依り代人形、復讐の旅

三宅 蘭二朗

プロローグ

霧の里

 ベールを纏うような霧の中で、無数のろうそくが炎の帽子を揺らしている。霧の中の小さな火は曖昧な輪郭で輝いていて、その様はまるで、生を終えた魂たちが行く先もわからぬままに漂い続けているかのようだった。その光景はまさに、うつし世とかくり世のあわいに立つ里という人々の評判に相応しかった。


「マルテ様。そろそろ頃合いです。参りましょうか」


 里長マルテはそう促されて、年代物の椅子から立ち上がるために体を揺らした。ひじ掛けから浮かせた片手を、今しがた声をかけた壮年の女性メルクリオが優しく取って手助けした。マルテはこの年に八十歳を迎えた里の最長老である。歳とは裏腹に未だ壮健ではあるが、その足腰は過ごした年月を誤魔化せない。


「今年で最後だね」


 深い溜息をつくように、感慨深げにマルテは呟いた。


「お疲れ様はまだ言いませんよ。今夜が終わってからです」


 メルクリオがクスリと笑う。マルテもつられるようにそのしわだらけの顔貌を緩めた。

 外へ出ると、ろうそくの炎でほの赤く彩られた里に大勢の人々が詰めかけているのがわかった。長老の姿が霧の向こうに現れると、人々が一様に恭しく頭を下げた。マルテとメルクリオも、わざわざ辺鄙な里に足を運んだ人々を労うように、四方へ頭を下げた。

 里は王国西部エストレージャ領の北西、ニエブラ地方の高地に存在する辺境の地だった。年中、霧に包まれていて、晴れる日は一度としてない。濃いか薄いか、その程度が変わるだけ。霧の里と呼称されるようになるのは必然だった。里は古くより降霊術を使う神秘の氏族の集落であり、領内の人々にとってここはまさに、かくり世の麓、うつし世より隔絶された場所だった。

 旅人すら立ち寄ることのないこの秘境に、これだけの人々が集まったのは、この日が年に一度行われる死者の祭りの日だからに他ならない。

 マルテは里の広場にこの日にだけ備えられた円形の舞台へゆっくりと向かった。老齢のマルテの横には、万が一のことがないように常にメルクリオが付き添う。舞台は一際多くのろうそくに周囲を囲まれていて、深夜の里の中でも一層明るかった。

 ふと、人々の中からざわめきが起こり、人だかりがたちどころに割れた。そこにできた道を数人の男たちが進んでくる。彼らが只者でないのは誰の目にも明らかだった。軽装の鎧に身を纏った数人の男とそれを従えた高貴な装いの男。男たちのマントに描かれた紋章に気が付けば、それが誰なのかは一目瞭然だった。その人物を前に誰もが首を垂れる。それはマルテとメルクリオも例外ではなかった。


「ようこそ、おいで下さいました。エストレージャ公」


 マルテが頭を下げる。男は精悍な顔立ちの青年で、凛とした佇まいに、若いながらも堂々とした風格を漂わせている。この青年こそ、王国西部を束ねる現西部総督エストレージャ家当主エスピガ・エストレージャである。エスピガは慇懃なマルテのお辞儀に苦笑いを浮かべて、聴衆と同じように肩膝を付いた。


「よして下さい。今宵は私も皆と同じ、ひとりの聴衆なのですから」


 そのやり取りを見てメルクリオはまたクスリと笑う。このやり取りはエスピガが領主の座に着いてから毎年見ている。


「しかし、マルテ様、今年も壮健のようでなによりでございます」


 エスピガが言うとマルテは苦笑いを浮かべてゆっくりと首を振った。


「壮健なことなどありませんよ。もう、随分この体にもガタが来ましてね。そろそろ、私も頃合いかと感じていたところです」

「こ、頃合い?」


 エスピガの顔に不安な色が滲んだ。それを見てマルテは慌てて片手を振った。


「そういう意味ではありません。まだまだ死ぬつもりはありませんよ。ただ、里長の座を譲ろうかと」

「ああ、なるほど。そういうことですか」


 エスピガは惜しむように目元を細め、一度小さく首を垂れる。


「寂しい限りではありますが、無理をするわけにもいきませんでしょう。ならば、今年は一層真摯に拝聴させていただきます。さ、皆のものも待ちわびておりますので、舞台へお上がり下さい」


 マルテはお辞儀をするようにうなずき、舞台へと上がる。舞台には分厚いクッションが置かれていて、マルテはそれに正座した。

 舞台にはすでにもうひとつ、人型のシルエットがあった。クッションを敷かずに、舞台に直接正座をしている等身大の木製人形だった。その姿は細身で丸みがあり、どちらかと言えばやや女性を模しているようにも見えた。

 里の降霊術師が使う依り代人形である。魂をその具体に降霊させ、現世に蘇らせる器となる人形だ。精巧に作り上げられた依り代人形には瞼もあり、今は眠っているかのように閉じられている。その静謐な顔貌に舞台を囲む聴衆たちは息を飲んだ。

 メルクリオの手を借り、クッションの上で胡坐をかいて腰を下ろしたマルテが、人形の手に自らの手をそっと重ねる。


「彼女の名前はティエラ。これより呼び戻す魂の持ち主の名を冠しております」


 静かに傍に寄ったメルクリオが、小瓶をマルテへ差し出した。マルテが小瓶に指を差し入れる。節くれだった指先が黒く染まる。それは遺灰だった。

 マルテは膝枕をするようにティエラを寝かせ、灰で黒くなった指先で額に横一本、額から鼻筋にかけて縦に一本と、顔の上で十字を描いた。

 領主を含む皆が固唾を飲んで見守る。

 静かに瞑目合掌したマルテが、誰の耳にも馴染みのない古の言葉を小さな声で連ねていく。里に古くから伝わって来た降霊術の呪文だ。それはまるで異界の言葉だった。

 風が止み、霧が一層深く落ちる。だが、ろうそくの炎は揺れていた。ひとつひとつが意思を持っているかのように不規則に怪しげとも言える舞いを見せている。魂を呼ぶという超常的な秘術に、里が、霧が震えている。誰もが竦んだ。里を覆う霧が胸の内に染み込み、人間の根源的な畏怖を撫でている。


「魂よ。いざ、再び現世に舞い戻られよ」


 長い呪術の詩を吟じ終え、マルテが目を開き、合掌を解く。聴衆は息をするのも忘れてその言葉を聞いていた。


「さぁ、今の世に語られよ。この地にあった惨劇と、それにまつわる物語を」


 ゆっくりと、依り代人形の瞼が開かれた。

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