第30話 失敗

 誰かに頭を撫でられている、そんな感覚とともに真桜の意識が浮上した。


(……あったかくて、優しくて、落ち着く)

 その手は母のそれではなく、もっと大きく温かい――そう、たとえば昨日背中に回された暁翔の手のような。


 その瞬間、彼女はハッと目を開いた。


 部屋は静まり返り、耳に届くのは鳥のさえずりと風の音だけだ。布団に身を起こした真桜は、辺りを見回す。


 障子から薄明かりが漏れている、夜が明けたのだ。


(……暁翔様は、いらっしゃらない)

 畳まれた隣の布団を見、そして彼の不在を確認すると、胸に手を当てて真桜はゆっくり息を吐く。


 彼の存在を感じた気がしたのは、夢の中の錯覚だったのだろうか。その夢を見たのも昨日のことがあったから。微かに彼の高貴な香りがした気がしたけれど、それが昨日の余韻を甘く引く。


(行火代わりだとしても……嬉しかった)

 ふいに、彼の腕の中に包まれた感覚を思い出し、真桜の顔が一気に熱くなる。


「うう……こんな顔、みっともないと思われちゃうかも」

 真桜は茹った頬を両手でしばらく押さえていたが、やがて諦めたように襟を正すように肩を軽く叩く。


(暁翔様が本当に必要としているのは、穢れを祓う力のはず!)

 結局昨日は感謝を伝えることができなかった、ならば自分にできることで彼の役に立とうと、彼女は気合いを入れて布団から出た。


 朝の支度を済ませた真桜は、急いで離れへ向かう。そこでは既に八坂たちが準備を整えて待っていた。机には巻物や古い文献、いくつかの精巧な神具が並んでいる。


 暁翔も既に来ており、文献を手に取って静かに読み込んでいた。その姿は威厳があり、どこか神聖ささえ感じさせる。


「おはようございます」

 じわりと頬が熱くなったが、できるだけ意識しないように挨拶した。


「おはよう、真桜」

 暁翔は短く応じたけれど、その目はしっかりと真桜を見つめていて、その真摯な眼差しに真桜の心臓がまた高鳴る。


「おはようございます」

 八坂と礼司がにこやかに声をかけてきたので、固まっていた視線が解けた。


「今日も結びの力を使った実験をするのですよね?」

 ホッとしたように彼らの方へ向かって尋ねる。


「そうです。今日はこちらの鏡にしましょうか。本質を映す鏡とは違い、妖力を跳ね返す代物ですが、もしうまく真桜さんの結びの力を籠められれば、穢れを跳ね返すことができるかと思いまして」

 八坂が、手にした巻物を広げながら説明する。


「わかりました!」

 真桜は少し緊張した面持ちで、長机の上に載っている鏡を見た。


(頑張らなくちゃ……暁翔様の役に立てるように)

 自分を奮い立たせるように深呼吸する。


 真桜は、白木で作られた八角形の鏡の前に立った。それは滑らかに磨かれ、澄んだ反射面が彼女を映している。


「あなたの力を集中させて、鏡に注ぎ込んでみてください」

 八坂が隣で冷静に指示を出す。


「はい……」

 真桜は緊張しながらも深く頷き、両手をそっと鏡の上にかざした。


(落ち着いて……まずは力を流し込むことに集中するの……)

 真桜の指先から柔らかな朱色の光が生まれ、それがふわりと鏡の表面を覆っていく。光は一瞬穏やかに広がり、成功の兆しを見せたかのように思えた。


 室内の空気が微かに揺れるのを感じながら、彼女は目を閉じて心の中で祈るように力を込めた。しかし、思考の隅に暁翔の存在が浮かび、どうしても集中が乱れてしまう。


(どうしよう……暁翔様の視線が気になる……っ)

 一度意識してしまうと、なかなか振り払うことができない。これではいけないと思うのに胸が熱くなるのを感じたその瞬間、ピシッという鋭い音が響いた。


 真桜が驚いて目を開くと、鏡の表面に亀裂が走り、裂け目が広がっていくのが見える。


(あ、割れる――!)

 そう悟ったと同時に大きな破裂音がして鏡が砕け散った。


 時間がひどくゆっくりと流れるように感じられるのに、避けることができない。


 鋭い破片が光を反射しながら空中に舞い上がり、真桜は咄嗟に目を閉じ、肩をすくめた。しかし、その刹那、誰かが彼女の腕を強く引き寄せる。


「危ない!」

 暁翔の声が真桜の耳元で響き、体が彼の胸に包まれた。彼は素早く真桜の頭を抱え込み、自分の背中で飛び散る破片を受け止める形になる。


 彼の腕の力強さ、温かさ、そしてほんのりと感じる彼の匂い――。


(暁翔様!)

 彼の鼓動が近くで感じられ、真桜の心の奥で琴線を弾かれるような鮮烈な音が響いた。


 やがて破片が床に落ちる音が静かに響き、部屋の中が再び静寂に包まれると、暁翔は真桜をそっと抱えた腕を緩める。


「大丈夫か?」

 暁翔の低い声が耳元で響き、真桜はゆっくりと顔を上げる。目の前には彼の整った顔が近くにあった。その真剣な表情と、額にうっすら汗を浮かべている様子に、胸の高鳴りが止まらない。


「は、はい……あの、その……暁翔様は大丈夫ですか?」

 真桜の顔はみるみる赤く染まり、彼の腕の中から距離を取ろうとするが、まだ少し震えていてうまく動けない。


「結界を張った。誰にも当たっていない」

 暁翔はそんな彼女の様子に眉を寄せた。


「も、申し訳ありません……また、失敗してしまって……」

 真桜は八坂と礼司の方を見たが、彼らも問題ないというふうに頷く。


 俯いて小さくなりながらも、暁翔の腕からそっと離れた。その瞬間、彼女の頬に当たっていたぬくもりが消え、少し寂しい気持ちが胸の奥に広がる。


(こんな時に、私は何を考えているの……っ)

 下手をすれば全員が怪我をしていたかもしれないのだ。暁翔に感謝することがまた増えてしまった。


「何か気になることでもあったか? 霊力が不安定だった」

 彼の言葉に、真桜はハッと顔を上げる。


「……あ、いえ、鏡に跳ね返されそうになって」

 真桜は咄嗟に嘘をついた。まさか目の前のあなたのことが気になっていたのです、とは口が裂けても言えない。

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