おじさんの恋

由佐さつき

閑話休題 四十一歳・春

 華の金曜日とはうまく表したもので、十八時を過ぎると街は途端に息を吹き返す。まるでこれこそが本来あるべき姿なのだと物語るように、色も音も、匂いまでもが喧騒を生み出している。繁華街と呼ばれる飲み屋街からぽつり、ぽつりと橙色の灯りが漏れてくる路地裏まで、だらしなく首元と財布の紐を緩めた仕事人で埋め尽くされていた。

 春にもまだ染まりきっていない今の季節は随分と過ごしやすい。一年を通して観光客の多い土地ではあるものの、薄桃色の蕾が膨らみ出すには些か早すぎるこの時分ではほとんどが地元民の往来であった。

 暖簾や提灯がぶら下がる居酒屋にスーツ姿の男女数人が入っていき、通りを挟んで向かい側のお洒落なバルには大学生だろう若い女性が吸い寄せられていく。交差点で待ち合わせをしているのは初対面にしか見えない二人で、それを横目に眺めているのはたくさんの買い物袋を提げた中年の女性だ。

 そんな入り乱れた人混みの中を、軽快にすり抜けていく一人の男性がいた。ダークグレーに細かいストライプ模様の入ったスリーピーススーツは一見すれば近寄りがたいような、堅苦しい印象ばかりを他人に与えてしまう。だからこそ日常的には使いにくいのか、あまり見かけないインナーベストであったが、颯爽と歩いていく長身の男性にはよく似合っていた。

 油断なくスーツを着こなし、背筋を伸ばして革靴を鳴らす姿はどこからどう見てもモテる男のそれで、いくら彼の目尻に深い皺が刻まれていようと、手元の文字を見にくそうにしていても、すれ違う女性たちからの視線は彼だけに寄せられていた。

 それでも、一心に自身へと向けられた視線に気付いていないのか、それとも一欠けらも気にしていないだけなのか。男性はまるで鼻歌を奏でるかのような上機嫌さで帰路を急いでいた。

「あ、もしもし?」

 目当ての場所に辿り着いたのか、大通りの半ばほどで脇に寄り、立ち止まった男性に声を掛けようと一歩踏み出した女性は一人二人の話ではない。誰が先に声を掛けるのだろうかと互いに牽制を送り合う先で呑気に聞こえてきたのは、彼女たちにとっては初めて耳にする男性の低い、落ち着いた声音であった。

 この地域特有のおっとりと間延びした喋り方は、舌先に残る蜜を限界にまで含んだかのように甘ったるく、そして色気に満ちていた。垂れ下がった眉尻と落ち着いた二重の瞼に遠くを見つめる瞳は優し気で、スーツで着飾っていても垣間見えるほど体は引き締まっている。加えて、スマートフォンを握る左手の薬指には淡い輝きを放つシルバーのリング。

 ああやっぱり、もうすでに相手がいたのか。こんないい男、結婚していない方がおかしいか。

 抱いていた希望も欲もすべからく打ち砕かれてしまった女性たちは一斉に他方へと散らばり、残ったのは男性の前後に並んだ、同じように家路を辿る仕事終わりの人々だけ。おこぼれを期待していた真新しいスーツで着飾った年若い男性は、理不尽だと分かりつつも溜息を吐かずにはいられなかった。

「……うん、ん、ありがとう。もうちょっとで帰れるけど、なんか買うて帰るもんある?……ん? ビール? 珍しなぁ、……はは、ええよええよ。買うて帰る。メーカーは?」

 しっかりとビールの販売元まで確かめる柔らかな声色に、彼の後ろに控えるような形で立ち止まっていた若い女性はひっそりと笑みを溢した。

 電話先の声は潜められているのか、単純に設定された音量の問題か、振動さえも辺りに振り撒くことはない。しかし、片方の声だけでもどれだけ相手を想いやっているのか、気に掛けているのかが充分に伝わってくる。

 好い男の、好いひと場面を盗み見ることが出来た。感謝を表すかの如く女性がバレないように小さく両手を合わせる先で、一分にも満たない会話が終わった。

 通話終了のボタンをスライドし、男性は丁寧にもサイレントモードへと切り替える。丸い爪先は短く整えられ、ささくれのひとつも見当たらない。

 緩めることなくしっかりと閉じられたジャケットの内ポケットにスマートフォンを収めたのを合図に、立ち止まった彼らの元へゆったりと市営のバスが到着した。



*****



「ただいまぁ」

 左手にアニマル柄のファンシーなエコバッグを、右手に汚れの知らないビジネス鞄を提げたままに重たい玄関扉を開けて明るく声を張り上げるが、廊下にはやまびこのようにぼんやりと男性の声が響くだけであった。

 だけれど、それが日常なのか、それとも単純に気にしていないだけなのか、男性は鼻歌混じりに革靴を脱ぐだけで不満に思う様子はない。

 壁際に鞄とエコバッグを置き、脱ぎ捨てた靴を揃えようと中腰の体勢になる。あちこちに動き回る部署ではないからなのだろうが、さすがにこの姿勢もそろそろ辛くなってきた。

 歳の重なりには勝てないと苦笑を漏らすと、ふと視界に飛び込んできたのは几帳面に並べられた一対の靴であった。

 今の今まで自分が履いていた艶光りする黒い革靴の隣には、それよりも二センチほど小さな真っ黒い革靴が置かれている。その二足から少し離れたところにはなんの特徴もない、量販店ではきっと店先に積み上げられているだろうスニーカーが一つ。

 革靴のように揃えられることもなく、僅かな隙間を空けてひょっこりと無造作に置かれている姿に、男性は思わずと言った風に息を溢した。

 男性には履きこなせないサイズのスニーカーは、さっき掛けた電話相手の持ち物だ。出勤するときにはなかったそれに、珍しく歩きやすさ重視でどこかに出掛けていたのだろうかとそっと首を傾ける。

 十五分ほど歩いた先にある商店街まで買い物に行っていたか、運動不足解消のために近くの公園まで散歩に行っていたのか。どちらかは聞かないと分からないことではあるが、見られなかった姿に少し口惜しくなる。

 私服でもスニーカーを合わせているところはあまり見ないのだ。靴箱で眠っていただろうそれに、今度二人で出掛けるときは絶対に履いてもらおうと、男性は静かに決意した。

 出来てしまった楽しみに緩む口元はそのまま、綺麗に揃えられたスリッパを引っ掛ける。薄いベージュに白が折り重なったチェック模様は、彼が気に入って購入したものだ。

 四角く区切られたような短い廊下には扉が五つ、向かい合うようにして並んでいる。その内の一つ、右手側にあるガラス扉を開ければ、途端に華やかな出汁の香りが広がった。温かく食欲のそそられる香りに、男性はスーツの上から引き締まった腹をさする。

「おかえり、着替えてくる?」

 それほど感じてはいなかった空腹に現金な身体だと香りを堪能していると、抑揚の少ないせいで平坦に聞こえてしまう声音が向けられた。男性はその声にただいま、ともう一度帰宅の挨拶を繰り返し、目尻に浮かんだ皺を深くした。

 キッチンからひょこり、と身を乗り出したのは、男性と同じくらいの年齢で、先ほどのスニーカーを履いてどこかに出掛けていたのであろう、男性だった。

 長身の部類に入る男性よりも幾分か小さく、肉付きの薄い体はいっそ華奢にさえ見えてしまう。染められていない黒髪からは何本も白が混じり、一重の瞼はゆったりと吊り上がっている。近寄りがたい雰囲気を醸し出す男性に、それでも中性的な柔らかさを覚えるのは薄く垂れた眉尻か、それとも穏やかに長身の男性を見上げる瞳の温かさか。

「いや、ジャケット脱ぐだけでええわ。早よぉ食べたいし」

「なに、それ」

 少年のように瞳をきらきらと輝かせ、鳩尾あたりを抑えて嬉しそうに告げる長身の男性に、もう一人は喉の奥で隠すように笑うだけ。余韻も引かぬうちにキッチンへと戻ってしまう。

 けれど長身の男性は満足したのか、買ってきたビールを冷蔵庫に移し、ファンシーなエコバッグを折り目通りに畳んでいく。ビジネス鞄の隙間にねじ込んでソファへと雑に投げると、キッチンからは咎めるような声が飛んできた。

 長身の男性はソファの上だから大丈夫、と言い訳にも満たない言葉を返し、ジャケットとネクタイをソファの背凭れへとかける。ベストはどうしようか、と迷う素振りを見せたところで呼ばれてしまい、結局は脱がずにダイニングへと足を向けた。

「君の手料理は久々やなぁ」

「たまにはね。春休みで在宅なんだし」

 ダイニングテーブルに向かい合って座り、いただきます、と揃って手を合わせた。シャツの袖口を何度か折ってカトラリーに指を伸ばす姿は、おじさんと呼ばれるようになった年齢にはどうも似つかわしくない。

 それなのに、緩んだ口元を隠そうともしない毛先の跳ねたおじさんには似合ってしまうものだから、細身の男性は小さく笑ってしまった。口元に指先を当てて笑われていることに首を傾げつつも、余程腹が減っていたのか、長身の男性はもごもごと動く頬を止めようとはしない。

 ひとしきり笑ってようやく満足したのか、持ち上がった口角が下がらない男性に続くようにカトラリーへと手を伸ばす。目の前で美味しそうに食べている人間を見てしまうと、いくら味見もしている作った本人であったとしても、早く食べたいと思ってしまうのは仕方のないことである。

 一口食べて頷いたあとに、細身の男性は冷蔵庫へと向かう。忙しなく口も箸も動かしていた長身の男性が空きっ腹ではなくなったと判断して、冷えたビールを取りに行ったのだ。

 缶と隣り合うように冷やされていた細長いグラスに、これまたよく冷えたビールを注ぐ。泡が立たないようにグラスを傾けて静かに注ぎ、最後はわざと泡が膨れるように缶を少しだけ持ち上げる。

 泡は三割にするのが美味い、というのが常套句ではあったが、出来上がったグラスビールは多く見積もって二割ほどしかない。二グラス分を綺麗に注いで長身の男性に渡してやると、苦く笑いながらも大人しく受け取った。

「なんでビールやったん?」

 半分ほどを一息に飲み込んでから、長身の男性は思い出したと一つ手を打ち鳴らし、真っ直ぐに視線を上げた。太りやすいから、となるべくビールの類は飲まないようにしていることを、細身の男性が知らないわけがない。それをわざわざ買ってきてほしいとは、またどういう気分だったのだろう。

 今日の献立は鶏肉と菜の花、それから薄くスライスした筍を出汁で絡め取ったパスタがメインとなっていた。彩り鮮やかに盛り付けられた菜の花の緑色は、この季節にしか食べられない。茎のしっかりとした食感と独特の苦みに舌鼓を打てば、視線の先で作り手の男性が穏やかに微笑んだ。

「飲みたかったでしょう、ビール」

 季節を感じさせるメインの隣には、プチトマトとチーズがごろりと転がったサラダ。小さな器には、セロリの浅漬けが乗せられている。これは食事の箸休めにも、どんな酒のつまみにもなるからと常に冷蔵庫に入れられているものだ。

 メインに出汁を使ってはいるものの、イタリアンちっくな食事であることに変わりはない。外で頼むとワインやウイスキーを勧められることの多い品揃えではあるが、ここは専門家もいない、二人が生活する自宅なのだ。何に縛られることもなく、好きなものを飲めばいい。

 それに、今日は金曜日だ。忙しなかった仕事も終わり、休日前の一息にはぴったりであろう。そう含みを持たせてビールを煽る細い指先に、長身の男性は参りました、と両手を上げた。

「控えとるからねぇ」

「鍛えているくせに。僕を見習ってくれないかな」

「何言うとんねん、太らんくせに」

 軽い言葉の掛け合いに、ザルを通り越してワクと呼ばれる部類の二人は注がれたビールを飲み干していく。バスを降りて途中にあるスーパーで購入した缶ビールの本数はたったの三本。

 折角買うなら、と選ばれたちょっといいお値段のビールは、二人が好んで飲む種類のものだった。既に二本が表面を凹ませていて、取り出してきた最後の一本は二人のグラスに均等に注がれた。

 長身の男性‐越谷こしがやはるかと細身の男性‐綾部あやべ翔平しょうへいはずっと昔からお付き合いをしていた。二十年近くにもなる仲はただ穏やかなだけでも、当たり前を当たり前に享受出来たわけでもない。それでも二人は伸ばした手を離すことはないのだと、こうして共に暮らしている。

 互いに若く、青春を謳歌する顔を知っている。女性に言い募られ、荒んでいた時代を知っている。仕事に明け暮れ、弱っていた姿を知っている。

 何が好きで、何が嫌いか。楽しいときには、悲しいときにはどうしてほしいか。まるで自分のことのように知っている。知らないのは、出逢う前のことだけだ。

「スニーカー履くん、珍しぃね」

 くるくると器用にパスタを巻き付け、越谷は太く纏まった麺を一口に飲み込む。そこに鶏肉と菜の花を拾い入れると、また頬を膨らませてもごもごと動かす。

 綾部はフォークに菜の花と筍を突き刺し、これだよ、と目の高さまで引き上げた。

「昼過ぎには仕事も片付いたから、散歩でもしようかなって。そうしたらこれを見つけてね、今日は僕が作ろうと思ったんだよ」

 なるほど、やはり散歩に出ていたのか。ふらふらと当てもなく歩いていたらいつの間にか商店街の方まで行ってしまい、冷やかしがてらに覗いてみたら季節ものに出会ってしまったのだろう。

 だがしかし、筍が出回るにはまだ少し時季が早いのではないか。思い返してもこの時節にはまだ相応しくはないと八百屋の軒先で悩んでいると、顔馴染みの店主が若い種類だと教えてくれた。スーパーなどで並び出すのはもう少し先ではあるが、こうして先に芽を出す個体もあるのだと言う。

 三月もあと数日で終わると言っても気温はまだまだ低く、春物のコートを着込んでいても肌寒く感じられた。それでも梅は満開を迎え、次に控える桜の蕾もふっくらと膨らみつつあった。

 一足先に春を感じるのもまた、風流でいいかもしれない。そう思った綾部は春の風物詩でもある筍と、寄り添うように並べられた菜の花を購入した。片手で掴めるような小ぶりサイズの筍でも、しっかりとした重さがある。両手に抱えて帰宅する途中は、何を作ろうかとそればかりを考えていた。

「もう春やねんなぁ」

 目尻を下げて語られた今日の出来事に、越谷は春の食材を眺めて感嘆を漏らす。それに綾部はぱきり、とセロリを噛み砕く音で答えた。今日漬けたばかりのセロリはまだ芯が残っていて、耳に気持ちの良い音を鳴らす。

「あ、今年はお花見行こうや」

 春の代名詞で思い浮かんだのか、越谷は近くの観光地として開かれている公園を告げる。綾部が散歩として通り過ぎた場所で、まだ一分咲きもしていない殺風景さであったが、あと一週間もすれば膨らんだ蕾が花開いてくれるだろう。

 それに、お花見と言えば酒だ。一口分も残っていないグラスを揺すれば、綾部は小さく笑った。

「そうだね。今年こそは、かな」

「この時期は特に忙しそうやもんなぁ」

 微笑みに苦笑いを重ね、越谷は最後の一口を煽る。化粧品メーカーに勤めている越谷は一年の半分が繁忙期だと嘆いているが、大学の准教授である綾部は年度の移り変わるこの季節が一番忙しい。目まぐるしく過ぎていく毎日に忙殺されていると、気が付いたときには夏の盛りを迎えている。

 実現出来るかどうかは、ある種賭けのようなものだった。不確かな約束事を好まない二人が、それでも実現出来たらと心待ちにしてしまう、子どもじみた小さな約束。

「一週間は頑張らないと、厳しいかな」

 半分に切られたプチトマトを潰し、ビールで流し込みながらスケジュールを思い出す。次々に脳裏を過ぎる提出物に、綾部はどうするのが最善かと逆算をしていく。

 スケジュールを組んだとして、その通りに進んでくれるなどと楽観的には思っていない。大学勤めになって日が浅いわけでもないのだ、狂っていくスケジュールには慣れている。

 それでも叶えてしまいたいと思うのは、綻んだ目元に皺を刻む男との約束を果たしたいと願うせいだろう。

 きょろりと視線を泳がせて予定を見直している綾部に、越谷はただうっそりと瞼を落とす。思い付きでしかなかった言葉を受け止め、こうして真剣に悩み、考えてくれる。忙しいから、と突き返すことのしない優しい男の存在に、いつだって甘やかされている。

 穏やかな春の夜。解けた表情を互いに向けた二人に、薄桃色の蕾はただその身を膨らませた。

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