N = 'N = false は、著者娘である

carbon13

第1話

 ノノノは著者娘である。その人物はただ一つ存在し、インターネットに小説を投稿するという奇矯な行いをし、また、美少女であった。


 どうしてそうなったのか、検討もつかない。


 夜10時ごろ、柳原が帰宅すると、自室のヨギボーに身に覚えのない、幼い女性の姿があった。女性は、クリーム色のファージャケットに身を包んでいる。下は丈の短いハーフパンツで、上は毛量豊かで非常に暖かい装いであるのに、下半身は太ももが丸出しだった。非常にアンバランスで寒そうな格好だ。そろそろ寒くなってきた深い秋の頃である。


 女性の装いはまるでソシャゲのキャラクターのようである。最近よく流行っているデザインだった。人は、三角形と逆三角形のデザインを快く感じるから、デザイナーは衣服で上手く三角形の形を作る。ブルーアーカイブのキャラが時折いかめしい上着を羽織っているのは、上部を充実させることによって、下半身の露出度を保ちつつ、人体で三角形を作る、そういうデザイン上の心遣いである。


 女性はヨギボーに全身をだらしなく預けていた。しかし、それゆえに横から見ると鋭角の三角形が、上から見るとヨギボーの円形を底辺になぞらえた二等辺三角形が見えるのだった。柳原が帰宅したのは夜10時ごろ、家の周りはすでに暗くなっており、部屋から差し込むのは、斜向かいの家の前にあるわずかな街灯の光のみだった。部屋には赤色の読みかけの漫画雑誌、緑色のファイル、オレンジのパッケージのポテトチップスの袋などが転がっていたが、居室はすでに暗くなっていたため、それらの明るい色も灰色を混ぜたようになっていた。しかし、それゆえに街灯に照らされている女性の白一色の明るい色が風景として強調される。つまり、女性はシャニマスのSSRのようだった。


 柳原には女性の姿に身に覚えはなかった。親族、友人関係、あるいはソシャゲのキャラクターの中にもそのような外見の女性はいなかった。現実の警察は上手くいかないものだ。未成年を家に連れ込んだと思われたら逮捕もありうる。柳原はロリコンなのだ。好きなブルーアーカイブのキャラはイブキだし、ニケならアドミのキャラデザをした人を尊敬しているし、精通のきっかけはパワーパフガールズである。しかし、児ポだとか誘拐だとかそういったことはしていないとコミックLOに誓える。それだけに、いま自分好みのロリータが自宅のソファで快適にリラックスしていることは、あらゆる意味でよくなかったのである。


 女性は、ヨギボーの上でゲームをしている。カチカチとボタンが壊れそうなくらい強く叩かれている。柳原本人でさえ最近はあまりSwitchをしていないのだ。なのでだんだん腹が立ってきた。なぜ不法侵入者にゲームをやらせなくてはならないのか。果たして家出少女の類いか。それでこちらが誘拐魔だと思われるのは不味い。


 女性は、こちらを一瞥することもなく、「おかえりー」と言った。声色は特に声を作っていない時の声優のラジオのようだった。女性本人としても、別段、何か変わったことが起きたように思えない表情である。もし彼女が不法侵入してきた家出少女であるならば、もう少し慌てたりしても良いはずである。しかし、彼女はまるで自分の家にいるかのように遊んでいた。


「そりゃそうだよ、自分の家だもの」


 女性は、柳原の心を読んだ。柳原の頭の中を覗き込んだ。自分自身の内省を、まるでTwitterをフォローするように、読み取ったのである。


「私は君だよ。著者娘ノノノ」


 立ち上がると、ノノノはファージャケットの下には水着のようなものしか着ていなかった。やはり、寒そうな格好である。


「著者娘ノノノ……?」


「そうだよ、もう忘れてしまったのか。私のレンズはずっと歪んでいるんだ。歪んでるから物事を変な比喩で話してしまうんだ。伝わらないし、伝わらないことを嘆く為に文章を書いているんだ。それが私だよ。著者娘ノノノ」


 カラッとしたあの晴れた日、ガイドを別タブで開きながら自分の記事を全削除した。大学受験が近づいていたから、これ以上余計なことに力を使うわけにいかなかったのだ。もちろん、後悔がないことでもないがそうするのは普通のことだ。自分の意志の弱さでは、記事がインターネットに一欠片でも残っていると、ずるずると居心地の良さに絆されて、現実の勉強に集中することができない。どんな趣味でも一旦全て忘れて、自分の人生に投資することが大事である。そうして、大学に入学し、新卒で会社に入り、今になった。ロリコンだったので彼女はできなかったが、それ以外は、自分の人生は上手くいっていると思っている。 


「満足しているよ。心残りなんてない。だからわざわざ宣言して引退したんじゃないか」


「それは知ってるよ。聞いたことがあるんじゃなくて、実体験として知っている」


「じゃあなぜ俺の前に現れるんだ。その時に、本当にお前が俺だと言うなら、比喩的にはお前は死んでいる」


「死んでないし」


「比喩だろう」


「そんな嫌な比喩しないでよ」


「じゃあ……」


「私は特に君を説得しにきたわけではないんだ。青春時代に引き戻そうとも、戻って欲しいとも思っていない。私は君だから、私が私を説得することなんてできないんだ。ただ一個、ここでSwitchをしながらポテチを食べて、カイジを全巻読み返すだけの時間が欲しい、ただそれだけなんだよね。そこに特に理屈はないし人間本来の感情だし、ダメと言われてもどうすることもできないよ。だから諦めてこの家を間借りさせてね」


 「でもまあ、自分が二人いるようなもんだから」と言って、ノノノはゲームに戻った。ファージャケットの隙間から見えているうなじは、解像度が高かった。こうして、柳原はロリコンが近所に露見するリスクと失職の可能性を一身に背負うこととなった。ノノノは何を言っても自分に不都合なことは聞かなかった。まるで、電車のアイコンの人間のように。


 奇妙な同居生活が始まった。彼女はやりたいことしかやらなかった。この頃の柳原の仕事は繁忙期であったから、帰宅するのは夜10時を回ることもしばしあった。それで、家の扉を開けると朝出た時と同じ位置で遊んでいるノノノが目に入るのだった。しかし、活動の痕跡は家のあちこちにあり、炭酸水や駄菓子の類いが減っている、Switchの充電がなくなったまま別所に放置されている、ということが多くあった。ノノノはどのようなことをしても、体の調子を崩すということはしなかった。菓子はよく食べるし、与えれば飯も普通に食う。しかし、毎日3食健全に食事を取ることはしなかった。それなのに、体はいつもすらっとしていて、肌はいつも生まれたて赤子のようにつやつやとしていた。連勤と暴食で体型を崩した柳原はうらやましかった。


 ノノノはしばし荒唐無稽なことを語り続けた。ある時は、蛾が集まる街灯を見て「魔法の街灯の話」をした。街灯は、人を蛾に変えている。変える前に街灯はささやくのである。「太陽にたどり着いたら人に戻してあげます」しかし、蛾になって視覚を悪くした人々は街灯を太陽と勘違いしてずっとぶつかり続けてしまう。財団が収容したのはこれが100人以上の被害者を出した頃だという。人々はその反ミーム性によって正体に気づくことはない。あの銀杏は実はある異常な国家に対する特別収容プロトコルである。国家といっても、それは人間のような形式の国家ではない。小人が地下に築いた極小国家である。彼らは銀杏の匂いを非常に嫌う。そのため、増え続ける極小国家に対する防止策として財団は銀杏を植えているのである。このどの話も、新しいのにどこか親しみがあった。


 柳原は、いつも仕事に行きたくなかった。最初の頃はやる気のあった、比較的に割りの良い仕事だが、ずいぶんすぐに大量の雑用に押しつぶされてしまった。コミュニケーションは複雑に絡み合い、理性と論理を用いて物事を動かすのが苦痛となっていた。学生時代が幸せだったことを今更のように理解した。あの頃だって悩み事はいくつもあったが、今のものと比べればそれは大したことではない。ということを思った。ということを過去にも思ったことを思い出した。この頃、メタ認知ばかりが強くなる。


 ノノノは、いくら何をしても健康を害さず、常に荒唐無稽なことを語り、今ここにはないものへの憧憬をそのTwitter色の目に湛えていた。また、可愛らしく、身の回りのものが常に色鮮やかだった。ロリコンの柳原は、そうした幼女のような挙動に動揺を隠せなかった。


 柳原の交友関係など会社以外ではたかが知れているが、いるものを完全にいないと言い張って押し通すことは不可能に近い。特に、ノノノは自分の存在を隠すことはしなかった。牛丼を一度、自分が食べるついでにテイクアウトで食べさせたからか、今度は実店舗に行って本物を食べてみたいなどと言い出した。露出度の高いこの衣服で外に出すわけにもいかないので、だぼたぼのパーカーを着せて体を全て覆い、駅前の松屋に行った。


「まあ自分が自分の服を着ているだけだから違和感はないけども」


 そうしたところ、毎週金曜日に松屋へ行くことが常態化してしまった。ノノノは決して活動的ではなかったが一度習慣化したことは必ずやった。松屋の他には、夜中に炭酸水を飲むこと、1日に一度謎の虚言を柳原に話すことが習慣化していた。そうやって何度も家を出入りしていると、近所の人間に変な噂が立った。ある日のこと、家にチャイムがなった。土曜日の朝だったので、ノノノも柳原もまだ寝ていた。しかし、普通の人にとってはそろそろ起き出しても良い時間だった。


 インターネットミームに乗っかる企業アカウントのように働いていない頭で、眠い目を擦りながら柳原はインターフォンに向かった。


「もしもし、高田というものですけども」


 扉の前には、斜向かいの家に住む壮年の女性が立っていた。健康オタクで、運動も日に数度欠かさずやっていて、年にしては強固な足を持っている。そして、町内の噂話を収集して柳原に聞かせる、稀有なポジションにある女性である。柳原にそうしていたように、他の者にとってもさまざまなことの情報源だったのだろう。女性は、隣の家の娘が結婚したこと、この地域にかつてあった商店街のことを話して聞かせた。非常にローカルなニュースアプリのようなものだった。


「いやいや、あまり忙しくて会えないものだから心配で心配で。私って、あなたのように頑張る若者を見過ごせないのね。年寄りだから」


 頑張る若者と言われて悪い気はしなかった。高田は、回覧板を柳原に手渡した。地域のゴミ拾い大会のパンフレットも挟まっていた。前回のゴミ拾い大会には参加したので、次回も同様に参加することを期待されているのだ。


「ところで、夢が丘さんの話は聞いた? 娘さんがピアニストの」


 高田は、オタクのように話し始めた。柳原に興味のない話も相当含まれていたから、時間感覚がわからなくなった。相当な時間が立って、しかし、高田にとっては序の口と言わんばかりに、最初からは言い出せない「本音」を他の話と巧妙に混ぜながら、ステルスマーケティングのように差し込んだのである。


「そう言えば、柳原さん、最近幸せそうね。娘さんでもできたのかしら、まあ奥様もまだいないから、気が早いわね。そう言えば、北西のスーパーが潰れるらしいわよ」


 そして、高田はその娘さんの話をした瞬間の柳原の動揺を見逃さなかったのである。先述のニュースアプリの比喩で言えば、今はコメント欄が炎上している様子である。人間は、ヤフコメのように態度が貧相になることがある。また、増田のように人を害そうと思うことがあるらしい。心の中にあるヤフコメは、もはや誰にも止められないのである。


 その瞬間、柳原の動揺がノノノにも伝わったのか、がさっと家の中から音がした。実際は、寝相の悪いノノノがベッドから落ちただけだが、柳原には自分の緊張感が反映されているかのように思えた。


「何の音かしら」


 高田はおもむろに靴を脱ぎ始めた。マジかよ、と思いつつも柳原は彼女を静止する。


「ちょっと待ってください。最近猫を飼い始めたんですよ。たいへん凶暴なので、今は入らない方がいいかと」


「ええ?! 柳原さんちも猫を飼い始めたのかしら。あまり物音がするものだからつい……。そうでしたら、あまり長居するのも悪いわねえ……。子猫って、敏感だから。夢が丘さんの子猫が使っていた専用の餌とか、道具とか、分けて差し上げられるわよ。私が頼めば夢が丘さんも断らないわ。そうよ、もらいなさいよ」


 そう言って興奮する高田を宥めて、お暇させるまではあまり時間はかからなかった。


「にゃあ」


 ノノノは、もう起きかけていて、まだ眠そうな目で柳原の隣にいた。大人のように伸び切らない手、一回りも二回りも小さい体躯。柔らかい肌に、非現実的な髪の色。側から見れば、立派な拉致監禁である。


「見せてあげれば良かったのに。子猫としては、見るのも見られるのも歓迎だよ。結局、君は私なんだ」


 しかし、いや、やはりと言うべきか。ノノノの振る舞いは腹が立つ。こちらは人間生活を努力して成り立てているのに、いちいちお気楽に、それを無意味にするかのように振る舞いやがる。あまつさえ、君は私なんだと、責任の所在を不明確にする。自他境界の曖昧な、ガキめ。山田じぇみ子ではないが、わからせたくなった。


「俺はお前ではない。お前の気持ちなど一切わからない」

 

 言ってやった。ひとしきりの爽快感があった。ノノノは、それを聞いて、サンドボックスの下書きをこまめに保存するような表情になった。何かと手の届かない、そういう赤ん坊を見ているかのような顔だ。しかし、そうであるのはお前のはずだ。お前がわがままなんだ。それを言っているのになぜわからないんだ。


「仕方ないよね。大人になったんだもんね」


「そうだ」


「じゃあなってみる? 私に♡」


 著者娘ノノノがにやりと笑った。

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