暗黒領域 4




 妖樹ラズリーは貪欲にして、大望を持たない女だ。


 千年以上もの昔に戦争の後に残った血肉や牙、死人の魔力を養分にして育った修羅の花である。

 彼女は目を出してしばらく意識の曖昧な植物としての生を過ごしてきたが、獣の時代の喧騒によって明確な自我を手に入れた。


 当時のラズリーは、闘争溢れる地を眺めて思った。


 ああ、死にたくないと。


 ラズリーはひたすらに死への恐怖だけで己の身を成長させ、力を増し、ついには植物系の魔物の頂点へと立った。一時はソルフレアに侍る近衛の候補になるほどまで己の力を高め、人間たちの軍勢も何度も打破した。だが今やソルフレアはお隠れになり、ラズリーが貪欲に戦う日々は唐突に終わりを告げた。


 魔物たちの領土は狭まり、今や暗黒領域の中だけで暮らす矮小な種族となった。一定規模を持つ勢力に対しては、「国盗り」が終わらないよう戦争禁止を命じられた。


 その魔物たちの凋落にラズリーは安堵した。これで命を長らえることができると。


「そこ、手を止めないで。アリ一匹たりとも見逃してはだめよ。あたしの庭園に入っていいのは、あたしに愛されてる仔たちだけなんだから」


「は、はい!」


 ラズリーは他の魔物のように絶望することはなく、それまで以上に好き勝手に生きている。暗黒領域の中に生まれた十三の大国の内の一つを治め、美しいものを愛でる生活に耽溺した。他の国主のように暗黒領域の維持であるとか、人間の国に反旗を翻すための研鑽であるとか、そうした大望は何もなかった。


 ただひたすら死にたくないと思い続け、ただそれだけで国主として君臨し続けている。


 反乱が恐ろしいために催眠効果のある花粉を振りまき、食事……つまりは自分の果実を与える代わりに、女子供を差し出させた。そうして自分の命が保証されてる間は、それをより強固に守ることと、美しいものを愛でることがラズリーの楽しみであった。人質はラズリーの願望をどちらも満たす最良の方法だ。ラズリーはそんな小物だ。


 だがそんな自分を一点の曇りもなく愛しているラズリーは、強い。自分の命を守るという、誰にでも備わっている本能だけで誰よりも強く、美しくなれる、卑怯な女だ。


「あなた、いい働きぶりね……。ご褒美を上げるからいらっしゃい」


「ああ、ラズリー様……」


 ラズリーは、奴隷の子供らに自分の庭園――と言っても、池に自分の半身たる草花を生い茂らせた、ラズリー自身の肉体の一部だが――の手入れをさせては褒美を与える。


 褒美とはラズリーが生み出す、桃のような甘い果実だ。


 その美味を求めて外からやってくる人間さえ現れた。ついには人間たちも我も我もと求め始めて、気付けば唸るほどの大金となった。


 ラズリーに美徳があるとしたら、自分の葉や果実を分け与えることには惜しみないことだろう。褒美に果実を与えることは、自分の身を守ることの次に大事な美徳であり正義であると思っている。


 だがラズリーの果実には毒がある。それを口にすれば少しずつ、少しずつ、ラズリーを愛するようになる。


 そして果実を発酵させて酒精を抽出すれば、強い依存性を持つ酒となり、人々はそれを求めて争い合う。


 ラズリーは人を堕落させる酒造りまでして商売をする人間の貪欲さに驚いてはいたが、積極的に止めようとは思わなかった。美味しい物を飲み食いして死ねるならそれも一つの幸せだろうと。


 そもそもラズリーは妖樹である。自分という自我は嫌いではないが、自我を保つことに面倒くささも感じている。であれば酩酊させて、愛する者を見出し、世の苦しさを紛らわすことの悪徳を理解できない。


 生きること、美しいこと、美味しいこと、面倒なことを考えずに済むこと、シンプルな生き方を千年以上も貫いてきており、今日もラズリーは美を愛でていた。


「おるかー!」


 恍惚の気分を打ち破る蛮声に、ラズリーは顔をしかめた。


「何事かしら、騒々しいわね」


「は、はぁ……ゴブリン族が人間の娘を献上しに来たようなのですが……どうも様子がおかしく」


「ゴブリン族?」


 ラズリーはゴブリン族が好きではない。

 人質の娘を抱いてやって生活を保障しても嬉しい顔一つしない。

 褒美にラズリーの果実を与えても、完全な服従を嫌がって食べようともしない。

 どんなに飢えていてもだ。


 心の奥底にどこか反骨心を抱き続けているゴブリンに、ラズリーは苛立ちを感じていた。


「……心を入れ替えたのかしら。それとも」


 ついに飢えに耐えかねて心からの恭順を示すのかもしれない。

 そうであれば面白い。

 興味本位でラズリーは声の響く方へと向かった。


「ソル、おまえっ……よ、よせっ!」


「なんてパワーだ……十人がかりでも止められん……!」


 それは異様な光景であった。


 人間の童女が、ゴブリンの必死に押し止めているにもかかわらず、凄まじい力で歩みを進めている。

 誰かが巌のように娘の前に立ちはだかっている。


 どこかのゴブリンが渾身の力を込めて古代の力人ちからびとのように裸足で大地を踏みしめ、重心を低くして娘を押し返そうとする。


 別のゴブリンが娘の腰に抱きつき、両足で踏ん張って後ろから食い止めようとする。

 その他のゴブリンは、押し返そうとしたり食い止めようとしているゴブリンを助けている。


 十人以上の力が掛かった人間の娘など、骨が粉砕されて絶命していてもおかしくはない。だというのに、娘は一歩一歩ゆっくりと、だが想像を絶する凄まじい力で、ラズリーのいる場所を探し求め、歩いている。


 熱い。


 そして、寒い。


 ラズリーは童女から、煮えたぎるような怒りが熱となって放射されているのを感じた。自我が曖昧としていた頃に感じた、懐かしい竜夏の匂い。どんな強者であろうが圧倒的な存在の前に生と死が平等に訪れる、背筋が凍るような恐怖を感じる灼熱。


「……馬鹿な。そんなはずないわ」



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