クリスマス・カロルの向こう側(全3話)

天野橋立

第1話 終列車の出た駅で

 一晩泊まるだけだから何でもいい、そんな風に思って、駅の周りで一番安かった宿を選んだ。だが、その選択を私はすぐに後悔することになった。


 監獄のように狭い部屋に硬いベッド、窓の外は灰色の壁にふさがれて、枕もとの薄暗いスタンドだけが室内の照明だった。それはまあいい。巡礼の旅の途中、贅沢など言えない。

 しかし、暖房の効きがひどく悪いのは、こたえた。ベッドにもぐりこんでじっとしている以外、何もする気が起きなかった。

 掛け布団を頭までかぶって、慣れ親しんだ古い文庫本のページをめくる。全く、とんだクリスマス・イブだ。ちょっと高くても、駅前の立派なホテルにしておけばよかった。


 汽笛の音がした。エンジンの苦しげなうなり声が続く。ヘッドボードの時計は、二十二時十五分という緑色のデジタル文字を表示していた。多分、下りの最終列車だ。

 車内の様子が目に浮かぶ。弱々しい蛍光灯の光にぼんやりと照らされた、古びた車両の薄暗い車内。たった二両編成の列車には、せいぜい一人か二人くらいの乗客しかいない。がらがらのまま、列車は単線のレールをひた走る。一駅一駅に着実に停車しながら、終着駅に到着するのは日付が変わる直前になるだろう。


 遠ざかっていく列車の音。待ってくれ、とこのうらぶれた部屋を飛び出して、駅へと駆け付けたくなる。だが、そこに列車はもういない。ホームの灯りも消されて、誰もいない駅は明日の朝まで眠りにつく。

 それでもいい。行こう、駅へ。この部屋はあまりに寒すぎるし、寂しすぎる。町を歩けば、通りのどこかに居場所が見つかるかもしれない。私はベッドから起き上がり、文庫本をショルダーバッグに放り込んで、壁に掛けてあったジャンパーを羽織った。


 ロビー、と呼ぶにはいささか狭い玄関前のスペースはすでに消灯されていて、フロントのカウンターにも誰もいなかった。まさか閉め出されることもないだろうと、私は部屋の鍵をポケットに突っ込んだまま、外へと出た。

 ホテルが面しているのは駅前へと続く、この町のメインストリートであったが、人影など見あたらない。等間隔に並んだ街灯が、虚しく通りを照らしているだけだ。どこかで温かいお茶でも飲めれば、という淡い期待は、冷たい風に吹かれて消えた。閉店した店の窓の向こうで、独りランプを点滅させているクリスマス・ツリーだけが、温もりを感じさせた。


 去年までなら――。通りを歩きながら、そう思わずにはいられなかった。クリスマス・イブの夜に、独りでこんなところにいるなんて、考えられないことだった。一年前の自分がもし知ったら、さぞ驚くことだろう。かじりかけのチキンを手にしたまま、目を丸くする自分の姿が目に浮かぶようだ。隣で笑顔を浮かべている妻も、はしゃぐ子供たちも、わずか数ヶ月後に別れが訪れるなどとは、夢にも思っていない。

 正面に、二階建ての駅舎が見えてきた。意外にも、改札口の照明はまだ消されていないようだった。自動車など一台もいないロータリーを、私はまっすぐに突っ切って駅に近付いて行った。


 駅舎に一歩足を踏み入れて、私は思わず立ち止まった。人がいる。もう上下線ともに、最終列車が出た後のはずだ。しかし改札前に置かれたベンチには、学生服にコート姿の男女二人が並んで座っていた。

「こんばんは」

 女の子の方が、そう言って会釈する。

「どうも、こんばんは」

 そう返事を返しながら、こうして誰かと会話をするのも久しぶりみたいだ、と私は思った。いつ以来だろうか、よく思い出せない。


 怪しいおじさんが、カップルの邪魔をしては悪いだろう。すぐに退散するに限る。そんなことを考えながら、改札口の上に掲示された時刻表を見上げるふりをした。

「あの、列車ならさっき行っちゃいましたよ」

 今度は男の子のほうが言った。

「そうみたいだね」

 私は残念そうな顔を作ってうなずく。

「さっきのが、最終の列車なんです」

 女の子が申し訳なさそうに私の顔を見た。

「どちらまで行かれる予定だったんですか?」

 どちらまで? 一瞬、私は混乱した。この旅の目的地は、一体どこなのだろうか。いや、そんなことを聞かれているのではないはずだ。


「ああ、いや、終点まで乗るつもりだったんだが……」

 とりあえず、そう答えた。いい大人が、宿の寒さと侘しさに耐えかねて駅まで来た、とも言いづらかった。

「田舎なもので、最終の列車がとても早いんです。残念なことでした」

 ますます申し訳なさそうに、女の子は言った。

「いや、構わないさ。先を急がない旅だからね。明日の始発にでも乗ることにするよ。ありがとう」

 それじゃね、と私は外へ向かって歩き始める。


「あの、もし良かったら」

 背後から、男の子の声がした。私は足を止めて振り返る。

「僕らのところに来られますか? この二階が、なんで」

「お店とか、こんな時間に開いてるところもほとんどないんです、この町ですから」

 二人が、口々に言った。いや、ちゃんと泊まるあてもあるからと言い掛けて、私は言葉を飲み込んだ。男の子の一言が、少し気になった。

 基地? 何のことだろう。


(第2話「駅の二階のサンタクロース」に続く)

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