第1章 過去
03. アデル、勇者と出会う(1)
「はー、春って好きだわ」
のどかな草原にごろりと大の字に転がり、アデルは空を仰ぎ見た。
「薪代が家計を圧迫せず、薬草はばんばん育ち、無料の日光が程よい塩梅で降り注ぐ……」
思うさま日光を浴びながら呟き、ご機嫌で寝返りを打つ。
「そして、苺も実る」
顔のすぐ横に置いた籠には、摘んだばかりの薬草に紛れて、野生の苺が大量に詰め込まれていた。
すぐ隣の森で摘んできたものだ。
春にしか味わえない、このきゅんと口をすぼめたくなる酸味と、ほのかな甘みが、アデルは大好きなのだった。
「まったく、情緒がないなあ、師匠は。それが16の乙女の発言? 色気より食い気だね」
すぐ隣から、呆れた様子で肩を竦めたのは、赤っぽい茶髪とそばかすが目立つ素朴な少年、マルティンだ。
音楽の才能なんかないくせに、先ほどからご機嫌で、鼻歌なんかを歌っている。
手には、先ほど狩ったばかりのうさぎがあった。
「まあでも、今日は久々の肉にありつけそうだし、気持ちはわかる。エミリーに感謝だね」
「いえ、そんな。私は、うさぎの居場所をお伝えしただけで」
マルティンが振り向いた先には、ちょこんと草むらに座り込んでいる小柄な少女、エミリーがいた。
ふわふわとした金色の髪に、春の湖のような青緑の瞳をした美しい彼女は、照れた様子で小さな両手を振った。
「罠を張ったマルティン兄さんと、仕留めてくださった師匠のお陰です」
可憐な声で持ち上げられたマルティンは、でれでれと笑み崩れた。
「いやいやー、呼び捨てでいいってば。一番弟子と二番弟子なんていっても、なにせ師匠がこのぽんこつ魔女だし。僕たちに序列なんて、ない、ない」
「ちょっとマルティン、聞き捨てならないわね。罠に掛けたはいいけど、獲物を絞めることもできなかった臆病者は誰よ?」
むっとしたアデルは上半身だけを起こし、寝そべったまま頬杖を突く。
「たしかに私は大した魔女じゃないけど、生活力のある私がいなきゃ、あんたたちなんて飢え死に一直線なんだからね。特にマルティン」
「そりゃもちろん、感謝してるってば」
「もちろんです! 私、大きくなったら絶対、師匠に恩を返します」
軽く凄めば、お調子者だが気弱なマルティンは即座に引っ込み、エミリーもまた熱心に頷いた。
「いや、エミリーはそこまで言わなくていいんだけど」
アデルは苦笑して手を振ると、再び草原に大の字になった。
「ともあれ、前の依頼の収入も入ったし、うさぎも薬草も確保できたし。平和な日々で何よりよ」
腕輪を嵌めた手を、太陽に向かってうーんと伸ばしていると、ほか二人も麗らかな日差しに誘われたか、次々とその場で横になる。
「騙されやすい依頼人でよかったよねえ、師匠」
「人聞きが悪いわね。渡した薬草は一応健康にはいいんだから、騙したってほどじゃないわよ」
「そうです。『アデルの家』は卑しい魔女の集まりですけど、そのわりには教会の連中よりよっぽどいい仕事をするって、このあたりでは評判がいいそうですよ」
三人は穏やかな空を見上げながら話す。
そう、彼らは、国境の森にある「アデルの家」の魔女、そしてその弟子たちだった。
この国――聖フォルツ王国における魔女や魔術使いの位置づけを理解するためには、住人たちが信じる聖主教の神話について、まずは知らねばならない。
神話によれば、この国を含む大陸すべてを作り上げたのは聖主フォルツであり、彼は己の箱庭を栄えさせるため、土塊に息を吹きかけて命を与えた。
これが人間である。
泥人形だった人間に、聖主が炎を浴びせて心を、水を浴びせて知恵を、風を浴びせて言語を芽生えさせると、やがて彼らは己で考え、動き出し、子孫を作り出すようになった。
すると争いが起こるようになったので、それを憂えた聖主フォルツは、これと見込んだ人間に己の力を与え、人々を導くように命じた。
これが聖フォルツ王国の初代王、ゲレオンである。
聖主フォルツはさらに、王を助ける者として、武勇に長けた男や心優しい女にも、神秘の力、すなわち魔力を分け与えた。
こうした奇跡の力を持つ者たちは、男は勇者、女は聖女と呼ばれ、国のために尽力し、民を救ってくれるようになった――のだと信じられている。
だがこのとき、分け与えられた力に驕り、使命も忘れて我欲に走った者たちがいた。
彼らは、勇者や聖女とは区別され、男は魔術師、女は魔女と呼ばれる。
彼らは強大な力を悪しき目的のために使い、聖なる都ヘルトリングで主の名を称えることもせず、獣と奔放に交わり大陸の各地に散らばっていった。
すなわち、勇者や聖女と同様、奇跡の力を帯びながらも、聖主の色彩である金髪や碧眼を持たぬ者。
あるいは、教会や王都ヘルトリングに帰属せず、好き勝手に魔力を用いる者。
そうした卑しき者たちが魔術師であり、魔女だというのである。
「なーにが『魔女のわりには』よ。勇者や聖女みたいにキラキラの外見をしてないだけで、能力は教会の連中と同じだってば」
生まれてから何度も向けられてきた的外れな賛辞に、アデルはやれやれと苦笑する。
幼少時から辛酸をなめてきた彼女から言わせれば、聖フォルツの神話など、金髪碧眼の王族を賛美するために加筆修正されたフィクションだし、髪や瞳の色が異なるから魔力の質が異なるなんて、まったくの事実無根である。
おおかた、異国人や政敵を排除したがったお偉方が、やれ黒髪は危険だの、やれ教会以外の魔力保有者は反逆者だのと、難癖を付け続けた末にできあがった物語なのだろう。
「厄介者を排除したいからって、この国はすぐに神話にかこつける。芸がないったら。ねえ?」
ちらりと視線を寄越せば、マルティンやエミリーはそれぞれ、仰向けのまま肩を竦めたり、頷いたりしている。
例えばマルティンは、元は地方都市の商家の息子だった。
しかも生まれつき小さな炎を操る能力を持っていたため、幼少時は「勇者となるに違いない」と、母親からさんざん甘やかされて育ったらしい。
ところが、母親の病死後、父親の愛人親子に家を乗っ取られてしまった。
後妻は、「この子は碧眼だけど金髪ではないから、勇者ではなく、魔術師に違いない」と難癖をつけ、10歳のマルティンを無一文で屋敷から放逐したという。
幼いマルティンは、魔術師として弾圧されることを恐れ、比較的魔術師に寛容な国境東端へとたどり着いた。
そこで似たような境遇のアデルと出会い、以降5年、共に暮らしてきたのである。
一方のエミリーは、去年までは男爵家の娘として、王都ヘルトリング周辺に住む、高貴な少女であった。
精神感応力を持つ彼女は、金髪であったこともあり、成長したら聖徒学院へと入学し、将来は国を支える聖女となるべしと見込まれていた。
ところが彼女の可憐な美貌に恋した変態伯爵が、まだ9歳だった彼女を強引に嫁に取り、寝室へと連れ込んだのである。
拒否したエミリーは激しく暴れ、初夜を逃れたが、怒った伯爵は彼女を離縁した。
あげく、聖主教から除籍し、彼女を魔女だと糾弾したという。
同情した使用人の手によって、かろうじて国境東端へと逃れたエミリーは、そこで出会ったアデルたちに保護され、森での暮らしを始めたのだった。
ちなみに、アデル自身の境遇は、二人の話を掛け合わせたようなものだ。
東国の踊り子だった母親が、王都の商家に見初められてアデルを産んだものの、アデルに予知の能力があるとわかると、商売の邪魔になるとして親子ともども追放された。
どうやら父親にとって、「東国の美女」までは「エキゾチックな鑑賞物」として愛人にできても、「魔力を持つ東国の少女」となると、教会に弾圧されて厄介、という判断になるらしい。
とにもかくにも、アデルは5歳のときに国の東端に追いやられ、母親は「踊らないと稼げないし」とさっさと娘を見捨てた。
幸い東端には、似たような「魔女」たちが複数おり、中でも人のよい魔女がアデルを引き取ってくれたので、アデルはそこで弟子として6年ほど過ごした。
その後、11歳のときに師匠の死を機に独り立ちし、直後にマルティンと、5年後にエミリーと出会い、今に至るのである。
現在アデルは16歳。マルティンは15歳で、エミリーは10歳だ。
魔女と弟子というよりも、姉と弟妹。
師弟関係というより、はぐれ者が身を寄せ合っているだけなのだが、それでも、中途半端な魔力しかない三人がばらばらでいるよりは、「弟子二人を従える魔女」と体裁を整えたほうが、なにかと仕事が取りやすい。
ずぼらだが土壇場ではったりを効かせるのがうまいアデルと、計算が得意なマルティン、気が利くエミリーは、それぞれの性格や魔力を巧みに組み合わせ、占いや薬草販売でなんとか糊口を凌いでいるのだった。
「でも、弾圧が厳しかった数十年前よりはましよね。魔女でも、田舎に引っ込んで暮らしているぶんには、教会に目を付けられたりしないもの。まあ、私たちみたいなしがない魔女は、せいぜいこのまま大人しく――」
柔らかな草の寝床に、ゆったりと背中を預けていたアデルは、不意に言葉を切り、顔を上げた。
「まずいわね。近くを教会の馬車が通るみたい」
「えっ、本当? 車輪の音はしないけど」
「予知ですか?」
マルティンとエミリーは慌てて身を起こす。
いくら辺境では魔女弾圧も本格的でないとはいえ、時折王都から視察に来る聖主教の連中には、偏狭な価値観の持ち主もいる。
馬車に乗って移動している教会連中、というのは、厄介事の芽でしかなかった。
遭遇しないに限る。
「うん、一瞬だけど『視えた』。まさにこの道よ。馬車に聖主教の紋が刻まれてた。映った私は、桃色の腕輪を左手に4つ、右手に一つ嵌めてたし、苺の籠も映っていた。今日は聖主教歴1014年、4の月の15日でしょ? なら今日、きっとすぐだわ」
籠を掴み、アデルは茂みへと逃げ込みながら話した。
彼女の持つ予知能力は、精度こそかなり高いが、知りたい内容を好きな時に見られる、といった都合のよいものではない。
今のように、ふと瞬きの間に瞼に映ったり、睡眠中に夢の形で見たりと、なんの脈絡もなく発現されるものなのだ。
しかも視点は、アデル本人のものに限られる。
ゆえに、魔女としての彼女の格付けは低い。
それでも、この勝手の悪い能力を、アデルはそれなりに使いこなし、危機を躱すのに重宝していた。
日付と一致させた数の腕輪を身に付け、頻繁に眺めているのもそのためだ。
もし予知の映像に、自分の腕が映り込めば、そこからおおよその日付を割り出せるのだから。
桃色の腕輪は、それが聖主教歴1014年であることを表し、それが左腕に4つ嵌めてあることは、それが4の月であることを、右腕に1つ嵌めてあることは、日付が10日から19日であることを示す。
10日の幅はご愛敬だ。
今回は苺の籠という手掛かりもあったため、予知は見事的中で、しばらく茂みに潜んでいるうちに、がらがらと車輪の音が聞こえはじめた。
「さすがは師匠です」
「本当。紋章を見るに、あれ、教会の中でも王都派の馬車みたい。見つかったら厄介なことになるところだった」
茂みの陰に丸まったエミリーとマルティンが、小声でアデルを持ち上げる。
アデルは「まあね」と満更でもない顔で応じてから、目を細めて、遠くの道を走る馬車を見た。
「屋根にまだ雪が残ってる。北から降りてきて、ここを通過しようってことね。それにしても、王都から滅多に出ようとしないヘルトリング至上主義の連中が、なんでこんな田舎に来たのかしら」
「もしかしたら」
素朴な疑問に対しては、エミリーからおずおずとした答えがあった。
「啓光、かもしれません」
「啓光? なにそれ」
「初めて聞く言葉ね」
マルティンやアデルが首を傾げると、エミリーはこのように説明した。
「教会では、魔力を持つ金髪碧眼の王都民を学院に集めて、勇者や聖女となるよう教育を施しているんですが、時折、辺境の地にも、金髪碧眼の容姿と魔力を持った子どもが生まれることがあるんです。すると教会は、馬車を飛ばしてその子を保護し、特別待遇で育て上げると……」
「なるほど。田舎者にも栄光の道を啓いてあげるから、啓光、ということね」
「はい」
エミリーは10歳のわりにはかなり大人びた話し方をし、またそれに伴って感性も大人びていた。
「師匠やマルティン兄さんが金髪碧眼だったり、私も貴族社会を追放されなければ、ああやって、教会に保護されて、人々から称賛される人生を歩めたのかもしれませんね……」
貴族に生まれながら、庶民にも劣る暮らしを送らざるをえない境遇に、思うところがあったのだろう。物憂げに目を伏せている。
アデルとマルティンはちらりと目配せを交わし、同時にエミリーの細い肩をばしんと叩いた。
「なーに言ってんの。そりゃ贅沢はできるけど、勇者や聖女は救国の義務を課されるのよ。そんなの息苦しいだけじゃない」
「そうそう。こうやって気の合う仲間と、のんびり暮らすほうが楽しいって」
口々に盛り立てるが、内心ではその慰めが苦しいことも理解していた。
薬草採集や占いに頼った生活はいつも綱渡りだ。
勇者や聖女として、王侯貴族並みの暮らしをするほうに、それは誰だって憧れるだろう。
それでも、去年加わったばかりの二番弟子が、しょんぼりと肩を落としているのを見ていられず、アデルは肩を抱いたのとは反対の手で、遠くを過ぎる馬車を指差した。
「言っとくけど、勇者や聖女に対して劣等感を抱く必要なんて全然ないわ。金髪碧眼がなによ。ガワがキラキラに見えたところで、中身なんて大した――」
そのときである。
馬車の窓に掛かっていたカーテンが、前触れもなくすっと開かれたので、アデルは思わず目を見開いた。
見咎められたと焦ったから、ではなく、中にいた人物と、目が合った気がしたからである。
上等な馬車の室内に掛けていたのは、まだ幼い少年だった。
エミリーと同年代、いいや、それよりも小さく痩せて見える。
おそらく、8歳かそこらだろう。
遠目からもわかる、まるで陽光を集めたかのような金髪。
小さな顔は幼いながらも完成された美貌を誇り、青く輝く両目は、まるで宝石のようだ。
――ぐわ……っ!
「な――!」
突然、まるで大地が突然振動したかのような感覚を抱き、アデルは咄嗟に膝を突いた。
だが違う。
実際に揺れているのはアデルのほうだ。
平衡感覚を失った彼女は、そのまま草むらに倒れ込みそうになったのを、なんとか手を突いて持ちこたえた。
耳鳴りがする。
いいや、それ以上の大きさで、多種多様な音が耳元でせめぎ合っている。
音の洪水を追いかけるようにして、今度は、どっと映像の奔流がアデルを襲った。
『
幾重にも紗の掛かった、不鮮明な映像。
別々の場面を映した破片が、視界のあちこちで光を放つ。
これは予知夢だ。
柱や壁が崩れ落ちた廃墟のような場所を背に、男が、低い声でこう告げた。
『絶対に許さない。僕のかけがえのない存在を踏みにじった虫けらを。虫けらだからと見逃していたのが過ちだった。おまえだけは逃がすものか。何度殺したって足りない』
美しい青年だった。
まるで陽光で紡いだかのような金色の髪。
宝石のような青い瞳が、しかし今は爛々と怒りを湛えて光っている。
彼が口を開くたびに、身にまとう魔力が、ぶわりと大きな渦を描いた。
『やめて。やめて、お願い、レイノルド!』
彼がゆっくりと近付いてくるのを拒むように、誰かががしゃがしゃと激しい物音を立てる。
誰かというか、アデルだ。
予知は常に、過去と未来のアデルの目が捉えた光景しか映さないのだから。
白い腕には、日付を表す腕輪のほかに、無骨な手錠が嵌められていた。
手錠には鎖が繋がれ、どうやら牢のようなところに捕らわれているのだとわかる。
鎖が固定された壁は、黒の大理石でできていて、妙につるつるとしていた。
『や、やめろ、落ち着けレイノルド。いくら師匠を――ぐうっ!』
レイノルドと呼ばれる青年の背後には、アデルの見知った顔がいた。
マルティンだ。
今より10年以上年を取っている。
仲裁に入ろうとしたようだが、青年が振り返った途端、叩きつけられるようにしてその場に崩れ落ちた。
ごほ……っ、と血を吐くような音が響く。
『マルティン! ね、ねえ、レイ――レイノルド。やめて。あなたは栄誉ある、大陸一の勇者でしょう? こんな――うっ、ごほっ、ごほっ!』
アデルはよほど長時間叫び続けていたのか、声がすっかり掠れていた。
もがき続けてもいたのか、手首には錠が食い込み、出血している。
無様なアデルを見ると、青年はすうと目を細めた。
『一撃で殺すなど、しない』
不穏な一言とともに、血まみれの剣をゆっくりと持ち上げる。
ぽた、と血が垂れるごとに、彼はまた一歩近づき、言葉を重ねた。
『まずは耳障りな声を放つ喉を潰そう。醜い顔を焼き、次に手足をもぐ。焼き鏝を呑ませ、串刺しにしてやる。楽に死ねると思うな。回復魔法でいくらでも繰り返せる』
『ひ…っ! や、やめ』
アデルは喘ぎ、性懲りもなく叫んでいる。
やめてだとか、許してだとか。
だが、とうとう喉から出血してしまい、すぐに咳き込むはめになった。
屈み込んだためか、視界がぶれる。
そこに別の場面の映像が重なり、アデルの視界は混迷を極めた。
『絶対に許すものか!』
次に顔を上げたとき、青年は長剣を、大きく振り上げ――!
「きゃああああ!」
アデルは自分の喉が上げた声で我に返った。
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