第1話 彼女は自由を夢見る脱獄囚

 春の夜風はくすぐったい。冷たくしたかと思えば、次の瞬間温もりを与えてくれる気まぐれな乙女のようだ。

 なんて詩的なことを少女が考えていたのは、ほんの数十秒前で、今は井戸の水を汲む手押しのポンプを、がらんがらんと勢いよく動かして、ジャボジャボと流れる水を桶に流し込む。桶に水が溢れると、メイド服の袖を捲り、井戸から汲んだばかりの冷たい水の中で、籠に入っている薄汚れた布をゴシゴシと洗い始めた。

 そんな少女の姿を半分になったお月様が遠くから見ており、彼女の姿をぼんやりと照らしている。

 少女の名前はユリシャと言う。目はグリーンで、青みがかかった淡い茶色の髪はどんな時でも緩くうねっていて、毎日が寝癖との戦いである。

 彼女がメイドとしてお屋敷で働き始めて早五年。お屋敷に来た時は短かった髪もゆるりと肩甲骨まで伸びている。今すぐにでもさっぱりと切りたかったが、朝から夜まで家事掃除と忙しく、切るタイミングをずっと逃し続けていた。彼女はそんな邪魔な髪を黒いリボンで一つに括り、もっさりとボリューミーなポニーテールを作っていた。

 少女が無言で布を洗って三十分ほど経った。汚れた布はちょっとだけ元の色を取り戻し、代わりにその汚れを吸い取った水が濁っている。少女が桶の汚れた水を排水口に流そうとすると、意外に重かったその桶を倒した拍子に手が滑り、桶がガチャンと地面から跳ね返る。丈が膝下まである黒のメイド服と白いエプロンがちょっと濡れてしまった。

 ユリシャはもう一度、桶に綺麗な水を溜め、躊躇いもなくぽちゃりと両手を突っ込んだ。

まだ冬の気を感じる水はとっても冷たいはずだったが、彼女は全然気にする素振りもなく冷たい水に手を入れた感覚を楽しんでいるようだ。

 不思議なことに彼女はどんなに水仕事をしても、手荒れに悩まされたことはなかった。それはきっと、私が魔力を持っていることが関係しているのだろうとユリシャは考えている。

 この世界に魔法を使える人間は少ない。大抵、魔法を使えるのは、貴族や神官などの特別な地位の人がほとんどだ。それでも稀に庶民の中でも使える人間がいるが、魔力の使い方を学んでいない人たちは、周りの人間を傷つけて、孤独に耐え忍ぶのが常だった。

 ユリシャもそんな人間の中の一人だった。

 きっとどこかにいたはずの、彼女が知らない両親は、荒れ狂う赤子の魔法に傷つけられたのだろう。手に負えそうにないそんな赤子は、森の中に捨てられていたことをユリシャは知っている。なぜなら彼女が孤児院にいた時に、嫌味を言うような顔でシスターはユリシャにそう言った。孤児院にいた頃の幼いユリシャは、今よりも感情を抑えることができなくて、しょっちゅう変なことが起きていた。

 ユリシャが嫌いなセロリのスープの大爆発。

 水溜まりがいきなり凍りつき、滑って怪我した、いじめっ子。

 かくれんぼをすると、決まって出てくる深い霧。

 シスターたちはユリシャを愛そうとしてくれたが、決まって最後にはみんな諦めた。

 一緒に孤児院に住んでいた他の子供たちも当然みんな離れていって、ユリシャはいつも一人だった。寂しさとだけいつも隣り合わせだった少女は、いつしか魔力のない普通の人間はきっと魔力のある私のことを、理解なんてしてくれないと強く思った。

 ユリシャは魔法が使える自分のことを理解してくれる、魔法の使える素敵な王子様が現れて、不幸な私を拾ってくれるはずだと強く強く願っている。魔力のない、ただの人間の攻撃から耐えるには、妄想の世界の中で、おとぎ話のようなことを願うことしか彼女はできなかったからだ。そんな願いはいつの間にか、魔法が使えない愚かなただの人間なんて、きっとつまらない人生を送るのだとユリシャは哀れみのような思いに成長させた。そして、孤児院のどんなやつになんて言われようが、一人でもまったく大丈夫な勝ち気な女の子になった。

 孤児院を出たのは十一歳。

 大きなこのお屋敷に住んでいるガドルという商人が、ユリシャを引き取ってくれたのだ。当初はまだ顔をみたこともないガドルという男にいろんな妄想を抱いて、わくわくとした気持ちを抑えきれずにいたが、お屋敷の扉をくぐった瞬間に淡い期待はパチンっと弾けた。

 ガドルはデブで脂ぎってる五十歳を過ぎたような男だった。淡い期待を容赦なく捻り潰すかのように、メイドとして迎えられたユリシャは、メイド長のナタリーの度重なる嫌がらせで、普通の人間がもっと嫌いになった。

 ユリシャが魔法を使えることを知っているナタリーは、変な生き物がそこにいるかのように接して、あれやこれやの無茶難題を言いつける。みんなが夕食を楽しんでいるこの時間に、汚い布を洗って、桶に水を汲んでこいという命令を下したのも、ユリシャがすっごく嫌いなナタリーが言ったことだった。

 そんな不幸続きな人生が、もう十五年続いている。そして、今は蕾の百合の花が、満開に咲く頃に、ユリシャは十六歳になる。

 桶の中に入れた手をゆらゆらと動かすと、ぼんやりとした明かりの中で真っ暗な水面がゆらゆらと揺られている。ユリシャはその冷たい感触を肌で感じ取り、それだけが自分のことを絶対に裏切らない味方のようであった。

(もうちょっとここで一人になりたい……)

 きっと長い時間ここでサボっていたら、ユリシャのことが大っ嫌いなメイド長のナタリーが、大声で呼びに来るだろう。

 水の中に入れた手を、素早く上下に動かすと、水面が生きてるようにぱちゃぱちゃと飛沫をちらす。ユリシャはそっと手を水から抜いたあと、水面を指でスッと撫でる。すると揺らいでいた水面が、魔法にかけられたかのように鏡のように平らになった。

 鏡のような水面には、素敵な王子様と結婚しそうにない、癖のある茶色の髪の痩せ細った少女の姿が映り、現実を示した。その姿を見たくなくて手を桶の中にまた突っ込み、ばちゃばちゃとすると、水が本来の姿を思い出したかのように水面を乱した。

(もう行かなきゃ……)

 せっかくの静寂をナタリーに乱されたくなかったユリシャは、水の入った重たい桶を右に持ち、洗ったばっかりの濡れた布が入った重たい籠を左に抱えて、灯りのある屋敷の方へ向かった。井戸から屋敷はそんなに離れてはおらず、実に短い時間で扉の前につく。ユリシャは気合を入れるように、はぁっと息を吐き、重い桶を地面に置いて、古びた重い扉を開く。突然の明るい室内に彼女は目が眩んだ。

「いつまで水を汲みに行ってたのですかユリシャ。早く掃除をしないといつまで経ってもご飯は食べられませんよ」

 すぐに叱責が飛んできた。

 ユリシャが開けた裏口の扉の近くにいたのは、身長の高くてひょろりとしたメイド長のナタリーだ。彼女は黒髪を頭の上で纏めて、細いフレームでできた、尖った眼鏡をかけている。

 ナタリーはひょろ長くてツンツンとしていたので、まるまると太った当主のガドルと並べると、さながらスプーンとフォークが並んでいるようで、ユリシャにはそれが愉快であった。

 そんな風にナタリーを心の中では馬鹿にしていたが、美味しいご飯を食べるためには、やらなきゃいけないことがあるとユリシャは知っている。洗濯物の入った籠を床に置き「申し訳ございません。ナタリー様」と心のこもっていない、いつも通りのセリフと五年の間に身に染み付いた、深いお辞儀をサクッと済ませる。

 押し付けられる大量の仕事と、少ない量しか出てこないご飯のせいでいつもお腹がぺこぺこだったユリシャは、心の中では魔法の使えない大っ嫌いなナタリーを馬鹿にしながらも、ご飯を抜きにされることを恐れて、抵抗を見せないように振る舞った。そんな彼女のもう一つの夢は、お腹いっぱいに美味しいご飯を食べることである。

 まったく心のこもっていない反省の態度を見たナタリーはイラついた声で言う。

「あなたは全く反省していないわ。明日はお客様がいらっしゃるから応接室とガラスの間の隅々まで掃除しなさい。それと今日のご飯は抜きですからね!」

 せっかく頭を下げたのに、夕飯がなくなってしまったユリシャは、がっかりとした気持ちのまま頭を上げる。

(クソ女……そんなだから誰からも嫌われるのよ)

 ユリシャは自分のことは棚にあげ、心の中で毒づきながらも、魔力が暴走しないように極めて冷静を装いながら「かしこまりました。ナタリー様」と深くお辞儀を繰り返す。

 この言葉を聞かないうちにコツコツと廊下の方へナタリーは歩いていく。メイド長である彼女は、この広い敷地のあらゆる管理をしているので何かと忙しいようだ。

 そんな高圧的な態度のナタリーに、メイドの誰もが決まって嫌いになるが、誰しもがメイド長である彼女には逆らえず、辞めていく人も当然いる。

 ユリシャは辞めていく人を横目に、ずっとこの牢獄のような屋敷で耐え忍ぶ。孤児であったユリシャには、帰る家も、行く宛もなかったので、どんなに苦しくて嫌になっても、ずっとこの屋敷に住んでいる。毎日、毎日、床を自分の顔が写るまで磨き、窓を曇りなく清め、大量にある彫像品の溝の埃を払っていると、あまりの空腹と身体の疲労にこの屋敷から出ていきたいという当初あった強い気持ちも擦り切れてしまった。

 ここにいればまだ暖かいご飯(今日のように抜きになることもあるが)と湿気ったベッドがあり、雨風を凌いでくれる屋根がある。

 しかしそんな不幸な生活でも、たまには良いことがある。その一つが、お金持ちの商人や貴族の端くれがこのお屋敷に来た時だ。当主のガドルがユリシャのことを魔法が使える変な人間として、面白おかしく紹介する。ガドルは生粋の商人で、沢山のお金を貿易によって稼ぎ、そのお金の向き先は珍しいものを集める趣味に向かった。剥製となった珍しい魔獣の首だの、古代技術のナイフや魔法のかかった剣や斧などがこの屋敷の至る所に飾られている。

 ガドルがそうであるように、ガドルの周りを取り巻く商人の人間から見たら、魔力を持った人間は、珍しいペットや高級な彫像品をコレクションのように集める感覚なのだろう。

 当のユリシャはそんな扱いは嫌ではなかった。水を氷にして水に戻して消してしまうといったような芸をすれば、大体の人は面白がったり不思議がって、彼女は美味しいお菓子や甘いジュースにありつける。

 きっとお金のないユリシャがこのお屋敷を出て行ったところで、森をウロウロしている魔獣に食い殺されるか、街の中のホームレスに混ざってお金を恵んでもらうしか道はない。

 中でも最悪なのは魔術技術協会の人間に連行されることだ。

 魔力がある人間は珍しいため、魔術技術協会の連中は、喉から手が出るほど、魔力を持った人間を欲している。その理由の表向きは魔法の原理を解き明かし、それを科学に転用させようとしているとのことだが、実際は何をやっているのかは誰も知らない。風の噂では人体実験だのなんだのと魔力のある人間を切り刻み、機械の動力源になっているなんて言われているものだ。それは、魔術技術教会から出られたなんて人間がいないから流れる噂なのだが、あながち間違っていないようにユリシャは考えていた。

 ユリシャは応接室の豪華で派手な調度品を磨きながら、そんなことを考えていると、時刻はもうすぐ夜中の十二時になりそうだった。

 明日も早くて朝日と共に起きるため、急いで窓を磨き上げ、掃除道具を片付けようと応接室の扉を開けると、この屋敷の当主であるガドルが大きなお腹を抱えながら、廊下を歩いて寝室に行くところであった。

 掃除道具を床に置き「旦那様。おやすみなさいませ」と言いながら深くお辞儀をすると、ガドルはこちらを向きびっくりしたように「あぁ、お前か」と一息ついた。

 そして「こんな遅くまで掃除か?」と不思議そうな顔でガドルは続けた。

「はい、旦那様。ですが、もう掃除は終わりましたので、これからお休みをいただきます」と言いながら、心の中では(応接室の掃除も、ガラスの間の掃除も、みーんなナタリーが無茶を言ったのです!)と毒づいた。

 ガドルはユリシャのそんな心を些かも知らない様子で、ユリシャの姿をじ〜っと見つめる。

「お前は今、何歳になるんだ?」

「この春で十六歳になります」

 それを聞いたガドルはなるほどといった顔をする。

「そうか、じゃあそれを片付けたら、あとでこっそり私の寝室に来なさい。ナタリーには何も言うな」

 ガドルはそう言って、寝室の方に帰っていった。

 寝室になんで呼ばれたのかわからず不思議に思ったが、お腹がペコペコだったユリシャは、哀れな女の子にこっそりお菓子をくれるのではないかと淡い期待を抱き、すぐさま掃除道具を片付けた。そして、ナタリーに気づかれないようにこっそりと暗い廊下を抜けて、ガドルのいる寝室に向かう。

 ガドルのいる寝室は分厚い木の扉でできており、小さく叩き小声で「ユリシャです」と言うと、くぐもった声で「入れ」と聞こえた。他の人に気づかれないよう、音が鳴らないぐらいゆっくりとドアノブを捻って、隙間ができたら部屋の中を覗く。

「こっちにきなさい」

 ガドルがそう言ったので狭い隙間をスルッと抜けて、音がしないようにゆっくりと扉を閉めた。ガドルはソファにゆったりと座っており、ワインを飲んでいた。テーブルの上には、チーズと乾燥したトマトが上に載っているクラッカーがあり、思わずユリシャのお腹がぐぅと鳴った。

「ご飯を食べていないのか?」

「掃除が終わらなくて食べられませんでした」

 ユリシャはクラッカーを串刺しにするかのような目線で見ながらそう言うと、ガドルは優しい笑みを浮かべた。

「じゃあ、そのクラッカーを食べなさい」

「ありがとうございます旦那様!」

 ユリシャは今日一番に喜びながら、クラッカーをパクパクと食べ始めた。

 ユリシャがクラッカーを食べ終わる頃に、ガドルは重たそうなお腹をよっこらせと抱えながら椅子から立ち上がって、扉の鍵を閉めた。扉に鍵が閉まったことを確認したガドルはテーブルの近くに立っていたユリシャの方に近づいた。

「ユリシャ、ベッドに座りなさい」

 ガドルはユリシャの細い腕を掴み、ベッドのある近くまで引っ張っていく。

 ユリシャが不思議そうにしていると男がユリシャの胸を押し倒した。

(なにすんの!)

 咄嗟にベッドから立ち上がろうとしたが、ユリシャの小さな体を押しつぶすように、ガドルは巨体で体重をかけるように上に乗り上げる。彼女は突然の出来事に、何が起こったかわからない様子で思考停止していた。

「お前は十六歳なのにまだこんな小さい胸をしているのか」

 ガドルが荒々しくユリシャの胸を揉み上げる。ユリシャは身体の使い方を思い出して、力いっぱいガドルを押し上げようとした。

「やめてください!旦那様っ!」

 全身全霊を込めてガドルを押し返そうとしたが、クラッカーを食べただけの細腕のユリシャには、どっぷりと重いガドルの身体を動かすことなどできるはずもなかった。

「大声をあげるな!」

 突然、ガドルに大声で言われ、頬をばちんと叩かれた。叩かれたショックで急にガドルのことが恐ろしくなり、抵抗が少し弱まると、ガドルはメイド服のスカートの中に手を入れた。ユリシャは、ガドルがこれ以上何をするのか恐ろしくなり、ぎゅっと目を瞑ると、ガドルの太くて肉のついたムチムチとした指が、彼女の太ももの上を這いずり、下着を脱がそうとしてくる動きに気づいた。

「いぃいいいやぁああああああ!」

 ユリシャが叫んだ瞬間に、鈍いゴンっという音が天井の方から鳴る。

 その音を合図に、スカートの中の指は行き先を忘れたように弛緩して、ガドルの体重が思いっきりユリシャにのしかかってきた。

(重い!)

 急に動かなくなったガドルのことを不思議に思いながらも、これ幸いというように、彼女は全身全霊の力を込めて巨体から抜け出した。支えをなくした男の身体はずるりとベッドから崩れ落ち、床を見ると角がゴツゴツしている枕ほどの大きさの氷が、元々そこにあったかのように転がっていた。

 先ほどのゴンっという鈍い音はこの氷がガドルに直撃したのであろう。それを示すように、氷には少し血が滲んでいた。

 犯人はすぐにわかってしまう。

 すぐさま下着を履き直し、立ち上がると、先ほどのユリシャの悲鳴に気づいたのか、どこかの扉が開いたカチャという音がする。

(このまま捕まったら、殺される!)

 ユリシャは寝台の横に飾ってあった装飾がゴテゴテと付いている銀のナイフを手に取った。

「何があったのですか!」

 ガドルの妻の慌てたような声が扉の前から聞こえてきたが、ガドルが扉に鍵をかけていたので、ドアノブがガチャガチャと大きな音を立てるだけで開かなかった。

 ユリシャは焦っていたが、たくさんの人が来る前に逃げないといけないと考え、意を決して扉の鍵を回す。そして、彼女は稲妻のように部屋を抜け出した。扉の前にいたガドルの妻とすれ違うときに肩が強く当たったが、ユリシャは振り返ることもせず、そのまま階段に向かって走りだす。

 ユリシャから強い衝撃を食らったガドルの妻はよろめいて、どさっと転んだような後ろから聞こえた。ユリシャが階段を駆け降りている途中に、部屋の惨状を見ただろうガドルの妻の絹を裂いたような悲鳴がこの屋敷中に響く。

 ユリシャは階段から裏口の方へ向かった。

 先ほどの声を聞いたこの屋敷の人たちは次々に起きてくるだろう。

 バンっ! と裏口の扉をこれ以上ないほど乱暴に開けて、そのまま裏の森がある方向に一目散に走っていく。手に持った銀のナイフは月の光に一瞬だけ輝いたが、少女と共に夜の闇の中に紛れて消えた。


 屋敷からけっこう離れた森の中。それでもユリシャは、まだ走っていた。

 この森を抜けるとバタジュールという比較的大きな街がある。彼女はよく買い出しや、ガドルの頼みによってお使いに行ったものだ。その時は、この森の横にある石でできた街道を通っていくのが常だった。

 走りすぎて肺がキリキリと痛み出し、ユリシャは思わず足を緩める。彼女は森の近くを流れている川の音が聞こえる方へ向かった。

 森にはキノコや木イチゴなどの食材を取りに行かされたり、川で洗濯をしたりしているので、どの辺りにいけば良いかは大体わかっているが、夜の帳が下りた森は鬱蒼としておりユリシャの方向感覚を大いに狂わせる。この暗闇の中では、無事に街に着く保証もなく、彼女は森から街へと続いている川に沿って歩こうと考えた。

 やっとのことで、たどり着いた川は半月と星々の明かりでしか照らされておらず、どこからどこまでに水があるのか分からず必死に地面に手をついて探っていった。

 ぽちゃんという音と指に触れた水の感覚が、未だ大きく鳴り響くドクドクという心臓の音をゆっくり落ち着かせた。

(これからどうしよう……。このまま街に行ったら門の前にいる兵士に捕まりそう……)

 街にはキャラバンもよく来るので、その時こっそり乗せていってもらうことはできないかとか、水路から入ることができないかな、といろいろ考えてみたが良い解決策は見当たらなかった。しかし、他に徒歩で行ける街もないため、結局バタジュールに行くことにした。

 呼吸が落ち着いたところで水から手を離す。川をこのまま下っていくと、バタジュールの水路の方に辿り着くだろう。季節は春だというのに夜中はまだまだ肌寒く、長袖のメイド服だけでは物足りなそうなものだが、ユリシャはそんな寒さをものともせず、森の奥に深く深くと走っていく。

 いつ屋敷の人が通報した捜索隊が、こちらの方に追ってくるかと思うと、彼女はとても恐ろしかった。

 遠くでおぉ〜んとオオカミの鳴き声が聞こえる。

 咄嗟に持ってきた銀のナイフは、観賞用なのかゴテゴテとした装飾がなされ、ルビーやエメラルドの宝石が埋められている。強く握るとそれらの装飾が食い込んで、手のひらが痛くなったが、今の彼女が持っている精一杯の防衛なのだ。

 彼女は魔法を使えたものの、少しの量の水や氷をコントロールすることしかできなかった。それは、誰も使い方など教えてくれない彼女の境遇に所以するものだろう。そんな魔力に頼るわけにもいかず、オオカミに出会わないように祈りながら、走るのに疲れた彼女は、川に沿って歩いていく。

 これから、行こうとしているバタジュールという街は海の近くにある交易の盛んな場所で、色んなところから届いた色とりどりの絨毯やら、香辛料やらを露天に広げて売っている。そこでは毎日賑やかな市があり、それを目当てにして商人以外にも、たくさんの観光客が訪れる賑やかな街なのだ。

 どうにかして、門の中に入ることができたなら、人混みに紛れて何とかなるかもしれない気がしてきた。

 実際、お金を持った商人がいっぱいいる街なので、メイド服で歩いていても、決して怪しまれないだろう。きっと堂々と歩いていたら、お使いだろうと思われそうだ。

 追いかけられている不安と、自由への期待が、交互に胸を満たしていたが、街に近づくにつれ、ぐんぐんと期待が膨らんでくる。

(あとはお金の問題ね)

 今のユリシャは一銭も持っていない。

 どうしようと不安が押し寄せてきたが、両手で握っている銀のナイフの刃がキラリと閃った。

(そうだ! これを売ろう!)

 適当に持ってきてしまった銀のナイフに感謝した。

(なんだか、幸先いいじゃない)

 近くの草の中から、不穏なガサっという音がした。

「きゃっ……⁉」

 ユリシャは驚いて、慌ててナイフを握り直す。

「きゃ?」と聞き返しながら、先ほど音がした方向の草むらの上から顔を出したのは、人間のよう(暗くて見えないが多分人間だろう)だった。ナイフを胸の前に突き出して、ユリシャが立ち尽くしていると、シュッと何かを擦る音と、男がいた辺りが若干明るくなる。そのまま、ジーッと見つめていると、男は草むらの陰からカンテラをひょいと取り出し、ユリシャの方を向いてきた。

 男はこげ茶の短髪で、疲れたかのようにやつれた顔つきをしている。右の瞼の上の方に最近この森の中でついたと思われる生傷があり、傷からながれた血は浅黒い肌を重力に従って線のように染めていた。

「大丈夫ですか⁉」

「お嬢ちゃんここで、何してんの?」

 同時に声を発してしまい、少し気まずくなった。男がゴホンとわざとらしく咳をした後、「大丈夫だ」と言った。その後もう一回「お嬢ちゃんここで、何してるんだ?」と問いかけた。

 問いかけになんて答えようかと焦って脳みそがぐるぐると一生懸命働いていたが、口から出た言葉は「キノコ狩りです……」という、誰がどう考えても嘘だとわかるであるセリフだった。なぜなら、今の季節は春であり、キノコなど探したところで見つかるわけもないからだ。

 実際に男は、は? て顔をしながら「キノコ狩り?」と聞き返す。

「あ、えぇとその……キノコじゃなくて、山菜でした! あの、この森は小さい頃から来てるので、よく知っているんです!」

「今、夜中だよ。明日にしたほうがいいんじゃないかな?」

 男は至極正論を投げかけてくる。

「あのっ……旦那様が明日の朝に山菜を食べたいと仰ったので……」

 どんどん声を小さくしながら、言い訳を続けていると、男はユリシャの手元のナイフをチラリとみた。

「逃げ出してきたの?」

「あ、いえ……あの!」

「あ〜いいよ。別に俺、気にしないから」

 ユリシャの想像と異なり、男はからりと笑った。彼女はそのまま、口をパクパクと開け、次の言葉を見失っていると、「大丈夫、別に通報しないよ」と男は言った。

 男がガサゴソと草むらから出てくるとその手には血に染まったナイフと革でできたバッグを持って出てきた。血に染まったナイフを見て「ひゃっ……」とユリシャが息を止めたら、男は手に持っているナイフに気づいたのか「ごめん、ごめん。川で洗ってくるから」と言って川の方に向かっていく。

 川でナイフをジャブジャブと洗っている男の背中を見ながら、「あの……あなたは何をされている方なんですか?」と控えめに聞くと、「ハンター」という短い答えが返ってきた。

 ハンターとはこの世界で、普通の仕事にありつけない何か理由がある人間が大体つく仕事だ。賞金がかかっている魔獣を討伐したり、未知の遺跡を発掘したりと、ハンターに分類される仕事の幅は大きくあるが、大抵は死と隣り合わせにある危険な仕事である。

(ハンターか……)

 きっと今のユリシャの状況に合う職業なのかもしれない。そう思ったユリシャはこのチャンスを逃す手はないと「あ……あの、私をハンターに弟子入りさせてください!」と懇願した。

 男は洗ったナイフを革のバックの中にあった汚い古布で水気を取ると、ナイフを半分に折りたたみながら「危険だぞ?」と笑いながら聞いてきた。先ほど、通報しないと言った男の言葉を信じてユリシャは覚悟を決めて事情を話すことにした。

「あの、実はお屋敷から逃げてきてしまって、行き場がどこにもありません。親も兄弟もいなくて……頼る人がいないんです……」

 ユリシャは握っていた銀のナイフを男に差し出した。

「あのっ……これ、盗んだんですけど、このナイフを差し上げます! だからどうかハンターとして生きる道を教えてください!」と慌てて頭を下げた。

 男がナイフを受け取ると「へぇ〜、そうかい。結構良い趣味してんじゃね〜か」とナイフをジロジロと見てから、「よし、いいだろう! 弟子にしてやる!」と軽やかに言った。

 その言葉に安堵と感謝が胸にいっぱいになったユリシャは「ありがとうございます!」と思いっきり深くお辞儀をしたら、瞼が決壊を起こしたかのように涙が溢れてきた。そしたらもう止めることが出来なくなって、うわぁ〜んと子供のように泣き出してしまうと、男が慌てたように「泣くなって」と言った。先ほど男が水で洗ったナイフを拭いていた布を手渡され、彼女は涙を拭った。

「今、シルバーウルフ狩ってたんだ。まだ一匹しか狩ってないが、もう夜も遅いし街の方に帰ろう」

 突然、泣きだしたユリシャに気を遣ったのか、男は優しげに言ってきた。

(よかった、良い人に出会えた……)

 今まで、他人に対して冷たくされた過去しかなかったユリシャは、もうすぐ十六年となる人生の中で、一番にこの男に感謝をした。街に帰ると決まったので、男が草むらの方に戻り、テキパキと荷物を片付けを始めた。

「何か手伝いますか?」

「うんにゃ。大丈夫」

 男はそう言って、一人で黙々と片付けていた。

「そういえば、お名前を聞いていませんでしたので、教えてくださいませ。私の名前はユリシャと言います」というと男は振り返って、頭をぽりぽりかきながら「ゼンだ」と短く言った。

「ゼンダさん?」

「ゼンだけだ、ダは要らない」

 そう言うと、また目線を下に落とし、かちゃかちゃと片付けを続行した。どうやら長い頭身を持つ銃でシルバーウルフを狩ったらしく、ゼンは銃を手際よく分解している。近くの木の枝に運の悪かった銀色のオオカミの毛皮がぞんざいに置かれていて、オオカミの中身は暗い草むらの横にゴロリと転がっている。あんまり、そちらの方を見ないように、ゼンの方に顔を向けると、まだ血が止まっていない右の瞼をぞんざいに拭う姿が見えた。

「まだ、血止まらないんですか?」と聞くと短く「あぁ」とゼンは答えた。

「ちょっとこっち向いてもらって良いですか?」

「なんだ急に……」

「血止めますね」

 ユリシャはゼンの傷口の三センチほど前に手のひらを当てて、深呼吸をして指先に集中させる。ほんのりと指先が暖かくなってくると、ゼンの瞼の上の傷口から溢れていた血が徐々に蒸発していくように固まっていき、そのまま瘡蓋のようになった。

 ゼンは驚いたようにユリシャを見上げて「魔法使えるのか?」と言った。

「はい。勉強していないので、今は小さい傷しか治せませんが必ずお役に立てるように頑張ります!」

 ユリシャは胸を張って言った。

「そうか。頼もしいな」

 ゼンは口角を少し上げて笑った。

 今までずっと魔法があったために厄介払いのような扱いや、コレクションのような扱いをされ続けたユリシャにとって、このゼンという男が示した扱いがとても嬉しかった。ずっとこの魔法を使って、誰かの役に立ちたいとユリシャは心の奥では考えていたのかもしれないけれど、誰からも必要とされない関係はあまりにも寂しかったのだ。

 ユリシャの心の中が温かい気持ちになった時、片付けが終わったゼンが「行くぞ」と言って立ち上がる。

 木にぶら下がっていたオオカミの毛皮を大事そうに左手で抱え、先ほどの分解した銃が入った革のバックを肩にかけて、ゼンはカンテラの明かりを先導に森の奥へと進んでいった。

 そこから一時間もしないうちに、樹々の隙間から森の終わりを告げる光が見えてきた。石でできた高い壁は何者も通さない強い意志を感じ、アーチの形にパックリと空いた城門には鈍い銀色をした鎧を纏う兵士が立っていた。

(ここからどうすれば良いんだろう……)

 ユリシャは不安になったが、ゼンは「俺のメイドっていうことにしろよ」と小さく言ったっきり、ずんずんと城門の方へ進んでいく。遅れないように慌ててユリシャもついていったが、不安がどんどん増してきて、もし入れなかったらどうしようと、頭の中で渦巻く気持ちがいっぱいになり、なんだか気持ち悪くなってきた。

 門番の兵士は、ユリシャたちが近づくと「そこで止まれ。何しにきた?」とお決まりのセリフを口にする。口の中が緊張でカラカラになって何も言えないユリシャをよそに、ゼンは軽やかに口を開いた。

「ハンターだ。シルバーウルフを狩ってきた」と言いながら毛皮とポケットに入っていたカードのようなものを兵士に見せる。

「その女の子はなんだ?」

「俺のメイドさぁ。狩りを手伝ってくれる」

「本当か?」

「そうだ、親戚の子でね。ハンターになるために何でもするって言うからさ、ハンター見習いってことで、メイドとして雇ったんだ」

「そうか。まぁいい入れ」と意外にもすんなりと門を潜った。

 思わず止めていた息を吐くと、さっきまで気持ち悪かった気分が吹っ飛んで、お腹が急にぐぅっと小さく主張した。その音が聞こえたらしいゼンは、喉の奥でくくくと笑い「宿に戻って飯にしよう」と言った。


 ゼンの泊まっている宿は一階が飲み屋のようで、二階が宿だった。

 飲み屋には、こんな深夜にも関わらず、未だに人がちらほらいて、静かに酒を飲んでいる。ゼンは飲み屋の方には目もくれず、二階の宿の方に足を向けて歩き出すので、ユリシャはその背中を追った。

「帰ってきたか〜死んだと思ったぞ」

 突然、テーブル席で酒を飲んでいた赤毛の男が言った。ゼンはその男の声がする方向に振り返り、「なんで俺がシルバーウルフで死ぬんだよ」と軽口を叩いた。そのあとすぐに、「部屋の方に荷物置いてくるから、その女の子になんか食わせてやってくれ」とユリシャを置いて、飲み屋のカウンターを過ぎた先の階段の方へ行ってしまった。

 知らない人間と二人になってしまったユリシャは慌ててゼンの方に向かおうと思ったが、赤毛の男が「まぁ座れよ。すぐ戻ってくるだろ」といい、「ロディだ」と手を出してきたものだから、慌てて「ユリシャです」と思わず手を握り返してしまった。諦めてロディのいるテーブルにつくと「ほらよ」とメニューを渡してきた。

「俺のおすすめは、子羊とほうれん草のクリームシチューだ」と言ったので、なんとなく気分がクリームシチューになってしまい、クリームシチューを頼んだ。

 料理が来るまでロディと無言でいたら、ゼンが戻ってきてほっとした。なにせ今まで気を張りっぱなしであったから、ゼンという心強い味方ができて肩の力が抜けていく。

「なんか頼んだのか?」とゼンが言うと「クリームシチューを頼みました」と言った。すぐに「俺のおすすめでな!」とロディが言ってきて、ゼンは少しニヤッとしながら「ビールを」とカウンターにいる店主に言った。

 ゼンはユリシャの隣に座り、ロディの真向かいになるとロディが「この子どうしたんだ? 森の中で拾ったのか?」と小声で聞いた。

「まあな」と言った後「ハンター見習いになりたいそうだ」と続けると、ロディが「まぁ人気商売だからな」と自虐的に言った。

 ロディとゼンは親しげでシルバーウルフを狩ったとか、あそこになんとかという魔物がいるとかいう会話をしていて、ユリシャは会話には入れなかった。けれど二人の色んな話を聞いているとハンターがとても楽しそうな仕事のように思えてきて、(ハンター見習いになれて良かった……)と心の底から思った。孤児だった頃の世界は、シスターと孤児のいる世界が全てでその先はないと思い、お屋敷で働いている時は一分一秒も自由がなかった。

(今の私には自由がある……)

 そう心で噛み締めた時に「お待たせ〜」と言う声と美味しそうなクリームシチューの香りを充満させたお皿が目の前のテーブルに置かれた。クリームシチューをスプーンで掬って一口食べてみると、さっぱりとしたミルクの優しい味が口の中に広がって、柔らかくなるまで煮込まれた子羊を急いで噛んで飲み込むと、冷えた胃が本来の体温を思い出したかのようにゆっくりと温まった。クリームシチューにはほんのりと温かい丸パンが二つ付いてきて、ちぎってクリームシチューにつけて食べてみてもこれまた絶品だった。

 ユリシャの耐え難い空腹だった体は、食べることを思い出したかのようにあとはもうガツガツと絶品シチューに夢中になった。シチューを一瞬で食べ終わってしまうと、体がぽかぽかしてきて、ユリシャはとっても眠くなった。

 うとうととしていると、ゼンが「上で寝ろ」と言ってきて、ゼンの部屋の鍵をもらい階段を上がっていく。階段の小さな踊り場にある窓からは朝日が登っているのをみて、もう朝であることを知った。

(今頃、お屋敷はどうなっているんだろう……)

 きっと、もう自警団の方に話は伝わって、今頃、森の中を必死に捜索しているような気がした。

 ふぁあっと大きなあくびを一つして、階段を登って部屋の扉の前に行くと、なんとなくトイレに行きたくなって扉の前から踵を返す。トイレは一階のレストランの方にあることを思い出して、ユリシャはゆっくりと薄暗い急な階段を降りていった。

 階段の角からこっそり覗くと、ちらほらといた客はいつのまにかにいなくなっていて、レストランの中にはロディとゼンの二人だけになっていた。

 二人は先ほどの会話と違って何やら深刻そうに少しトーンを落とした声で会話をしている。

 突然ロディの「……魔法使えるのかっ……!」という声がして、きっとユリシャのことを話しているのだと思い、地面にしゃがみゆっくりと彼らの声が聞こえるカウンターの裏に行った。

「それならそれで高く売れそうだ……、一体いくらで売るんだ?」

「金貨五〇枚だ」

「いやもっといける……客を選べば金貨一〇〇枚平気で出すかもな。商人の中にはそれだけ出すやつがいっぱいいるぜ」

 ユリシャは自分の話をしているのか、それとも盗んできたナイフの話をしているのか分からなくなって、次の言葉を待っていると「鴨がねぎを背負ってきたとはまさしくこのことだよ」とゼンが言った。

 咄嗟に自分も売られることに気づいたユリシャは、どくどくと主張する心臓を押さえ、ゆっくりと階段の方へ行く。手には汗がかいており、体は緊張していたが、ゼンに裏切られたショックよりも心の中は(……逃げなきゃ……)と強く思った。

 まずは部屋に戻って、ゼンの革の鞄の中から、屋敷で盗んできた銀のナイフを取り戻す。

 刃渡り一五センチほどもある装飾品のついた銀のナイフは折り畳めなかったので持ち運びにくかったものの、彼女が涙を拭いた古い布でナイフの刃を巻き、それをスカートの中の太ももにきつく結びつけた。

 深呼吸をして極めて普通を装い、今、階段から降りてきたかのように足音を立てながらカウンターを抜けると、「トイレってどこですか?」と間の抜けた質問をした。

 先ほどの会話などなかったかのようにロディは自然な感じで「あっちだ」とトイレの方を指さした。トイレに入り用を足したあと、ユリシャはトイレの個室を見渡した。

 上の高い位置に小さな窓が空いていて、頑張れば小柄なユリシャなら通り抜けできそうな隙間だった。問題は窓の位置の高さであったが、ユリシャには何も問題はなかった。

 意識を集中する。

 地面の上に水の通り道を作るようにイメージすると、トイレの中の水が少しずつ移動する気配を感じた。

 そして目標の地面についた時、水が凍っていって徐々に上を目指すようにイメージすると、ユリシャの指は氷のように冷たくなって、水もその温度に連動するように凍っていった。

 数分もするとちょうどいい高さの踏み台ができた。ユリシャは物音を立てないようにゆっくりと窓を目指して登っていった。


   ◆


(――おかしい)

 ユリシャがトイレに行ったまま戻ってこないと気づいたゼンは、一旦会話を中断して、トイレの方に向かう。ロディもなにかがおかしいと気づき、ゆっくりと後をついてきた。

 トイレを強くノックしたが、シーンとしたままだったので、再び強くノックする。なんとなく嫌な予感がして、今度はドアノブをガチャガチャと回してみたが、鍵がかかっている木の扉は沈黙を繰り返す。

「ロディ、斧だ! 扉破っても良いか?」

「ほいきた。後で弁償しろよ」

 ロディが急いで物置から持ってきた薪割り用の斧を、二度、三度とゼンが扉に打ちつけると、扉は大きな音を立て、ギザギザの大きな穴がぽっかりと空いた。

 そこを覗くとあらびっくり。

 いると思った少女は霞となって消えてしまったが如く影も形も残っておらず、代わりに大きな透明な氷がズドンと地面に置いてある。

「くそっ……後で金は払うっ! 戻ってくる!」とロディに言い残し、ゼンは急いでレストランの扉を開けて外に出た。


   ◆


(まだ、誰も追ってこない……)

 ユリシャはそう思うとホッとした。入り組んだ運河があるこの街は隠れるのに適した場所がたくさんあった。また、まだ朝というには早い時間だったので、人通りも全然なく、ユリシャは誰とも会わずにここまで来られた。ユリシャは人気のなさそうな道を選び、石畳を進んでいくと、この街で一番古そうな小さな橋があった。

 小さな橋の下には、誰かが捨てたのかわからない樽や木箱もあって日が当たらなそうになっている。橋の下に行けるように石の階段があったが、途中の石が抜けていたので、気をつけながらユリシャは橋の下に向かう。

 重なって置いてある、ぼろぼろで黒ずんだカビが生えている木箱に隠れるように、ユリシャは腰を落ち着かせた。結局今日はずっと歩きっぱなしで、一睡も寝ていない。足は痛いはずだったが、ユリシャは固い地面に横になったらすぐにトプンと意識の暗闇に落っこちた。


(――ここはどこ……?)

 目が覚めるとここがどこだか一瞬わからなかったが、すぐに自分がどこにいるかを思い出す。そして、周りから見えないように木箱に隠れながらゆっくりと伸びをした。

 いつもと違って硬い地面で寝たせいか、体はパキパキと軋んだが、疲れきっていたため深く眠れた。おかげでユリシャの頭はすっきりとしていた。一通り関節を伸ばした後、膝を前に抱えて座る。

(これからどうしよう……)

 また、ふと不安な気持ちになったが、太ももに違和感を感じ、装飾品がギラギラついた銀のナイフの存在を思い出した。お金になりそうな銀のナイフにホッとして、ひとまず売って、船に乗ろうと考える。

(気づかれずに船に乗れるかな……)

 バレないように服を変えなきゃと思った時に、ふと、樽の近くに落ちていた割れた鏡に気がついた。鏡を拾い樽に立てかけるように顔を移すと、不安な気持ちが前面にでた少女が鏡に映った。

(そうだ、髪の毛切ろう。多少は雰囲気が変わるかも……)

 少女は黒いリボンで括っていた髪を慣れないナイフで一気に切る。黒いリボンを解いて、自分の姿を見てみると髪の毛が斜めに切れていて、彼女はショックを受けた。長い方を短い方に合わせるようにちょっとずつ切っていくと、いつしか髪の毛は今までになかったぐらいに短くなってしまった。しかも癖のある髪は重さを失い、ぼわんと横に主張するせいで、角の丸い三角形のような髪型になってしまった。

(うそ〜なんで〜!)

 自分の姿にショックを受けたユリシャは、頑張って指で髪を梳いてみたが、なんの意味もなかったので(まぁ……軽くなって良いや……)と諦めた。

 心はいつまでも揺らいだままで、しばらく膝を抱えていたが、ここにいても仕方ないと、不安な気持ちを押し込んで、気持ちを強く奮い立たせるために、エイっと小さく掛け声をかけてユリシャは立ち上がった。


(もしかしたら、ゼンが骨董品を見張っているかもしれない……)と骨董品屋の前に立ってから思い立ち周りをキョロキョロと見渡してみたが、暇そうに突っ立てる兵士の姿とお昼ごろの市場が広がる通りは川の流れのような人だかりで誰もが自分に夢中だった。その様子を見て、きっと大丈夫だろうと考え、骨董品の扉を開けてみる。扉はギーっという音がしただけで、ユリシャのことを拒みはしなかった。

 扉の中は別の世界のように静かで、通りの雑音が遠くに聞こえる。店の中をぐるりと見渡すと奥の椅子に座っていたおじさんの「いらっしゃい」という声が響いた。

 なるべく自然な感じで「あの、これを売りにきました。旦那様のお使いで」と言い、装飾が施された銀のナイフを渡すと、店主はまじまじと銀のナイフを鑑定し始めた。

「このナイフの鞘はないのか?」と聞いてきて、そういえばなかったなと思い「鞘はなかったです」と強く言った。

 しばらく待つと店主は「三金貨だ」と言って、お金を取りに行こうと奥に行く。

(――三金貨⁉ 絶対、三〇金貨以上はするでしょ!)

 ぼったくられそうになったので、ユリシャは慌てて言った。

「あの、本当に三金貨ですか? 旦那様からは三〇金貨以上で売ってこいと言われているのですが……」

骨董屋の主人はふんと鼻をならし、「じゃあ三〇金貨だ」と言った。

 骨董屋の主人から、金貨が入って重い小さな革の袋を渡されると、ユリシャは急いで踵を返して、扉の方へ向かった。

 扉を開けた瞬間に突然、背中の方から「金を盗まれたーーーー!」という大きな声が響いた。響き渡った声に連動するように、市場を歩いていた人たちが、一斉にユリシャの方を見た。

「メイド服の女を捕まえろっ!」と第二の怒声が響き渡る前に、ユリシャは通りを駆け抜けた。

 その声を聞いてさっきまで暇そうにしていた兵士が、本来の仕事を思い出し「待て盗っ人!」と重そうな金属の鎧をガチャガチャと響かせながら、慌ててユリシャのことを追いかける。


 その姿はまるで、自分の怠慢で脱走を許してしまった、囚人と看守の追いかけっこのようだった。

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