八、
「設置、今日ですか?」
「今日は色々ありましたからね。難しいようでしたら明日にでも。元から長期戦のつもりなので」
「なんとか、やってみます」
そうは言ったが先程の志呉の豹変を思い出すと、体が震える。もしこの裏切りが知られたら、再びあの冷えた狂気を向けられるのではないかと。志呉がわたしを抱く際に乱暴なのはいつものことだが、あれはそんなものではなかった。本当に物のように扱われ──
「あ、」
志呉にスカートをたくし上げられた際、露わになった内腿。そこに残る赤い痕が、脳裏をよぎる。胸と首筋を吸われた痕は分かるが、内腿を吸われたのはいつだったか判然としない。なぜ、今まで気付かなかったのか。いや、禍痕というものを知らなかったからこそ、治りが遅いと思っていただけ。
ぞわりと、皮下を虫が這うような不快感。志堂が吸うのはいつもではない。いつもならば吸われた痕だらけになっているはずだが、そうはなっていない。たまたま興が乗って吸っているのだと思っていた。もし何かを隠そうとして吸っていたのなら、内腿も、胸も、首筋も──
禍痕があるのではないか。
わたしがまだ気付かないうっすらとした禍痕に気付き、吸っていたのではないか。穢れを流し続けられ、わたしも祟られたのではないか。となれば消えない内腿の痕は、濃くなった禍痕なのではないか。内腿を最近吸われた記憶はないが、それは濃くなったからこそ、志堂もすでに吸ったと勘違いしたのではないか。
──お前は、器だ。
何度となく聞かされた言葉。
──今日の忌みは、濃かった。
毎夜どくどくと流し込まれる穢れ。穢れた地の穢れた木。その穢れを削りながら、仏像を彫り出す志堂。そうしてその穢れを志堂が一度受け入れ、わたしの中へ。
この地の穢れを流し込み、浄化する装置のようなものが器ということか。
じわりと腹の奥が熱くなる。
何かが腹の奥底、蠢いているような重い熱。
流し込まれた穢れはどうなるのだろうか。避妊薬によって子が宿ることはないが、この熱は。
どんな器もいつかは溢れる。そうして穢れが溢れて祟られ──
わたしも、虫が、湧いて。
志堂が禍痕のある場所を吸ったのは、気付かれないようにするためだろうか。そう考えれば、わたしだけ何も知らないことが腑に落ちる。器としてのわたしが、真実に気付いて逃げ出さないよう、何も教えてもらえなかったのではないだろうか。そうして集落の者が祟られないよう、源たる穢れをわたしに注ぐ。
人柱。
生贄。
そうなれば、嘉明も浩介も、母も椿も桐子も茉里愛も、みんなみんなみんな知っていて──
わたしも、知らなければ。
虫が、湧く前に。
──大事な話をする。お前は外に出ていろ。
志堂にそう言われ、ふらふらと外へ出た。
志堂が澤本を伴い客間に姿を現したのは、玄関での一悶着から二十分くらいだろうか。澤本や並木は八ノ塚の警察署に勤務しているのだが、そこから宇場ノ塚までは車で四十分。あまり状態のいい道路ではないので、急ぐのも難しい。例え急いだとしても、微々たる時間短縮にしかならないはず。
つまり並木が八塚家を訪れた時点で、澤本はすでにこちらに向かっていたということだろう。並木も「当然のように私の勤怠や行動まで把握されている」と言っていたし、ずっと見られていた、ということだろうか。幸いにも盗聴器のことには気付いていないようだが、もしかすれば泳がされているだけでは、とも思ってしまう。わたしの考え過ぎでなければいいが……。
客間に志堂が戻ってきた際、志呉の姿がなかったのも気がかりだ。玄関での志呉の様子は明らかにおかしかった。力も異常に強かったように感じる。志呉と並木は同じくらいの身長だが、体格は並木の方がいい。ぱっと見で並木が志呉に組み敷かれるなんて、想像できない。だが志呉は、まるで赤子の手をひねるように並木を。
あの時の冷えた空気を思い出し、思わず身震いしてしまう。今夜も志呉は部屋に来るだろうか。それはいつもの軽薄な調子の志呉だろうか。それとも……。
腕時計を見ると、もうすぐ午前九時。なんだかとても長い時間のように感じられたが、起きてからまだ三時間も経っていない。陽の光が腕時計のガラス面に反射し、眩しさから目を細める。
この腕時計は嘉明がプレゼントしてくれたもの。文字盤に螺鈿細工の施された、わたしのお気に入り。きらきらと輝く螺鈿細工が美しく、いつまでも眺めていられる。
腕時計を眺めていると、ふと八塚家の調度品を思い出す。八塚家の家具や漆器は、螺鈿細工が施されたものが多い。確か螺鈿細工とは、夜光貝やその他の貝片を彫刻し、漆地や木地などにはめこむ装飾法。
──夜光貝には浄化の効果があるんだ。魔除けみたいなものかな。
腕時計を付けたわたしに、嘉明が言った言葉。その時は深く考えなかったが、今は嫌な考えが浮かぶ。
器であるわたしは、そもそも穢れた存在なのではないか──と。
わたしの家には百体以上の仏像がひしめく。穢れを吸うのだという、志堂が彫り出した仏像が。母は穢れたわたしを嫌い、仏像を置いたのではないか。嘉明はわたしの穢れを抑え込もうと、螺鈿細工の腕時計をくれたのではないか。そう考えれば、わたしが志堂の元へ行くと言った際、止めなかった理由も腑に落ちる。
ずっと疎まれていた。邪魔だった。汚いと思われていた。ずっとずっと──
だがそうだとしたらなぜ、嘉明はわたしと付き合ったのか。なぜ、穢れていると知りながら唇を重ねたのか。唇を重ねたくせに、セックスの誘いをそれとなく流したのは。他にも、他にも他にも他にも──
そもそもわたし以外、わたしが穢れていると知っていたということか。となれば浩介がわたしに交際を迫ったのはなぜなのか。
穢れ。
忌女。
八塚。
祟り。
禍痕。
虫。
器。
分からない。
分からない分からない。
頭がおかしく、なりそうだ。
まとまらない思考の覚束ない足取りで歩き、気付けば水車小屋の前。
暑さからではない嫌な汗がじわりと滲み、小屋の壁に背中を預けて目を瞑る。深く息を吸って吐き、心を落ち着かせようとするが、瞑った目の奥ではざわざわと何かが蠢いているよう。
「気持ちいい……」
どれくらいそうしていただろうか。心地いい風が、さわさわと通り過ぎた。不快に湿った肌を優しく撫でられているようで、騒ぐ思考が声をひそめる。耳をすませば川のせせらぎも聞こえ、瞑った目の奥に訪れた穏やかな時間。
「あ、あ、」
ふいに聞こえた不穏な音に、ぞわりと総毛立つ。音とは言ったが、喉を潰した女の声のように聞こえた。近くはないが、遠くもない。思わず目を開けそうになったが、怖くて開けられない。
「あ、ああ、あ、」
続けて聞こえた声に、口の中でひっ、と短い悲鳴を上げて飲み込む。歯の根が合わず、かちかちと音も鳴る。近付いている。声は先程よりも近くで聞こえた。おそらく方角は八塚家に向かう上り坂。日陰とはいえ時期は夏。だが冷えた空気が降りてくるようで、体も震えだす。
見てはだめだ、目を開けてはだめだ、絶対にこれは見てはいけない何かだと心が警鐘を鳴らすが──
瞼を薄く開けた視線の先、八塚家に向かう上り坂に見えた仄白い脚。薄汚れた白いスカートの下端も見え、ゆらゆらと揺れている。怖くて脚から上を見ることが出来ないが、ゆっくりとだが確実に、脚はこちらに向かっている。
「ひっ……」
口から漏れる悲鳴を両手で塞ぐ。動きが、動きがおかしいのだ。膝を曲げずに進んでいると言えばいいのか、まともな歩き方ではない。ときおり脱力したようにかくんと膝が曲がり、見ないようにしている
とにかく逃げなければ──
そう思うが、足が震え、腰が抜けてその場にへたり込んでしまう。
「あ、ああ、あは、」
笑った。今確かに笑った。喉を潰されたような不快な声で、不気味に笑っている。
逃げなければ、逃げなければ、逃げなければ──
震える足を思いきり叩き、なんとか立ち上がって駆け出す。どこに逃げればいいのかなんて分からないが、とにかくこの場から離れなければ。そう思ったのもつかの間、馬鹿な自分に嫌気がさして「なんで……」と声を漏らしてしまう。盗聴器の入った籠バッグを、水車小屋に置いてきてしまった。
出かける際、いつも持ち歩く籠バッグ。おそらくわたしのものだとすぐに分かってしまう。このまま放置して誰かに拾われたら、面倒なことになる。
意を決して振り返った先、右手には水車小屋。その左手、八塚家へ向かう上り坂には──
「ひっ、」
不気味に蠢く
いったい
早く動かなければ、逃げなければ──とは思うのだが、固まった体は言うことを聞かず、震えながらも目を逸らすことができない。
「いやぁ……」
あれは影で暗いのではない。影だと思っていた
虫、だ。
黒い虫が
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