第11話 道の真ん中で喧嘩することなかれ

 ぱちりと目が覚めた。楓はゆっくりとまばたきをして、まだ暗い部屋の中で抱きしめた刀の感触を確かめる。


 行かなければ。


 立ち上がろうと硬い床に手をついたつもりで、手は柔らかい敷きパッドに沈み込む。驚いて、手を引っ込めた。そういえば、昨夜はベッドの上で壁に背を預けたまま眠ったのだ。


 ……行かなければ。


 無言で制服に着替え、髪をひとつに結う。早朝の澄んだ空気を吸い込んで、寮の部屋を出るためにドアノブに手をかけた。


「どこに行くのかしら? 今日は月曜日だから学校あるわよ」


 ハッとして楓は振り返る。寝間着姿の木葉が眠たそうな顔をして立っていた。もう一度まばたきをすれば、やっと楓の頭も状況の理解を始める。そういえば、同室の木葉は二段ベッドの上で眠っていたのだった。入学式の日に昼食を終えた後、寮の部屋までついてくるものだから驚いたことは記憶に新しい。


「……ぼ、くは」


 木葉がすっと手を伸ばした。楓は思わず肩を縮こめて目を固くつむった。けれど、いつまでも何も起こらないから、そろそろと目を開ける。木葉は手を下ろして、ごめんなさいと呟いた。


「……もう、毎日夜徒やとを狩らなくてもいいのよ」


「あ、あははは、そっか。そうだよな、ついクセでさ」


 慌てて笑い声を上げて、頭をかく。


「起こしちゃってごめんな」


「いいのよ、そのくらい。あと二時間で食堂も開くから、それまでゆっくりしましょ」


 ちらりと時計を見れば、きっかり四時半を刻んでいた。食堂が開くのは六時半からだ。


 土曜日に天宮の屋敷に訪れ、日曜日は寮に戻って荷解きやらなんやらで時間を使った。そして、月曜日からは本格的に授業が始まると、日曜日の夜は早く眠ったのだった。


 開いたばかりの人気のない食堂で朝食を済ませ、八時前に寮を出る。寮と校舎は同じ敷地にあり、徒歩十分くらいの距離感だ。登校するにはまだほんの少しだけ早い時間、舗装された道を歩く生徒の姿はちらほらと。


「刀持ってきていいんだな」


 腰のベルトに刀をいた楓はるんるん気分で足を進める。今までともに時間を刻んできた愛刀があるのとないのとは大違いだ。


「ええ、私たちがここで学ぶ最大の理由は夜徒やとへの対抗手段を備えること。有り体に言えば、戦闘技術を磨くこと。だから、武器の携帯は許されているの。生徒間の決闘とかも、一応」


「決闘かぁ。すごいんだな、色々と」


 学校ってもっと大人しい場所だったような。けれど、多くの人々は五星結界という限られた空間に閉じ込められて、しかもその外では人を喰らう獣が歩き回っているのだ。のんびり構えていられる余裕がないのも理解できる。


「あなたも色々気をつけなさいよ。天宮のもりであなたを襲った相手はまだ捕まっていないのだし」


「んんん、ボクが狙われたのか? あれ」


 光希とともに巻き込まれたので、てっきり光希が狙われたものだとばかり勝手に考えていた。


「ええ、今まではそんなことなかったもの。けれど、天宮直系の娘が現れたことをもう嗅ぎつけた連中がいるみたいね」


「天宮の娘だと狙われるってこと? でも、確かに、天宮は霊能力者の血筋の中で一番すごい家なわけだから、そういうこともあるのか……」


「大体合ってるわ」


 と、そこで木葉は唐突に足を止めた。振り返らずに彼女は問う。


「──光希、いるんでしょ?」


 振り返れば、後ろで光希が顔をしかめていた。まじまじと楓は光希を見つめる。すると、光希はそっぽを向いた。


「偉いわね、ちゃんと仕事してるじゃないの」


「うるさい。偶然だ」


 木葉にバシバシと背中を叩かれて、心底嫌そうな顔をする光希。偶然、という言葉が真実なのかは楓には分からないけれど。


「ほらほら、挨拶しなさい二人とも」


「なんだよ! おれは、おまえらとは関わりたくないって言ってるだろ!」


「あら? そんな口聞いていいのかしら?」


 光希は黙り込んだ──のではなく、木葉のかかとが足に突き刺さった痛みに声が出ていないだけだ。憎々しげに光希は木葉を見て、それから楓を見る。


「な、なんだよ! 別に、それはボクのせいじゃないぞ! 自業自得だからな!」


「……くそっ」


 出会ってからずっと変わりのない険悪な視線同士が交差する。


「おっはよー! 楓! 木葉!」


 底抜けに明るい声に楓は思わずまばたきをした。笑顔で手を振っているのは、くせ毛をポニーテールにした少女、夕姫ゆうきだ。その手にはぐったりとした男子生徒の首根っこが掴まれている。


「見なさい、夕姫はきちんと挨拶できているわよ」


 木葉が腕組みをしてふんぞり返っている。


「「おまえが言うな!」」


 楓と光希は同時に木葉を睨みつけた。そう言う木葉が挨拶のあの字もしていないことを忘れる二人ではなかった。


「ええっと、声かけない方がよかったかな……?」


「いやいや、全然大丈夫だよ! おはよ、夕姫。声かけてくれてありがとう」


「ええ、おはよう、夕姫」


 楓と木葉が挨拶を交わしていた間に光希はいなくなっていた。楓は内心で溜息をついた。いくら何でもあの無愛想野郎は態度が悪すぎる。


「光希には、逃げられたわね。まあいいわ、教育というものには時間がかかるという話だから」


 木葉の腹黒い微笑みに楓と夕姫は凍りついた。


「ええっと、俺なんでここにいるんだっけ……?」


 夕姫にずるずると引きずられていた少年が寝ぼけた声で呟く。夕姫は信じられないことにその少年のくせ毛がちな頭を全力で叩いた。朝の通学路にすぱーんと爽快な音が響き渡る。


「へ!? なになに!? なに!?」


夕真ゆうま! 起きろーっ!」


 呆気に取られる楓と、まばたきを繰り返す木葉の前で、夕姫と、夕真と呼ばれた少年が取っ組み合いを始める。


「俺まだ寝るの!」


「バカバカバカ! 今日からフツーに学校なの! いいから、ちゃんと、起きろーっ!」


「うるさい! 寝るったら寝るー!」


 夕姫にしがみついてダダをこねる夕真は半分も目が開いていない。どうやら寝ぼけたままらしい。


「朝からうるさいのはそっちだー!」


 青筋を額に浮かべ、夕姫が拳を振りかぶる。ゴッ、と鈍い音がして、夕真の半分しか開いていなかった目がパチリと開く。


「……やったな、夕姫!」


 夕真の拳が飛んで夕姫の頬を綺麗に捉えた。楓は思わず顔をしかめ、駆け寄ろうかと足をぴくりと動かす。けれど、その間にも夕姫は頬を腫らしたまま夕真に向かって突進していく。


「やったな、夕真! くらえっ、『雷火らいか』!」


 バチリと紫電が空気を焼きながら駆け抜ける。夕真が一歩足を引かなかったら、紫電は夕真の足を焼いていたことだろう。


「なんで今日だけ術式が前に飛ぶんだよ!? 『水月すいげつ』っ!」


 夕姫の頭上で水球がばしゃりと弾け、夕姫はずぶ濡れになる。せっかくの新品の制服がびしょびしょだ。地面に水たまりを作りつつ、夕姫は啖呵を切った。


「……く、こんなの卑怯だって! 許さないんだから!」


 そうして術式の応酬は収まることを知らずに激化していく。始業の時間も近づいてきたことなので、道行く生徒たちがわらわらと夕姫と夕真の周りに集まってきた。しかし、当の本人たちにはまるで周りの様子は見えていないようで、ぎゃあぎゃあと叫びながら術式を乱発している。雷撃に火球に、氷のつぶてにそれから土なんかも宙を舞う。つかみ合いから術式の撃ち合いまで幅広く、挙句の果てに革靴までもが凄まじい勢いで投げられていく。


「おっと」


 高速回転しながら襲い来る革靴は楓の顔面を直撃するコースを取っている。けれど、まばたきの内に革靴は楓の手の中にいい音を立てて収まっていた。形とサイズからしてこの靴は夕姫のものだろう。やれやれ、と楓は靴を片手に肩を竦めた。


 喧嘩が勃発した辺りから黙り込んでいた木葉が突然、神妙に呟いた。


「……なんて、醜い争いなの」


 ガクッと楓は脱力する。


「夕姫! 学校始まるからそろそろ喧嘩やめよ?」


 混沌とした通学路で聞き覚えのある少女の声が響いた。野次馬をしていた生徒たちがざわついて口にしたのは、安良城あらきという名前と神林かんばやしという名前だ。


「僕たちで収めちゃっても大丈夫かな」


「そろそろ風紀委員会が出張ってくる頃合いだし、大丈夫じゃないかな」


 入学式の日に光希と親しげに話していた二人は、喧嘩が繰り広げられている輪の中に臆面もせず入っていく。背の低い安良城夏美はそれでいて確固とした存在感を放ち、神林涼は温和な微笑みを浮かべていてなお強い芯を感じさせる。だからこそ、誰もが二人に目を奪われた。


「『第五式、ふうの陣』」


 唇に術式の名を乗せて、そして夏美の足元で幾何学図形を連ねた陣がくれないに花開く。その範囲内で飛び交っていた術式がすべて、蒸発するように解けて消えた。


 キョトンとしたのも束の間、すぐさま喧嘩を再開しようとする夕姫と夕真の元に涼が軽やかに歩いていく。


「二人ともそのくらいにしておこうか。もうすぐ授業が始まるよ」


 角を突き合わせている二人を涼は軽く引き剥がした。一切の無駄を感じさせない動作は武術を高い練度で身につけている証。楓はそっと刀に触れ、詰めていた息を吐き出した。


 派手な喧嘩が呆気なく収束し、野次馬をしていた生徒たちも各々自分の教室へ歩き去る。楓と木葉はその流れに逆らって、朝から騒いだせいか、ふにゃふにゃになって地面に座り込んでいる夕姫と夕真の元に向かった。


「夕姫、大丈夫かー?」


 しゃがみこんで夕姫と目線を合わせ、楓は革靴を夕姫に返す。


「う、うん、ごめん、ありがとう、朝から……」


「うちの姉がみっともないトコ見せちゃったな、ごめん……」


 夕姫と夕真はそう言って、同じ角度で頭をしおらしく下げた。さすがに授業開始日に派手にやらかしてしまったのはよろしくなかったと反省しているらしい。


「えっ、姉? 夕姫、弟いたの?」


 空耳を半分疑いながら楓が聞けば、夕姫は頷いて肘で夕真を指す。


「そだよ、私たちは双子なんだ。で、こいつが私の愚弟、笹本夕真」


「は? 今なんつった?」


 即刻拳を握り始めた夕真を、すかさず涼が止める。応戦準備を始めた夕姫を止めに行くのは夏美の方だ。


「とりあえず教室に行こう。初っ端から遅刻したらマズいと思うし」


「夕姫もほら立って。楓も困ってたんじゃない?」


 夏美は夕姫を引っ張って立たせながら、楓に眉を下げてみせた。そこで話が飛んでくるとは思ってもいなかったから返答が遅れる。


「え、あ。いやー、面白いなって」


「面白い?」


 涼が聞き返す。まだ話したことのない涼からの問いかけに、楓はパタパタと手を振った。


「えっと、その、こんな風に術式使って姉弟喧嘩するとか、びっくりしてさ」


「確かにそうだね。しかも通学路のど真ん中で」


 そう言って爽やかに涼は笑う。涼たちは楓が無能であることは知らないはずだ。だから、本当は術式の撃ち合いを初めて見て驚いたのだとは言えなかった。楓の顔が曇ったことを涼は違う意味で捉えたらしく、軽く頭を下げる。


「突然声かけちゃってごめん。天宮さんとは同じクラスみたいだし、知ってるかもしれないけど、一応自己紹介をしておくよ。僕は神林涼、よろしくね」


 俺も俺も、と夕真も声を上げる。


「Aクラの笹本夕真です。よろー」


「あ、うん。ボクは天宮楓。二人ともよろしくな!」


 一気に賑やかになった周りに少しだけ戸惑いながら、こうして楓の一日は始まった。





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