24. 触れ合う夢のあとしまつ(1)
さて、エーベルトの町を抜け、途中で馬車を替えながら移動して、一日が経った夜のことである。
アデルたちは、ノルドハイムより二つ手前の町、クレフに入り、その宿に落ち着くことにした。
そのまま馬車で一気に目的地まで駆け抜けるには、アデルの腰と尻が限界だったのだ。
「お、お願い……。腰と、お尻が、死んでしまう……。揺れない床で、休ませて……」
「わかりましたから、師匠。そんな息も絶え絶えに仰らないでください。最期の願いみたいに聞こえます」
エミリーは、敬慕というより介護寄りの優しさを発揮してくれて、クレフで最も高い宿を取ってくれた。
今は暖炉に入れる薪の量を増やしてもらえるよう、主人に掛け合ってくれている。
なんてよくできた弟子だ、と感謝しながら、アデルはひとり、暖炉の前に陣取った。
だいぶ北に近づいているということもあり、夜は厚着をしていてもかなり寒い。
窓の外では、今にも雪が降りそうなほど冷気が張り詰めている。
あと数時間で、日付を跨ぐ頃だった。
(あとちょっとで、もう、12月16日かぁ……)
暖炉にかざした両腕、そしてそこに光る腕輪を見つめる。
先日小屋に戻ったとき、ちゃんと今年を表す腕輪に「更新」してきたのだ。
今アデルの腕にはまっている腕輪は、聖主教歴1028年を表す黒色。
左腕には太いものが1本と細いものが2本。右腕には細いものが1本だけだ。
つまりこれは、今が12月の10日から19日の期間内であることを表している。
そして、右腕の黒い腕輪が2本に増えたとき――つまり、20日から29日の期間になったとき、アデル拷問死の予知は実現されるはずだった。
なぜなら、悪夢で見るアデルの右腕には、いつも黒い腕輪が2本はまっていたのだから。
(未来を変えるために残された日数は、最短であと4日)
暖炉の炎を見つめながら、アデルはしみじみと溜息を落とした。
あと4日でノルドハイムにたどり着いて、北五番教会の様子を確かめて、もしまだ廃墟状態になっていなければ、教会を維持するよう立ち回り、未来を変える。
なんて忙しいことだろう。
はたして自分にできるだろうか。
覚悟を決めて始めたはずの逃亡劇だが、開始初日のエーベルトで、早速レイノルドに追いつかれそうになったことで、アデルの心は早くも折れそうになっていた。
エミリーまで巻き込んでいるというのに、こんなことで大丈夫なのだろうか。
「失礼します、師匠」
と、ちょうどそのとき、宿の扉が開かれて、両腕いっぱいの薪を抱えたエミリーが入ってきた。
その細い腕には、なぜだか分厚いコートまで掛けられている。
「お待たせしました、追加の薪です。それから、こちらは師匠用の新しいコートです。隣の服飾屋がまだ開いていたので、買ってきました」
「まあ、エミリー……!」
エミリーから薪やコートを受け取りながら、アデルは思わず目を潤ませた。
何度でも言うが、本当になんてできた弟子なのだろう。
クレフに近づいたあたりから、寒い寒いと思っていたものの、コートを買う予算もなかったためにずっと我慢していた。
彼女はそのことに気付いていたのだ。
まったくこの弟子ときたら、いつの間にか自分の背丈を抜いて立派な大人になってしまうわ、気が利くわ、精神感応魔法だけでなく水魔法も使えるわ、しっかり稼いでいるわ、そのうえ使い惜しみもしないわ、本当に凄い。
凄いの一言しか出てこない。
「ありがとうね。なんて立派なコート……! 高かったでしょう。あの、私、ちゃんと、払うからね……。その、分割で……」
「何を仰るのです。代金など不要です。師匠に寒い思いをさせてしまったことを、むしろお詫びさせてください。さあ、そのローブを脱いで、こちらのコートを羽織ってください。ずっと昔にレイノルドが用立てたローブは、薄手で、みすぼらしく、さぞやお寒いでしょうから」
「う、うん……?」
エミリーに穏やかに指摘されて初めて、そういえばこのローブは、ずっと昔、レイノルドが仕立ててくれたものだったと思い出す。
なぜだか数年前に、弟子の間で同時に手芸ブームが訪れ、エミリーとレイノルドが競ってローブやマントを贈ってくれたことがあったのだ。
(考えてみれば、この二人、なぜか毎回同時にクッキーづくりにはまったり、ポーション作りにはまったりして、しょっちゅう私におすそ分けをしてくれていたのよね)
きっと気風が合ったのだろう。
もしかしたらお似合いの恋人同士になったかもしれないのに、自分の逃亡劇に付き合わせることによって、彼らが決裂してしまったことを、アデルは申し訳なく思った。
「このコートには、レイノルド避けのちょっとしたおまじないをしておきましたから。どうか、肌身離さず着ていてくださいね」
「うん。ありがとうね、エミリー……」
男避けのまじないまでしたという弟子を、複雑な思いで見つめる。
「師匠?」
「ううん、なんでもないの。どうも、ありがとう……」
アデルは二番弟子にぎゅっと抱き着いた。
「とても、温かいわ……。あなたは、優しくて、気が利いて、師匠思いの、本当に素晴らしい弟子よ。あなたがいて、心強いわ……」
こんな底辺魔女に甲斐甲斐しく尽くしてくれるエミリーに、何も返せない自分が不甲斐ない。
せめて感謝だけはきちんと伝えようと、アデルは改めて己に誓った。
(とりあえず、コート代くらいは払おう。たんす貯金の中から分割して……。あっ、でも考えてみれば、そもそもたんす貯金は、エミリーの嫁入りに備えて始めたものだった! そこから減らしちゃったんじゃ、結局エミリーのためのお金が減っちゃわない? どうしよう……どうしよう……)
金策が得意でないアデルは、エミリーに抱き着いたままうんうん唸る。
「師匠、どうしました?」
「ううん。ちょっと、こう……。弟子のあなたは、こんなにしっかりしているのに、私ったら、てんでだめだなと……」
アデルはごまかしながら呟いたが、実は、触れた瞬間から心の声を聞き取っていたエミリーは、師匠に感づかれないよう、こっそりと苦笑を浮かべた。
(わかっていないですね、師匠。私を「しっかり」させてくれたのは、あなたなのに)
反則のような強さを持つレイノルドはもちろんとして、エミリーもマルティンも、この世代の魔力持ちとしてはかなりの実力者だ。
だがその実力を引き出したのは、ほかでもないアデルだった。
(弟子のことを衒いなく褒める――褒めることができてしまう師匠のためだからこそ、私たちは強くなったのに)
実はアデルがいなかった七年の間、エミリーはごく一瞬、ほかの魔女や魔術師の下について魔力を高めようとしたことがある。
もし時空魔法を操れるようになれば、時を巻き戻し、アデルを救うことができるのではないかと考えたからだ。
しかし彼らは基本的に疑り深く、弟子を人とも思わず、何度もこちらを試すような真似をしたり、難癖を付けたりして、教えを一向に授けてくれなかった。
それでもエミリーが食らいつくと、彼らは喜ぶどころか一層こちらを軽んじ、わずかな才能を見せると、それだけで恨みの籠もった視線を向けてきた。
何事も丸ごと受け止め、些細なことでも褒めちぎり、全力で相手を信じるアデルとは大違いだ。
アデルは基本的にあまり能力が高くない魔女だが、だからこそ、周囲が「できること」に気付ける。
しかもそれを、妬まずに認めることができる。
彼女の無邪気な「えぇっ、すごい!」の言葉に、エミリーたちはどれだけ勇気づけられてきただろう。
自分自身すら気付いていなかった、ささやかな努力や才能にすら、すべて反応し、飾らない言葉で褒めてくれるのだから、なおさら。
(私たちは、師匠に褒めてもらいたくて……ずっとずっと、褒めてもらいたくて、それで、頑張ってきたんですよ)
強くなれば、アデルが帰ってくる。
そんな思いが、自分にもあった。
(師匠)
エミリーはぎゅっとアデルを抱き返してみる。
肉声と心の声が、いつも一致しているアデル。
人の肌に触れる行為は苦手だが、彼女とのハグなら怖くない。
エミリーが唯一受け入れられ、そして唯一求めている温もりだ。
彼女を、絶対レイノルドに襲わせなんかしないと、エミリーは改めて誓った。
「それにしても、本当にごめんね、エミリー。私の予知回避に、あなたまで、付き合わせてしまって」
身を離したアデルが詫びてくる。
「レイノルドが、あんなにも早く、追いついてくるなんて、思ってもみなかったわ。私も、逃げ回るだけではなくて、きちんと彼に、対峙できればいいのだけど……」
正直なところ、夜の寒さもあいまって、アデルはすっかり弱気になっていたのだ。
だいたいレイノルドの立場になって考えてみれば、アデルは7年もの間彼を騙し、勝手に教会に処刑されたと思いきや、のうのうと生き延びて逃亡を始めた、とんだ卑怯者である。
単に逃げ回るのではなく、きちんと彼に向き合って、謝罪なり言い訳なりをして、仁義を切るべきではないのか。
そんな思いも、アデルの中に少なからずあった。
「私は、師匠なんだもの。やっぱり、一度はちゃんと、向かい合った方が、いいのかな、って……。とはいえ、直接彼に会うなんて、やっぱり、怖くてできないけどね……」
床に置いていた薪を、ゆっくりと暖炉にくべてゆく。
ゆらゆらと不規則に揺れる炎は、まるで、惑うアデルの心のようだった。
「書置きとか、伝言とか……せめて、遠くからでも、メッセージだけ伝えるようなことが、できたらいいのになって、つい考えてしまうのよね……」
「――でしたら、夢を繋ぎますか?」
独りごとのような口調で紡がれた内容に、エミリーはふと思いつくことがあって切り出した。
「え?」
「これまで試したことはありませんでしたが、私の精神感応能力を使えば、師匠とレイノルドの夢の世界を繋ぐことができると思います。夢であれば、やり取りはできても、物理的な接触はできない。師匠の望む『メッセージ』の方法として、最適かと思いますが」
「そんなことができるの……⁉ こんなに遠く離れているのに、やりとりができる……?」
目を丸くするアデルに、エミリーは頷く。
「ええ。通常、遠く離れた人間同士の精神を繋ぐことは困難です。けれど、双方の精神が強く互いを指向していた場合、私ならそれらを見つけ、繋ぐことができる。双方が眠っている間なら、自我の境界も薄まるので、ますます接続は容易でしょう」
「そ、そうなの……?」
「そして、師匠を追いかけるレイノルドの精神は、間違いなく四六時中、師匠に向かっているでしょう。ということは、あとは師匠さえ彼との対話を望めば、二人の精神は容易に接続できるかと」
「よ、よくわからないけど、わかったわ……」
淀みなく説明する優秀な弟子に、アデルはごくりと喉を鳴らして頷く。
どうやら自分が不在だった七年の間に、弟子はいよいよ完全に師匠を追い越してしまったらしい。
となればあとは、弟子を信じて身を委ねるだけだ。
「ありがとう、エミリー……。いつも、不出来な師匠の、願いを叶えてくれて……。本当に、優しい子ね……」
「とんでもない。師匠のご意志を叶えることは、弟子の喜びですから。ちょうど今日は満月で、術も揮いやすいはず。早速、今晩にでも試してみましょうか」
エミリーは淑やかに微笑んで応じる。
(――なんて、あの男と対話などさせるはずがないではありませんか、師匠)
ただし、その控えめな微笑の下には、素早い計算と冷酷な決意があった。
そう。
エミリーには、アデルとレイノルドをただ穏やかに対峙させるつもりなど、毛頭なかったのだ。
(なにせあの男のこと。師匠を見るや、精神世界であろうと途端に発情して、おぞましい思考を垂れ流すに決まっている。そんな不快なものを、師匠に触れさせるわけにはいかないわ)
「早速、今晩?」とどぎまぎした様子で胸を押さえるアデルを、エミリーは、顔だけはにこにこと見守る。
大切な師匠を騙してまで、なぜレイノルドの夢の世界に踏み込みに行くかといえば、それは、とある目的があったからだ。
(夢の世界を通じて……レイノルドの精神に干渉する)
寝台を整えはじめたアデルの背後で、エミリーはすっと目を細めた。
精神感応能力は、うまく使えば、洗脳や精神破壊をも可能とする能力である。
これまで、エミリーの魔力量では、圧倒的な魔力量を誇るレイノルドに干渉することなどできなかった。
だが、眠って意識の防御が薄くなっている状態で、しかも、本人が進んでアデルの精神世界に触れたがっている状態ならば、話は別だ。
きっとエミリーは、レイノルドの精神世界に、するりと入り込むことができる。
そうしてしまえば、彼に都合のよい夢を見せ続けたり、逆に恐ろしい悪夢を見せ続けたりすることで、彼を廃人にしてしまうことができるはずである。
(師匠を囮にするようで申し訳ないけれど、これも師匠のためだわ)
だいたい、自分に暴行しようとしている人間に、「逃げていないできちんと向き合いたい」だなんて、アデルは甘すぎるのだ。
そして、師匠が優しすぎるからこそ、その弟子は、多少冷酷な手段に出てでも、そんな彼女を守るべきはずである。
「えっと……、じゃあ、私は、レイノルドのことを考えながら、寝ればいいのかしら……」
「ええ。私と手を繋ぎ、心話を繋いだ状態で眠ってください。そうしたら私が、まず師匠の精神世界に入り込み、そこからレイノルドの精神を見つけ出して、二つの世界を繋ぎますから」
「わかったわ……。それにしても、大人になったあなたと手を繋いで寝るなんて、ちょっと照れるわね……」
「すみません。そのほうが確実に魔力を揮えるもので」
本当は、心話を展開しておく必要などなかったのだが、エミリーはいけしゃあしゃあと嘘をついた。
師匠と触れ合う機会など、どれだけあってもよいものである。
小さい頃も、よく「雷が怖い」だとか「寒い」だとか嘘をついては、アデルの寝台に潜り込み、手を繋いでもらったものだ。
(そのたびに、レイノルドに冷ややかな視線を向けられたものだけど――ふん、同性に生まれた私の勝ちよ)
そしてもちろん、今回の勝負も、エミリーが勝ちを奪うつもりである。
深夜零時が最も魔力を揮いやすいだろうと考え、いそいそと支度を調えて共に寝台に潜る。
「大人になったレイノルドと、対話するなんて、夢の世界であっても、緊張するわね……」
ごそごそと枕の位置を調整しながら、アデルが呟くのに、エミリーは穏やかに頷いた。
「そうですね」
嘘が嘘だと伝わってはまずいので、この台詞を言う際には、もちろん手は繋がずにおいた。
「レイノルドと、実りある対話ができればいいですね」
それから、アデルの隣に横たわり、しっかりと手を繋いで、目を閉じた。
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