは分かりました。ですが、その慰謝料として契約婚約、契約結婚、というのは?」
「言葉通り、契約に基づく婚約、婚姻を結んで欲しいということだ」
「つまり、表面上の、ということでしょうか?」
「そうだ。俺には元々婚約者はおらず、家の者が煩くはあったのだ。それが、今回の騒ぎで更に酷くなった。勝手に決められるのを回避するには早急に相手が必要なのだが、そもそも俺は結婚するつもりが無い」
そう言って、オリヴェルは群青の瞳を曇らせた。
あー、なるほど。
オリヴェル様ってば、共に戦った平民出身の聖女エメリに想いを寄せているけど、エメリはカール王子を選ぶから。
話の筋書を思い出し、デシレアはひとり頷いた。
出来るなら、エメリを想ってひとりでいたい。
けれど、公爵家の嫡男である立場がそれを許さない。
加えて、王子カールや聖女エメリに自分の気持ちを悟らせたくない。
だから、実質の夫婦関係にならない契約婚約、契約婚姻を望む、と。
わあ、分かる。
そうよね。
聖女エメリを想っていたいよね。
でも、どうしよう。
推しの願いだから叶えてあげたいけど、私の信条は『推しとは、遠くから見つめて
ふむ、とデシレアが悩んでいると、オリヴェルがきらりと眼鏡を光らせた。
「俺の条件を呑んでくれるなら、レーヴ領への潤沢な支援も約束しよう」
「分かりました。是非、協力させてください」
信条云々、などと考えていたデシレアは、オリヴェルのそのひと言にすべてを投げ出し、前のめりにそう答えた。
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