第4話 残り香

屋敷の周りを囲むように、庭の外からゆっくりと霧を纏いながら妖が近づいてきていた。


月光に照らされたその姿は、全身が薄い霧に包まれ、輪郭はぼやけて曖昧だ。だが、顔だけは異様にくっきりと見えた。その顔は、不気味に歪んだ笑みを浮かべ、目と口は暗闇のように真っ黒。じっとこちらを見つめているようでありながら、その視線がどこにも焦点を合わせていない。


あやかしだ!」


鋭い声が静寂を破った。橘東家の当主、橘東桂一きつとうけいいちが険しい顔で叫ぶ。


「封印の残り香に誘われてきたんだ!」


その言葉を聞いた途端、橘家の人々は一斉に霊符を握りしめた。緊張感が張り詰め、空気が一段と冷たくなる。


「なにっ……低級のあやかしだと?…だが…」


雅彦が冷静を装って声を出す。しかし、その声音には明らかに動揺が滲んでいた。


「……か、数が多すぎる……!!」


霧の中から姿を現した妖たちは、次々と数を増し、庭の周囲を埋め尽くしていく。数え切れないほどの妖が、屋敷を包囲するようにじりじりと迫ってきた。


「結界を張るぞ!」


宗近が鋭い声で指示を出す。その声は普段の穏やかな当主のものではなく、鋭利な刀のような緊張感を帯びていた。


「東、桂一けいいち! 西、隆弘たかひろ! 南、明良あきよし! 持ち場について結界を張れ! 北は雅彦、お前が守れ!」


各方向の当主たちはすぐさま自分の持ち場に向かい、霊符を構えて印を結び始めた。


息子の雅彦も宗近の指示に従い、北側の守りを固めるべく持ち場に走った。

手早く準備を済ませた分家の当主たちはそれぞれの持ち場で結界を張るため、呪文を唱え続けている。


「天つ神、地つ霊、四方を護りし光よ、邪を退けよ――『封界結界』!」


彼らの声が庭全体に響き、徐々に結界が形成されていく。しかし、完成には時間が必要で、その間に妖たちは中庭に次々と侵入してきた。


あやかしが中に入ってきてるぞっ!!」


雅彦が鋭い声で叫ぶ。


宗近は歯を食いしばり、すぐさま結界の外へ飛び出した。


「キリがないっ!私は外のあやかしを減らす!中は任せた!」


宗近の声に促され、桂一たち当主は中庭に視線を移す。


侵入した妖たちは庭をうろつきながら、目に見えない瘴気をまき散らしている。紗月はその場に立ち尽くしてしまい、全身が震えていた。


(なんで……うちだけ……動けへんのや……!)


握りしめる手は震え、足元がすくんで一歩も動けない。紗月の視界には、分家の若い者たちが次々に呪文を唱えて入ってきた妖を払おうとする姿が映っていた。


橘南家の跡取りである達也は、冷静に霊符を構え、指先で印を結びながら、鋭い目で妖たちの動きを観察していた。


「まずは動きを封じる。」


低く呟いたその声とともに、霊符が鮮やかな光を放ちながら空中を舞い、前方の妖たちに突き刺さった。


妖たちの身体を覆う霧が一瞬だけ硬直する。動きが鈍くなった妖を見て、達也は冷静に指示を出した。


「直人、今だ!」


達也の言葉を受けた橘西直人きつせいなおとは、霊符を投げ素早く印を結び、呪文を唱えた。


「天火よ、我が霊符に宿り、闇を焼き尽くせ――『焔の槍』!」


霊符が炎を纏った槍の形となり、妖の霧の身体を貫いた。その妖はうめき声を上げ、霧の輪郭が一瞬崩れた。


「数は多いが、力自体は大したことはない。数で押し切られる前に減らすぞ。」


一方、橘東家きつとうけの跡取りである慶介けいすけは、霊符を頭上に掲げながら、独特のリズムで呪文を唱え始めていた。


「輪を結びて闇を断つ、五行の剣よ――『五芒斬』!」


霊符が空中で輝き、五つの光の刃となって妖たちに向かって放たれる。刃は精確に妖の霧を切り裂き、そのうちの数体が動きを止めた。


「焦るな。相手は数で勝負してくるが、一体ずつ確実に仕留めればいい。」


達也が冷静に状況を見極め、指示を出す。


「そう言っても、無限に湧いてくるような気がするけどな……!」


直人が皮肉めいた声を上げるが、その表情にも疲労の色が見えていた。


「まだ結界が完成していないんだ。俺たちが持ちこたえるしかない。」


慶介が再び霊符を手に、必死に妖たちの攻撃を防ぎながらそう叫んだ。


「危ない!」


突然、達也の叫び声とともに霊符が舞い、紗月の目の前で炸裂した。その衝撃で、一瞬耳鳴りがし、身体がぐらつく。


「お前、何してるんや!下がっとけ!」


達也に叱責されても返事ができず、震えながらその場に立ち尽くした。頭の中は真っ白で、何をどうすればいいのかわからない。


(うち、邪魔なだけや……)


妖たちの数は次第に増え、戦いはさらに激しさを増していく。跡取りたちの術が次々と放たれ、妖たちの動きを封じたり、霧の身体を切り裂いたりするが、完全に数を減らしきることはできない。


「結界、あと少しだ……!」


遠くから雅彦の声が響いた。


跡取りたちは最後の力を振り絞り、必死で妖たちを押し返し続ける――。


そんな時、莉乃りのが紗月に近寄ってきた。険しい表情で、紗月を睨みつけるようにしている。


「このっ、役立たず!」


吐き捨てるようなその声に、紗月は思わず肩を震わせた。


「何もできないなら、炊事場にでも戻って隠れとき!邪魔されるほうが迷惑やわ!」


紗月は反論することもできず、ただ頭を垂れたまま立ち尽くしていた。


(……ほんまに、うちには何もできひんのか……?)


自分の無力さを突きつけられたようで、胸が締め付けられる感覚が広がる。周囲で必死に戦う分家の跡取りたちの姿と比べ、自分はただそこにいるだけ。それが余計に惨めで、言い返す気力すら湧いてこなかった。


莉乃りのは冷たい目で紗月を一瞥し、そのまま踵を返して戦闘に戻っていった。


(……うちだって、ほんまは……みんなの役に立ちたい……。)


紗月は拳をぎゅっと握りしめた。だが、その思考すらも、さらに迫り続ける妖の気配によって途切れた。


「もっと急げ!全て払えなければ――屋敷が……!」


雅彦の怒号が庭全体に響く中、妖の群れはじりじりと屋敷へと迫り続けている。


霧を纏う妖たちは、まるで屋敷を飲み込むかのようにその輪郭を揺らめかせ、不気味な音を立てながら距離を詰めてきた。紗月の目の前にも、ひときわ大きな霧の塊が立ちはだかる。


(……逃げなあかん……ここにおっても、うちには何もできひん……。)


紗月はゆっくりと後ずさりし、足が震えながらもその場を離れる。背後に戦いの叫び声が広がる中、彼女は蔵へと向かって走り出した。


庭から屋敷の裏手へと続く細い通路を、紗月は走り抜けていた。背後には、あやかしたちのうめき声と戦闘の音が絶えず響いてくる。息が詰まるような瘴気が、まるで自分を追いかけてくるかのように背中に纏わりついていた。


(なんで……なんでこんなことに……!)


心臓が爆発しそうなほど鼓動を速める中、紗月は頭の中を真っ白にしながら走り続けた。足元は不安定で、時折石につまずきそうになるが、それでも何とか踏みとどまる。


暗い通路の先、蔵の影が見えた。


(あと少し……!早く、早く……!)


足を速めようとするが、恐怖で身体が思うように動かない。手足が震え、息が乱れる。背後からはじわじわと迫る霧の気配が感じられた。あの視線が、黒い目が、自分を追ってきている気がしてならない。


「いや……来ないで……!」


紗月は思わず口に出し、蔵の扉に向かって手を伸ばした。手先は冷え切っていて、自分でも力が入っているのかどうか分からない。


蔵の前にたどり着いた瞬間、足がもつれ、その場に倒れ込んだ。地面に手をつきながら、必死に蔵の扉を押し開ける。


(中に入らな……早く入らな……!)


扉の隙間から身体を滑り込ませると、力任せに扉を閉じ、鍵をかける。ようやく安全だと思った瞬間、全身の力が抜け、その場に座り込んでしまった。


外からは、まだ妖のうめき声がかすかに聞こえる。それが遠ざかる様子はなく、むしろ扉のすぐ向こうにまで近づいているような気がしてならなかった。


(やめて……うちは見つかりたくない……。)


肩で息をしながら、紗月は壁に背中を預ける。心臓の鼓動は止まりそうなほど速い。


「……誰か……助けて……。」


小さく呟いたその声は、自分でも驚くほど震えていた。


ふと、蔵の中の空気が微かに揺れた気がした。


(……え?)


外だけではなく、中からも何かが自分を見ている――そんな錯覚が頭をよぎる。紗月は恐る恐る顔を上げ、薄暗い蔵の奥に目を凝らした。


そこには――誰もいない。


(気のせいや……ただの暗闇や……。)


紗月は蔵の中の薄暗さに耐えながら、恐る恐る奥へと進んでいった。外の妖の気配が遠ざかることはなく、むしろ扉の向こう側に押し寄せているように感じられる。その音や気配を振り払うように、紗月は必死で自分の意識を前へと向けた。


(霊符……霊符を持たなあかん。何も持ってへんなんて怖すぎる……。)


霊符の正しい使い方も術も知らない。それでも、手元に何もないという事実が耐えがたいほどの不安を掻き立てた。


蔵の奥へ進むと、そこには橘家たちばなけの霊符が保管されている小さな棚があった。乱雑に積まれた巻物や箱が光を反射し、どこか頼りない雰囲気を醸し出している。紗月はその中からいくつかの霊符を取り出し、震える手で握りしめた。


(……これで……少しは……。)


胸の前に霊符を抱え込むと、ほんの少しだけ心が落ち着いた気がした。それでも、不安が完全に消えるわけではない。蔵の中は静まり返りすぎていて、時折外から聞こえる妖の気配がますます恐怖を煽る。


(もう少し……奥へ。)


目を凝らしながら進むと、奥の隅に見覚えのある大きな鏡が見えてきた。それは、紗月にとって幼い頃からの「友人」のような存在だった。


(なんでも言える相手……この鏡だけは、うちの味方や。)


幼い頃に、自分の不細工な泣き顔に吹き出してからは、鏡に向かって変顔をするのがルーティンになった。そして何か嫌なことがあれば、必ずこの鏡に向かって思いをぶつけてきた。


紗月はそっと鏡の前にしゃがみ込むと、上にかけられた布を指先で掴んだ。


(また……何か愚痴でも叫んだろか……。)


そう思いながら、布を静かに剥がした瞬間――。


「……い、いったい……なんやの、これ……。」


紗月は息を呑み、思わず後ずさった。夕方に見た時には、ただの普通の鏡だった。しかし今、その鏡面には見たこともない奇妙な文字が浮かび上がっていた。


文字はまるで生きているかのように揺らめき、薄く光を放ちながら次々と形を変えていく。紗月は霊符を抱えたまま、震える手を抑えることができなかった。


(なんやの……これ……うち、何もしてへんのに……。)


その時――鏡の中から、何かがこちらを覗き返しているような感覚に襲われた。


(誰か……おる……?)


恐る恐る鏡を覗き込もうとする紗月。しかし、鏡面に浮かぶ文字が一層輝きを増し、彼女の視界を遮るように散乱する。


「……いや……いやや……怖い!助けて!!」


思わず鏡から目を背けたその瞬間、鏡面から声がした。


「おー、やっと出られた!何百年ぶりか…?…えっ、カビ臭っ!!外の空気ってこんなカビの匂いだったっけ?」


あまりの呑気な調子に紗月は思わずつっこんだ。


「いやいや、あんた誰や!しかもここは外やない!!蔵ん中や!」

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