第十三話 定行とかすていら
貴人の食膳の支度というのは大変なものである。例えば江戸の将軍の場合、膳奉行という二百石の役職の者が常時複数名いて、日々の献立を考えたり、試作品の味見をしたり、実際に料理をする包丁侍たちを指揮したりしていた。
幕府が直轄三百万石を領するのに対して伊予松山藩は十五万石の藩であるからそこまで大袈裟ではないが、いずれにせよ幕府の膳奉行とほぼ同じようなことをやっているのが御膳番であり、幕府の膳奉行と違って水野勘之丞ひとりでやっているからもちろん大変に忙しい。勘之丞が自身で『たると』のための研究をせず、安左衛門にその役目を託したるは自分ひとりではそこまで手が回らないからであった。
「よいだろう。では、事情が事情だから御家老にも話を通さねばならぬが、おそらく十日後あたりになろう」
「ははっ」
そういうわけで、秋もしだいに深まり始めたある日、安左衛門は松山城の御厨でかすていらを焼いた。
「よし」
焼き上げたかすていらから粗熱を取り、切り分け、さらに冷ます。もちろん、実際に定行のもとに膳が運ばれるよりもはるかに早い時間から作業は始まっている。一切れ、自らも試食をする。滋味よく、甘露である。とにかく、かすていらと呼ぶに足るものに仕上がっている。井筒屋のものの方が多少上ではあるかもしれないが、それでも遜色はないと言っていい出来であった。
「御毒味にございます!」
もちろん、食膳はすぐに殿様のところに運ばれるわけではない。幕府はもちろんのこと、どこの藩にも御毒味役というのがいて、藩主の食べるものを事前に改めるのが当時のしきたりである。
「問題ございません」
御毒味役のうち、ひとりがかすていらを試して、お定め通りの言葉を口にする。いよいよ定行の実食である。
「殿。お食事の刻限にございます」
「うむ」
家老の一人が食膳の脇にはべり、定行は料理を一品ずつ食べていく。ちなみに、一箸手をつけたらすぐに下げる、というのが殿様の基本的な作法であった。そういうわけだから次々に新しい料理がやってくる。まあ、それはいつも通り普通のことである。
「次なる菓子は、かすていらにございます」
「うむ。苦しゅうない」
殿様のところに上がってくるお菓子はそもそもそんなに大ぶりに切ってはいない。なので定行は一箸でかすていらを全て口に含んだ。
「如何で御座いましょうや」
「苦しゅうない」
定行はそれしか言わない。いつもそうなのである。いったいに殿様というものは、むやみに食膳の出来について善悪好悪の感想を述べたりはしない。難癖など付けようものなら、責任者に待っているのは切腹の沙汰だからである。また、褒めたら褒めたで、褒美をやらなければならなくなったりなど面倒ごとが生じる。そういうわけで、よっぽど埒外者の大名でない限りは、どこの殿様も似たり寄ったり、こういう日常を過ごしているのであった。
だが、聡明な定行は当然、気付いている。まずは松山城で、彼の食膳にかすていらが出されたのは初めてだ、ということについて。それから、どういう前後の文脈があって自分のところにかすていらが出てきたか、ということについてもである。
(まったく、余計なことを言ってしまったものだ)
彼がポルトガル船の上で食したあの菓子に対し、心底からの深い感銘を受けていたことに変わりはない。だが、それについて奥平に話してしまったことは痛恨の一事であった。自分が余計なこと、というか我儘なことを口にしたばっかりに、名前までは知らないが藩の包丁侍の一人がいまその研究に奔走している、という事実を、定行は把握しているのである。
(だが、もはや止めることも叶わぬ。まったく、心苦しい次第である)
殿様だからといって何でも威張って命令して澄ましていられるなんてことは全然ない。むしろ、一般庶民の方がよっぽど呑気に暮らしていられるし、殿様の生活というのは気苦労の絶えないものである。一度口にしてしまったことは、取返しが付かないのだ。武士に二言なしというのはこのことであろう。
(よく一人で研究をしてここまでのかすていらを作り上げた、と褒めてやりたいが、それはまだ時期尚早であろうなあ)
定行の認識は正しい。安左衛門の真の苦心は、まさにこれから始まるのである。
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