02. プロローグ(2)
花の香りを含んだ冷たい風が、優しく頬を撫でてゆく。
(あれ……)
気付けば大地に身を横たえていたアデルは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
(私、寝てた? こんな場所で?)
ぼんやりと身を起こし、眼前の光景に目を凝らす。
所々に花を咲かせた、青く広々とした丘。
いいや、区画ごとにすっきりと芝が整理され、道が敷かれているところを見るに、広場といったほうが正しそうだ。
だが見覚えがない。
どうしてこんなところで寝ていたのか。
(薬草摘みの途中で、というわけじゃなさそうね。いつもの森じゃないし。やだ私、迷った? 早く戻らないと、心配性のレイノルドが――)
レイノルド。
その名前が引き金になったように、脳内に一斉に記憶が溢れかえる。
火刑。炎の中から呼びかけてきた一番弟子。
7年後。魔王。
後始末。
「――!」
アデルはがばっと背後を振り返り、再度愕然とする羽目になった。
そこには、つい先ほどまでアデルが背にしていたはずの、大聖堂が広がっていたのだから。
(ということは、ここは大広場の、火刑場……?)
じわりと冷や汗が浮かぶのを自覚しながら、アデルは「いいや」と己の考えに訂正を入れた。
空間的には同じ広場と言えるだろう。
だが、時間的にはそうではない。
ここはアデルが処刑されかけた広場ではなく、その
その証拠に、大聖堂の西の尖塔には、12の星が縫い取られた黒色の旗が揚がっていた。
これはヘルトリング特有の時の表し方だ。
12の星は今が12月であることを示し、黒色の旗は今が8番目の年であることを示す。
聖主教が定めた表年色は全部で10色あり、旗は10年を掛けて色を一巡させるのだ。
つまり、今は聖主教歴1028年の12月。
アデルの火刑が執行されたときには、12の星を縫い取られた白色の旗が揚がっていた――つまり、聖主教歴1021年の12月だったはずなので、どうやらそこから、ちょうど7年が経過していることになる。
流れる月日の間に、園芸好きの人間が教皇にでもなったのか、広場の歴史ある石畳はすべて取り払われ、代わりに青々とした芝や植栽が敷かれていた。
季節外れの花までもが、健気に咲いて揺れている。
ここにいると、まるでアデルが我が家と定めていた東の森にいるようで心が落ち着くが、いやいや、これから待ち受ける事態を思えば、そんな悠長なことは言っていられないのだった。
(7年後の、レイノルドの屋敷前に飛ばすって言ってたわよね? そして、今ここは、その7年後とやらの世界。屋敷の前じゃなくて大聖堂前だけど……この近くにレイノルドがいるのかしら)
わからないことが多すぎて頭痛がしそうだ。
レイノルドの屋敷、ということは、彼はアデルの家から出て自宅を構えたのか。
それはそうだ、彼は底辺魔女の弟子なんかではなく、栄えある勇者様なのだから。
そして彼は、どうやらアデルが処刑されたことにご立腹であるらしい。
7年経った今でも怒りは冷めやらず、おそらく八つ当たりかなにかを常にしていて、周囲は大変な迷惑を被っている、と。
(まったく、マルティンも、火刑から救ってくれたのはありがたいけど、もうちょっと説明してくれればよかったのに)
指折り数えて状況を整理しながら、アデルはもう片方の手で、混乱する頭を押さえた。
(師匠だから後始末をしろと言われたけど……、要は宥めろってことよね。そもそもなんで、レイノルドったらそんなに怒っているわけ?)
普通に考えれば、師匠思いの弟子が、仇討ちの念を燃やしたということになる。
だが、レイノルドは火刑直前に、アデルが保護者ではなく卑劣な誘拐犯だったということを知り、処刑承認のサインまで寄越してきたわけだから、その可能性はないだろう。
(だとしたらなんで? 気が変わったとか? いやいや、あの子は、一度敵に認定した相手のことは、世界の果てまで追いかけてでも仕留める子よ)
こめかみを揉みながら、アデルは末弟子の気性を思い出す。
冷たい美貌もあいまって、淡々として見える彼だが、その実、一度心を開いた相手には健気に尽くし、一方で敵と認定した相手には容赦のなさを見せる子どもだった。
たとえば、以前アデルが教会の派遣者に暴言を吐かれたときには、ずいぶんと怒っていたものだったっけ。
肝心の本人なんて数日怒った後はすっかり忘れていたというのに、翌月頃になって、彼はその派遣者が左遷されたとの報せを入手し、上機嫌で報告してきたのだ。
いわく、レイノルドは派遣者をずっと監視し、ほかの不正の証拠を集め、村人たちを扇動して彼を糾弾させていたのだとか。
末弟子の見せる意外な執念深さには、アデルも慄いたものだった。
(とにかく徹底しているのよね、やることが。きっちり復讐を終えるまで絶対に諦めないぞ、みたいな……)
つらつらと考えていた内容に、ふと頬を張られたような衝撃を覚え、アデルは固まった。
復讐を終えるまで絶対に諦めない。
(え、待って。もしかして)
嫌な予感に、背筋が凍る。
(『卑劣な誘拐犯に火刑なんかじゃ生温い。自らの手で復讐を果たすまでは絶対許さないぞ』、みたいな……?)
我ながら不吉すぎる考えに、アデルはしばし口元を引き攣らせた。
(いやいやいや。なわけ、なわけ)
だが思い出す。
かつて、アデルが贈った薬草の飴をマルティンが横取りしたとき、レイノルドが1週間にわたって大荒れしたことを。
仲裁に入ろうとしたら、手出し無用とまで言われた。
絶対に自分で片を付けたいからと。
(1時間もせず食べきる飴に対してすら、1週間怒ったのよ? 7年間、自分を騙してきた私に対してなら、どれくらいの期間、怒りを燃やすか……)
考え出すと、止まらない。
元からそれは、アデルがずっと懸念してきたことでもあった。
自首して火刑にも頷いたことで、アデルに従順な末弟子なら許してくれるのでは、という目算もあるにはあったが、やはり見通しが甘かったのかもしれない。
(い、いや、落ち着くのよアデル。そうは言ってもこの7年、同じ釜の飯を食ってきた仲じゃない。私がそうなったように、彼だって、私に対して情が湧いた可能性も、なくもなくもない……)
だがアデルを許したのだとしたら、彼が7年も大荒れしている理由がいよいよわからない。
(マルティンが、『師匠しか止められない』みたいなことを言ってきた以上、つまり、私に原因があるのよね?)
はたしてそれは、信頼されている師匠だからこそ止められる、ということなのか。
それとも、恨みの原因だからこそ復讐を果たす相手となれる、ということなのか。
(どっちよ!?)
頭を抱えて天を仰いだ瞬間、背後から突然光が溢れ出したので、アデルは慌てて振り向いた。
――ごぉっ!
一拍遅れ、光とともに烈風が、円を押し広げるように周囲に広がる。
「きゃあっ!」
咄嗟に腕で顔を庇ったアデルは、しばらくして、瞑った目を恐る恐る開いた。
光の中心にとある人物が立っているのを見て取り、息を呑む。
「――庭で妙な気配がすると思ったら」
円環を描く光の中心に、音もなく降り立った人物。
すらりとした体躯、一部の隙もなく着こなされた衣装に、塑像のように整った顔。
陽光を丁寧に紡いだような金髪の下で、アイスブルーの瞳が、なにもかもを凍らせそうな温度で輝いている。
「よりによって今日、現れるとは」
最高級の
「よほど、殺されたいものと見える」
だが、その美しい声は、アデルの記憶にあるものよりも数段低く、なにより憎悪が滲んでいる。
線が細く、控えめな笑みが印象的だった15歳の少年の姿は見る影もない。
ただ、暴力的なほどの美貌と、見る者に畏怖を覚えさせる迫力を帯びた青年が、そこにいた。
アデルが何年も苦しめられてきた、勇者に殺される悪夢。
今の彼は、その悪夢に登場するレイノルドそのものだ。
「あ、あの……」
びりびりと肌が痺れるような威圧感を覚えつつ、アデルは掠れた声を上げてみる。
相手が立ち、こちらが屈み込んでいる姿勢がいけないのではと思い、立って裾を払うことまでしてみせた。
なにしろこの7年間、アデルはレイノルドにとって「逆らえない偉大な相手」で居続けようと、常に理想の師匠を演じてきたのだから。
「ひ――久しぶり、ね?」
だが、たしかについ数日前までアデルのほうが高身長だったというのに、今の彼ときたら、顎を上げねば視線が合わないほどの偉丈夫になってしまい、これではちっとも恰好が付かない。
(私にとっては数日ぶりでも、相手にとっては7年ぶり、ってことだものね)
差の大きさに戸惑いながら、ひとまずアデルは精一杯の親しみを込めて呼びかけてみた。
「元気かしら、私の可愛い末弟子は」
それは、アデルとレイノルドの間ではごく一般的な挨拶だった。
一日の始まりや、ちょっとした声掛けの際に、アデルはしょっちゅうこのフレーズを用いていたのだ。
なにしろ、「愛情を込めて呼びかけると親への愛着が育まれる」と、育児書にはあったから。
だが。
「――……よくもその言葉を」
可愛い末弟子、の語を聞いた途端、レイノルドを取り巻く雰囲気が一層苛烈なものになった。
冷ややかだった青い瞳に、燃えそうなほどの憎悪を宿し、こちらを睨みつけてきたのだ。
「よくもその顔で。その声で……っ」
(え? え!?)
肌が切れそうなほどの強烈な怒気に、思わず後ずさる。
「お、落ち着いて――」
「その声で話すな!」
途端に轟音が響き、足元の地面がえぐれる。
ぱら……、と力なくこぼれていった土の音に、穴の深さを思い知り、アデルはぶわりと冷や汗を滲ませた。
(今、詠唱がないどころか、指すら振らなかったんですけどこの人!)
7年前の時点で、すでに規格外の聖力に目覚めていたレイノルドだが、今の彼の力はその数倍以上だ。
たしかに、「半ば魔王と化している」と言われたっておかしくない。
「囚人用のローブ、手首にはご丁寧に師匠お気に入りの腕輪まで。続々と湧く偽物ごときが、よくも
レイノルドは昏い瞳で、なにごとかを呟いている。
だが、声はあまりに低く、なにより穴に足を取られそうだったアデルは必死に体勢を整えていたため、彼がなにを口にしていたかはわからなかった。
(まずい、まずい、まずい……っ)
わかることといえば、ただひとつだけ。
「その姿を見せるな!」
――どぉぉ……んっ!
咆吼とともに、容赦のない攻撃を浴びせてくる末弟子は、まかり間違っても師匠を恋しがってなどいなかったということ。
つまり。
(やっぱり、7年もの間、レイノルドは私を憎んでたってことじゃああああん!)
マルティンめ、師匠を生け贄に差し出すなんて!
そしてなにより――。
「レイノルド! 寛容でありなさいって、あれだけ教えてきたのに……!」
不寛容にもほどがある末弟子に泣き言を漏らしつつ、アデルは脱兎の勢いでその場を逃げ出した。
芝を蹴り、土に足を取られそうになりながら、走り、走り、走る。
ああ、この走りにくい感じ。
緑の加減や、なだらかな角度まで、なぜだろう、東の森によく似ている。
思えば7年前――いいや、時を経た「今」から見れば14年前ということになろうか――、レイノルドを初めて見かけたのは、あの森だったのだ。
アデルが恐ろしい予知を得た森。
レイノルドを攫おうと決めた森。
二人の運命が交わったのは、あの、ほのぼのとした森でのことだった。
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