転章
17. アデル、飛ばされる(1)
さて、時は移り、聖主教歴1028年12月、元処刑場である大聖堂前でのことである。
アデルは走った。
本能の導くままに。
幸いにして、背後のレイノルドは追ってこない。
理由はわからないが、今が逃げるチャンスだ。
腕輪をがちゃがちゃ鳴らし、火刑に処されていた姿のまま、つまりは裸足でアデルは走った。
大聖堂前に広がる庭園は、なぜだか東の森によく似ている。
芝の感じや、植わっている木々の配置までもがそっくりで、今自分は王都ではなく、「アデルの家」の近くにいると錯覚しそうだ。
(もし本当にここが東の森なら、ちょうど右手のあたりに、崖が見えてくるんだけど)
走りながら、なんとはなしに右手に視線を向けたアデルは、ひっと息を呑んだ。
そこには、まるで死体が折り重なるかのようにして、大量の石像が転がっていたのだから。
「な、なにこれ!?」
思わず足を止めそうになる。
よく見てみれば、石像は皆同じ顔をしていた。
華やかというよりも涼しげな女の顔。
ローブをまとい、そっと目を伏せている。
積み重なった石像の中には、彩色されているものもあった。
髪は黒く、瞳も黒い――。
(私じゃん!?)
喉がひっと引き攣った音を立てた。
自分を模した石像がただ大量に転がっていたからではない――それでも十分に恐ろしいが――。
積み重なった像が、どれもこれも無残に砕かれていたからだ。
あるものは顔の半分を損ない、またあるものは半身を砕かれていた。
ノミや槌で穿った痕跡ではない。
おそらくは、魔力で爆破された痕。
「ひえ……っ」
強い殺意を感じ取り、アデルは青ざめた。
この場所で、この破壊の仕方。
犯人が誰かなんて考えるまでもない。
レイノルドだ。
(やっぱり彼、私のことめちゃくちゃ憎んでるんだ!)
アデルの身体感覚では、つい数日前まで彼は可愛い末弟子だったのだ。
人づてに、彼がアデルの処刑を求めたとは聞いていたが、一縷の希望というか、実はそんなのは誤解で、彼は今も自分を慕ってくれているのではないかと縋る気持ちがあった。
だがそれも、今この瞬間に砕け散った。
わざわざそっくりの石像を作らせ、破壊するほどだなんて、どれほど強い憎悪なのだろう。
――この末弟子は、報復は必ず完遂させる男です。
――逃がすなどしない。必ずこの手で仕留めてみせる。
(不穏な部分を抜粋してプレイバックするのやめてー!)
まるで気を利かせたかのように、過去のやり取りを思い出してしまった己の脳を、アデルは激しく罵った。
状況と過去の発言が次々と符合してゆく恐ろしさときたらどうだ。
(に、に、逃げ)
足ががくがく震える。
結果、見事に足元に投げ出されていた石像の一部に足を引っ掛けてしまい、アデルは激しくつんのめった。
「わ……!」
咄嗟に手を突くが、その際に、芝に隠れていたなにかに触れてしまった。
ざらりとした感触。
どうやら、赤っぽい砂か何かが、規則的な紋様を描きながら地面に撒かれているようだ。
(え? まさかこれって、転移陣――)
顎を引き、全容を視界に収めた途端、砂の紋様が光を放ち出す。
――ぱあああ……っ!
アデルは悲鳴を上げようとした。
いいや、それすらも間に合わない。
(今度は何なのー!?)
一度目の転移から数十分も経たぬうちに、アデルの体は光に包まれ、次の場所へと移された。
***
「長かったなあ!」
マルティンは感無量の面持ちで、聖堂の回廊を進んでいた。
彼は今年29歳。
すっかり年は重ねたが、人が善さそうな垂れ目と、少年期からのそばかすは相も変わらず健在だった。
ローブをまとった腕の中には、たっぷりの苺を入れた籠。
真っ赤な果実と、ところどころに覗く緑の葉の組合せが華やかで、遠くからは花束のようにも見える。
苺が大好きだった「彼女」を祝福するのには、最も相応しい贈り物と思えた。
(師匠、喜んでくれるかな)
マルティンはそわそわしながら窓を見る。
繊細な彫刻が施された美しい建物。
ここは、王都ヘルトリングが誇る中央教会の聖堂だ。
7年前まで、窓外には青空と穏やかな町並みが広がっていたはずだが、今や空は曇り、その下にある都も沈黙に満ちている。
これは、単にヘルトリングが冬の寒さに包まれているからではない。
とある人物――たった一人の青年から溢れ出す魔力によって、王都全体がすっかり呪われてしまっているからだ。
「寒……」
この苺を確保するのにだって、どれだけ苦労したことか。
マルティンは艶やかな苺を見下ろしながら、7年前の出来事に思いを馳せた。
7年前。
王都では初雪が降ったあの寒い冬の日、マルティンたちは彼らの師匠を失った。
それというのも、その数日前に東の森にやって来た聖職者たちによって、魔女・アデルは「勇者候補誘拐犯」の汚名を着せられ、中央教会に連行されてしまったからだ。
各々買い物に出かけていたマルティンたちが見つけたのは、カウンターに残されたメモだけ。
東十番教会に行ってくる、とあった時点で嫌な予感はしていたのだが、少なくとも戻る意思はあるように見えたし、最後に戻ったレイノルドも、「師匠は本人の意思で家を出たようだ」と言う。
なんと彼は、家全体に結界を張っていたのだ。
弟子たち三人はまんじりともせず、アデルの帰宅を待っていたのだが、とうとう夜が更けた頃にはしびれを切らし、東十番教会へ駆けつけた。
ところが、アデルの姿はそこになかった。
聞けば彼女は、東十番教会ではなく、王都の中央教会に「連行」されたと言う。
「教会は君の帰還を歓迎する、勇者レイノルド。君を攫った悪しき魔女は、中央教会に連れられ、明日にも火刑に処される。君は、今後は何の憂いもなく、教会で誉れある暮らしを送れるだろ――」
東十番教会の地方司教は、鷹揚に両手を広げてレイノルドを迎え入れた。
「う」
だが、次の瞬間には、彼は意識を失ってその場に崩れ落ちていた。
それはきっと、彼にとっては幸運なことだったろう。
恐ろしいほどの魔力を迸らせたレイノルドが、目を爛々と光らせて周囲を見回す様を、見ずに済んだのだから。
「……なんと?」
レイノルドは、己が風を巻き起こしていることにも、壁にびきびきと氷を走らせるほどに冷気を放っていることにも、気付いていない様子だった。
強い魔力の影響か、なびく髪から染め粉が剥げ落ち、みるみる黄金の輝きが明らかになる。
「師匠が、なんと?」
「レイノルド! 殺すな!」
「レイノルド、殺すのは居場所を聞き出した後よ」
司教の胸ぐらを掴んだ彼を、マルティンとエミリーが慌てて制止した。
だが、頭を強く打った司教はなかなか目覚めない。
彼らは仕方なく、水を持ちやってきた小姓に事情を聞くほかなかった。
幼い少年の頼りない陳述によれば、「アデルという悪い魔女」が、「勇者を攫っていた罪を償うため」、「中央教会の炎で身を清める」ことになったという。
引き換えに、勇者レイノルドには中央教会で司教の座が授けられ、彼を輩出した東十番教会にはかなりの便宜が図られるとのことだった。
「最近では、王都に集められた勇者候補は、どれもぱっとしないんですって。教会はずっと、攻撃魔法に優れた勇者を探していました。数ヶ月前、この町の外れにとんでもない魔力を持つ少年がいると――レイノルドさんの噂が教会で広がって、それで、王都から迎えが来たのです」
小姓にはレイノルドが、ようやく救出された誘拐被害者のようにでも見えるらしい。
「これまで大変でしたね、兄弟・レイノルドさん。悪に裁きが、善に報いがあることを祈ります」
労しげに肩を撫でようとした手を振り払い、レイノルドは呻いた。
「僕のせいだ……」
おそらく、ヴィムの一件で、レイノルドの存在が教会に知られてしまったのだ。
あの男のことは闇討ちしていたが、まさか彼が、アデルではなくレイノルドのことを、周囲に吹聴していたとは思わなかった。
「それよりも、今は師匠だよ!」
「一刻も早く中央教会に向かわなくてはいけません」
マルティンとエミリーは恐怖を押し殺して告げ、三人は一路王都を目指した。
馬車を襲い、御者を脅しと、かなり手段を選ばず道を急いだが、家で待機していたぶん、そして東十番教会に寄ったぶんの遅れは取り戻せなかった。
アデルに「買い物に行ってきます」と別れを告げて、たった二日後――。
初雪の降る日、王都の大聖堂前にたどり着いた彼らが見たのは、すでに散りはじめた人の輪。
そして真っ黒に焦げたままそびえ立つ、巨大な柱だけだった。
「あ……あ、」
あたりにはまだ煙の臭いが残っていた。
柱の傍には、人々が投げたのだろう石が落ちていた。
遺体はなかった。
柱のふもとに、燃え尽きて灰の塊になった何かだけが溜まっていた。
「ああ……」
広場を去る人々は、興奮も露わに隣人と囁き合っていた。
急に炎が膨らんだとか、次には跡形もなく燃えてしまったとか。
柱の元に溜まっているのは「人」なのかとか、いいやあれは藁の燃えかすだとか。
あんなに跡形もなく燃えてしまうなんて、やはりあの女は邪悪な魔物だったのか、だとか。
「ああああああ!」
本来だったら、「東の魔女・アデル」は悪意とともに語られ、より長く人々の噂の対象となっただろう。
だが、現実にはそうはならなかった。
膝を突いたレイノルドが、獣じみた声で咆吼したからである。
「レイノル――!」
マルティンたちは、咄嗟に肩に手を伸ばそうとした。
が、はたして声すら届いたかどうか。
石畳に崩れ落ちた彼から発される閃光、そして凄まじい突風に、兄弟子も姉弟子も、なすすべなく吹き飛ばされてしまったのだから。
「きゃあああ!」
――どお……おん!
人々の悲鳴に、臓腑ごと揺さぶるような雷鳴が重なる。
視界を焼く真っ白な光、それが浮かび上がらせる、吹き飛ぶ人々の黒い影は、しばらくの間、ヘルトリングの住人たちの悪夢となった。
「師匠……! 師匠!!」
以降、七日と七晩、大雷雨は続いた。
雨足が少しだけ弱まりはじめる頃には、人々はもう理解していた。
東の森で育った、黄金の髪を持つレイノルドは、歴代最強の魔力を帯びた勇者なのだと。
彼を育ててくれた師匠のことを、彼は大層敬愛し、いいや、心から愛しており――けれど教会は、そんな彼女を焼き殺してしまったのだと。
教会は非を認めなかった。
唯一、寛容派と言われるイェルクたち若手の聖職者だけが、アデルにかぶせられた汚名を雪ぎ、謝罪すべきだと主張した。
歴史ある組織の内部対立は、長く続くかに見えた。
だが実際には、ものの半月で決着が付いてしまった。
勇者レイノルドが、その莫大な魔力を用い、力尽くで教会の権力者たちを処分していったからである。
ある者のことは正面から暴力で制圧し、またある者のことは弱みを握って身ひとつで追放した。
多少良心的と見えるイェルクたちだけを配下として残し、彼らを僻地の教会に据えると、自らは中央教会――アデルを焼いた大聖堂に君臨した。
教会の中枢に位置することで、宿敵を未来永劫支配しようというのだろう。
けれど同時に彼は、最愛の師が去った場所を整えることで、その帰りを待ち侘びているかのようでもあった。
(師匠の遺体は、結局見つからなかったもんな)
回廊から庭園へと視線をやりながら、マルティンは軽く溜め息を落とした。
火刑とはいえ、全身に油を撒かれたわけでもないのに、形が残らぬほど燃えるなんておかしい。
数日は絶望の底にいたマルティンたちも、やがて希望に縋るかのように、こう考えはじめた。
アデルはどこかで、生きているのではないか、と。
(なにしろ、師匠は『戻ったら話があります』とあいつに書き残したんだもの)
レイノルドが、宝石や聖具よりも大切に、たった一枚の紙切れを持ち歩いているのを、マルティンは知っていた。
火刑以来、めっきり口数も減り、マルティンたちにすら笑顔を見せなくなった彼の、唯一人間らしい感情の発露だった。
レイノルドの行動を、馬鹿にすることもできる。
哀れむこともだ。
だが、マルティンたちだって同じ穴の
アデルの死が到底受け入れられなくて、悪あがきをはじめたのだから。
エミリーは精神感応魔法の鍛錬をやめ、水魔法を習得しはじめた。
きっと、毎夜悪夢に現れるという、火に巻かれるアデルを、水で助けてやりたかったのだろう。
マルティンもまた、微弱な炎魔法に加えて、時空魔法の研究を始めた。
時を操り、過去のアデルを救いに行きたかったのだ。
マルティンは、三人の中では最も魔力の素養が低く、彼が時空魔法を極めると宣言しても、誰も見向きもしなかった。
それでも彼は努力を諦めなかった。
(だって僕は、魔女アデルの一番弟子なんだ)
強い意思と、あとは、特異的とも言える数学の才能が、意外にも彼を助けた。
――あんたはさ、マルティン。絶対できる男よ。
どーんと構えて、下の面倒を見てあげなきゃ。
エミリーやレイノルド、優秀で金髪の弟子が入ってくるたびに密かに自信をなくしていた彼に、アデルはなんでもないことのように言っていたっけ。
彼女の言葉は、いつも気負いがなかった。
彼女は素朴な心で他者の技量に驚嘆し、心からの言葉で他者を称えることができた。
それがどれだけ、マルティンを励ましていただろう。
傍から見れば、小さな一歩。
けれどマルティンはそれを信じ、信じ抜き、とうとう、7年の歳月をかけて、対象を過去から未来へ移動させる時空魔法を構築したのである。
陣越しにぐいとアデルを「掬い上げた」感覚は、今もまだ指先に残っている。
「ああ、本当に長かった!」
マルティンは再度漏らして、窓の外を見つめた。
外はひどい空模様だ。
王都中に張り巡らされた負の感情を帯びた魔力が、暗雲を呼び寄せ町を薄闇に閉ざしている。
当然レイノルドの仕業である。
傷心のあまり都ひとつを闇に沈めてしまうなんて、まるで勇者というより魔王だ。
事実、彼が教会を壊滅状態に追いやったせいで、全国的に祈りが途絶え、天候が安定しないなど世界的な影響が出ている。だがそれも、今日を最後に解決するはずだ。
(だってこの僕が――師匠を7年後の今日に逃がすことができたから!)
時空魔法は移転先に広大な面積を要する。
本当は、陣をびっしりと描いた書斎へとアデルを招けたらよかったのだが、寒い屋外に飛ばすことしかできなかった。
アデルにはしばし寒い思いをさせてしまうが、それも、このマルティンが書斎から大聖堂前に駆けつけるまでだけのことだ。
祝福の花束代わりに、好物の苺も用意しておいた。
(師匠、驚くかな。驚くよな。「あのマルティンが!?」って絶対言う)
先ほど、過去のアデルを「掬い上げた」とき、7年ぶりに姿を見たが、当然のように彼女は23の姿のままだった。
なんとなく、ずっと敵わない姉のように思っていたのだが、こんなにも若かったっけと驚いたものだ。
(混乱してるかな。そりゃそうだよな。急がなきゃ。万が一レイノルドが先に、時空召喚陣に気付きでもしたら大変だ)
実はマルティンは、このアデル召喚の儀式を、レイノルドにも伏せていた。
なにせ構築したばかりの理論。
成功するかは五分五分だったし、もし失敗したら、レイノルドは落ち込む程度では済まないと思ったからだ。
今や笑みも浮かべず、力の限り暴れ回る、魔王のようなレイノルド。
それでも彼は弟弟子だったし、その心にある強い愛情に、同じくアデルを大切に思う者として、共感せずにはいられなかったのだ。
(さーて、どんな風に声を掛けようか、)
回廊を抜け、大聖堂前の広場に足を踏み入れたマルティンは、そこで思わず固まった。
(な……)
――どぉぉ……んっ!
広場にはすでに先客がいて、彼が大地を轟音とともに抉っていたからだ。
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