十一、
「分かった。用事もあるし、少し外に出てるよ」
浅野はそう言いながら、机の抽斗から紐の付いた札のようなものを取り出した。札には「外出中。急用の方はこちらまで」という文言と、携帯電話の番号。前に釣竿片手の浅野が、この札を下げていたのを見かけたことがある。そういえばこの診療所は、開いている時間の方が少なかったなと思い出し、少し笑ってしまった。外出中とは書かれているが、おそらくこの札を下げて山や川に行っていたのだろう。往診中の浅野を見かけたこともあるが、なぜか虫取り網を持っていたこともある。
「今日、
この診療所には浅野の他にも一人、八ノ塚から通っている
──綺麗だよな、美奈子さん。何歳なんだろ。見惚れちゃうよ。
──お前には祝織がいるだろ。よかったな、巫女様に選ばれて。安泰が約束されたお前が羨ましいよ。
ふと、高校生だった頃の二人の会話を思い出し、胸がざわつく。お手洗いから戻ってきたわたしが廊下にいるとは知らず、楽しそうに話していた二人。自分以外の女性を褒める嘉明に嫉妬したし、わたしを巫女と呼んだ浩介が嫌だった。その時は嫉妬したわたしが「嘉明、高瀬さんに見惚れてるんだ──」と教室に入ったことで、二人の会話はそこまでで終わった。すぐに嘉明が「祝織の方が綺麗だし、好きだよ」と言ってわたしの機嫌をとっていたが、問題はそこではない。
当時のわたしは何も知らなかったし、とくに会話に違和感は覚えなかった。だが色々と知った今になって思えば、浩介の言葉に胸がざわついてしまう。茶化したと言われればそれまでだが、「巫女様に選ばれて」や「安泰が約束された」という言葉がどうしても引っかかる。
わたしは穢れを流し込むための器で、元より穢れた存在のはずではなかったか。わたし以外の人達はそれを知っているのではなかったか。となれば「巫女様に選ばれて」や「安泰が約束された」という言葉は、それに矛盾するように思う。思うのだが──
それで何が分かるのかと言われれば、何も分からない。わたしが知る情報量は圧倒的に少ない。考えれば考えるほどに思考が絡まり、叫び出したくなる。
「高瀬さんなら珍しく出勤だったんだけど、急用で帰ったよ」
「急用で帰ったよって、相変わらずここはやってるんだかやってないんだか分からないですね」
「まあ所詮は臨時の診療所だし、八ノ塚の方が医療設備は整ってる。そっちに行ってもらった方が患者さんのためでもあるね」
「ちゃんと働いてください」
「そのうちね」
無邪気な笑顔を見せる浅野。所長である浅野がこんな調子なので、宇場ノ塚の住民は基本的に八ノ塚の浅野病院に行く。わたしが生まれる前、浅野診療所の関連病院に買収されたのが浅野病院だと聞いた。その際名称も八ノ塚病院から浅野病院に変わったのだと。
「わたし、ここにいていいんですか?」
高瀬がいないのであれば、ここにわたし一人で残ることになる。浅野は気にしなさそうだが、なんだか悪い気がしてしまう。
「鍵はかけていくし、誰か来ても無視していいから」
案の定、浅野は何も気にしていなさそうな顔。いい人なのはかまわないが、少し不用心に思えて心配になる。
「あ、そうだ。ついでに買い出しに行ってくるから、祝織ちゃん、なにか欲しい?」
「え?」
買い出しということは、八ノ塚まで行くということだろうか。車で片道四十分なので、往復するだけでかなり時間がかかる。そのうえ買物もとなれば、二時間近くはかかるだろう。浅野は「少し外に出てるよ」と言っていたが、その「少し」という感覚がズレていて、また笑ってしまう。
「少しって、二時間くらいはかかりませんか?」
「二時間って、少しじゃない?」
何を言ってるんだこいつはという目で見られるが、それはこっちのセリフだ。
「二時間は少しじゃないです」
「やること多いとすぐだけどなぁ」
日々やることのないわたしにとっての二時間は長いが、忙しい浅野にとってはすぐなのだろう。まあ忙しいと言っても、本業の医者以外のことなのだろうが。
「じゃあわたしは、炭酸。炭酸の飲み物が飲みたいです」
「珍しいね」
「珍しい?」
「いつも紅茶とか麦茶じゃない?」
なにげない浅野の言葉だが、ぞくりと厭な汗が背中を伝う。なぜ、浅野はわたしがいつも紅茶や麦茶を飲んでいると知っているのだろうか。浅野に水筒の中身を話した記憶はない。考え過ぎ、なのだろうか。わたしが移動販売車で紅茶や麦茶のパックをよく買っていると、たまたま知っただけなのかもしれない。志呉との会話でたまたま知っただけなのかもしれない。いや、もしかすればわたしの情報が集落内で共有されて──
浮かんだ嫌な考えにかぶりを振ると、怪訝な表情をする浅野と目が合う。こんな疑心暗鬼の自分が嫌だ。些細な会話で何かを疑ってしまう自分が嫌だ。
「……たまにはすっきりしたいんです。炭酸ならなんでもいいので」
「うん、分かった。ああそれと……」
思い出したように浅野がそう呟くと、「ちょっと待ってて」と言いながら、ばたばたと診察室を出ていってしまった。しばらくして戻ってきた浅野の手には、何やら白い布のようなものが握られている。
「汚れてるし、これに着替えて」
「これって……」
渡された白い布を広げ、驚いてしまう。わたしがいつも着ているワンピースだったからだ。なぜ浅野が持っているのだろうか。訝しげに浅野を見ると、一枚の名刺を渡された。名刺は高級そうな質感の紙で、「浅野グループ」「代表取締役社長」「
「父の名刺だよ。浅野グループは手広くやってるからね。海外にも関連会社が色々とあって、祝織ちゃんが着てる服はそのアパレル関連の会社から」
「浅野グループ?」
「浅野診療所や浅野病院の大元の会社だよ。今は僕の父が社長だね」
情報量が多過ぎて、困惑してしまう。つまりわたしがいつも着ていたワンピースは、志堂が浅野グループから買い付けていたということか。いや、気にすべきはそこではない。海外にも関連会社があるほど大きな会社がなぜ、宇場ノ塚や八ノ塚のような僻地に病院や診療所を設けているのだろうか。正直儲からないだろうし、営利目的には思えない。それは浅野の態度や行動を見ていても分かる。となれば、金銭以外での価値がこの地にあるということだろうか。
「ありがとうございます。これ、着心地よくて好きです」
考えても分からないので、ひとまず無難な返答をしておく。まずわたしがすべきことは、情報を整理し、誰を信用していいのか考えることだ。今のところ浅野は信用出来そうだが、まだ考えがまとまらない。
「そのワンピース、カシミヤだからね。それじゃ僕は少し出てるから、ゆっくりしてて。眠くなったらベッド使ってもいいから」
「分かりました」
浅野の車が出発したのを確認し、汚れたワンピースを脱ぐ。鏡がないので首元の痕は見えないが、左胸と内腿には赤い痕がしっかりと刻まれている。おそらく忌女に祟られた印、禍痕。禍痕が浮かんだ者は、いずれ虫が湧いて死ぬのだと並木は言っていた。浩介や私の父のように、死出虫が湧いて。
ただ実際に虫が湧いて死ぬ現場を見てはいないし、聞いただけの情報だ。本当に祟り、なのだろうか。並木も祟りだと明言してはいないし、祟りに見せかけた殺人かもしれないと言っていた。正直わたしも、祟りなんて馬鹿らしいと思っていた。だが今は、この集落なら有り得るかもしれないと思ってしまっている。
水車小屋の前、目撃した顔に虫が湧いた女。あんな悍ましい存在なんて、祟り以外には有り得ない。それかもしくは、追い詰められたすえに見た幻覚。
「情報、整理しないと……」
新しいワンピースに袖を通しながら、確認するように呟く。並木の介入でここまで流されるように行動していたが、自分でもしっかりと考えなければならない。ただ、今のまま頭の中でだけ考えていてもだめだ。前に読んだ推理小説からの知識だが、情報を整理するには箇条書きでもいいので、とにかく知り得た情報や気になることを書き出せばいいとあったように思う。残念ながら紙とペンは持ち歩いていないので、浅野の机から拝借することに。「借りますね」と小さく断りを入れ、いらなそうな紙とペンを手に取った。
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