善と悪

花鳥ヒカリ

第一章 敗北者の王

第1話

電灯がチカチカと点滅するこの空間で液体が床を叩く音だけが耳に入った。


 無機質な所々錆びた部分のある鉄に囲まれたトイレの個室で、天井にべっとりとついた血がぼたぼたと地面に落ち、その音が絶えず反響する。壁に散りばめられた血が地面にツーッと流れていく。


 僕の目の前に、便座に腰掛け、腰から下だけになった男性の姿が見える。腰の上には飛び出した背骨が見え、太ももには長いホース状の胃が垂れ下がり、排泄物が逆流したのかその口からドロドロと流れ出し感覚を取り戻した僕の鼻に鉄のような血の匂いに混ざって悪臭が入り込んでくる。


 さっきまで普通に話していたはずなのに、今となってはただの“モノ”と化してしまった男性。突然上半身が風船が割れるかのように破裂したその男性。


 僕はその遺体をただただ、呆然と見つめていた。


 何が起こっている?


 一体何が起こっているんだ?


『こいつは追っ手だ』


 不意に頭の中を反響する謎の声。初めて聞くその声。


 低く、重く、背筋が凍りそうなほど冷たい。


 追っ手?


 どういうこと?


『俺様たちを殺しに来た追っ手だ』


 僕たちを殺しに?どうして?なんで?


 そもそも『俺様たち?』


 この声の主は一体何者なんだ?


 そんな僕の疑問を無視し、声は続ける。


『奴の手に握られた短刀を見ろ。あれは悪魔殺しの短刀だ』


 僕は恐る恐る、この鉄塊の隅に吹き飛んだ男性の手を見る。握られていたのは声のいうとおり、短刀だった。


 僕はヒュッと息を呑んだ。


『こいつは俺様たちを殺すために近づいた。見れば一目瞭然だろう』


 ━だから殺した。だから俺様たちは殺したんだ━


 僕の頭が混乱する。


 僕が殺してしまった?


 どうして僕はこの人を殺してしまった?


 違う。


 僕は何もしてなんかいない。


 殺してなんかない。


 殺してなんかない。


 殺してなんかない。


 僕の足がブルブルと震える。視界はぼやけ、列車の車輪が線路と擦れる音が遠く聞こえる。


 反して嗅覚が研ぎ澄まされる。


 今まで嗅いだことのない強烈な血の匂いが無理矢理にでも入り込んでくる。僕は胃から何かが込み上げてくるのを感じた。


『早く逃げるぞ。次の追っ手が来る』


 しゃがみ込みそうになった僕の体が、胃液ごと消化物を吐き出しそうになった僕の体が、僕の意思とは関係なく動き出す。勢いよく鉄製の重厚なドアを開き、外通路に出ると向かい風と雨が僕を殴る。


 ふと後ろを振り返った。


 夜の暗闇の暴風雨の中では僕には何も見えない。


 でも、僕の体は僕の意思と関係なく先頭車両の方に駆けていく。


 約60メートルはあるであろう三両の外通路を、瞬く間に伝って、たどり着いた車両の鉄製のドアを蹴破った。


 中にはぎゅうぎゅう詰めに溢れんばかりの人々が乗車していた。何人かが開かれたドアの轟音でこちらを見た。酷く怯えた目をしていた。


 だが、ほとんどの人間は僕に気が付かなかったのかこちらを見ない。


『こいつらを囮にしよう』


 頭の中で声が反響すると同時に、僕の体が人混みの中に突っ込んだ。


 かき分けかき分け進んでいく。


 途中、女性の、子供の悲痛な叫び声が聞こえた。


 僕は後ろを振り返ろうとしたが、僕の体がそうさせてくれない。

 

 僕は進んだ。


 溢れんばかりの人混みの中をただひたすらに。鉄塊のかしらに向かって。


 ━どうしてこんなことになってしまったんだ?━

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