第2話 月影の集い
夜空には満月が輝き、庭を照らす淡い光が静けさを際立たせていた。橘家の広大な庭園の中央には円形の儀式場があり、その周囲には参加者たちが整然と並んでいた。
橘の本家を中心に、分家筋の者たちも儀式に参加している。彼らは儀式用の白い衣装を身にまとい、手にはそれぞれ精巧に作られた霊符を握りしめていた。
紗月もその列の一番端に立っていたが、その手には霊符ではなく、予備の霊符を納めた箱が握られていた。彼女は参加者ではなく、あくまで補佐としてこの場にいるだけだった。
（……やっぱり、うちには関係ないことやな。）
紗月は箱を抱えながら、ちらりと本家の方を見た。橘家当主である
「橘家の者たちよ。今宵の月影の集いは、我が家に伝わる重要な儀式だ。結界を調整し、先祖の遺志を守るのが我らの務め――忘れるな。」
宗近の声が静かな庭に響き渡る。周囲の参加者たちは一斉に頷き、儀式が始まる合図として静かに目を閉じた。
その瞬間、庭の中央に設置された石碑が、月光を受けて薄く輝き始めた。それは古くから橘家が守り続けてきた「封印の石碑」だった。
参加者たちは一斉に霊符を掲げ、低い声で術式を唱え始めた。
「天つ神、地つ霊、三界を貫く光よ、 我が声に応えよ。」
「五芒の星、五行の理、封じられし力よ、 今はまだ深き眠りの中にあれ。」
「輪を結びて道を調え、千代に続け、邪を退けよ――『月影結界の
五芒星の陣が徐々に庭の中央に浮かび上がり、柔らかな光を放つ。その光が石碑へと吸い込まれ、満月の光と共鳴するかのように石碑がさらに輝きを増した。
儀式に参加している術者たちが掲げた霊符もまた、揺れる炎のように淡い光を放ち始める。それぞれの符の光は術者の力を示すかのように強弱があり、橘家の者たちの符は特に明るく輝いている。
「……すごい……。」
紗月は思わずつぶやいた。分家筋の者たちの中にも、目を引くほど符の光が強い者が数人いたが、それでも長男の
（やっぱり……本家の人たちは違う。）
紗月は少し離れた位置からその光景を見つめていた。その眩い光が自分に届くことはないと知りながらも、目を奪われずにはいられなかった。
「……うちには無理やな。」
紗月は小さく自嘲気味に笑い、抱えた予備の霊符の箱を見下ろした。分家筋の若い者たちですら、それぞれの符を掲げ、儀式に加わっている。しかし、自分はその列に加わるどころか、霊符を渡すだけの役割だ。
「どうせ、うちはここにおるだけの世話役やし……。」
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥で広がる孤独感を消すことはできなかった。雅彦と彩花が放つ圧倒的な光の中で、自分がいかに小さな存在かを思い知らされる。
（でも……あの光、ほんまにすごいな……。）
紗月はもう一度、石碑を中心に広がる光の渦を見上げた。その目には、憧れと悔しさ、そしてほんの少しの諦めが混ざり合っていた。
（……うちなんかが、ここにいる意味あるんかな。）
そんな思いが胸をよぎった瞬間、石碑から突然「パキッ」という音が響いた。紗月は思わず顔上げ、目を凝らす。
「……な、何やの、今の音……？」
石碑の輝きが一瞬、揺らいだ。周囲の者たちは気づいていないようだったが、紗月の目には微かなひび割れのようなものが石碑に浮かび上がるのが見えた。
（まさか……石碑が……？）
胸の奥にざわめきが広がる。紗月は箱を抱えたまま、石碑をじっと見つめた。しかし、術式が終わると石碑の光は再び静かに収まり、いつもの静けさを取り戻した。
当主が参加者たちに一言声をかけ、儀式が終了を告げた。分家の者たちは安堵の表情で一礼し、それぞれ酒宴の準備が整った屋敷の中に入っていく。
紗月もまた、箱を抱えたままその場を離れようとしたが、胸の中に残った微かな不安が消えない。
（……あの音、何やったんやろ。）
振り返ると、月光に照らされた石碑が静かに立っている。その姿は何事もなかったかのように見えたが、紗月の胸に広がる不安はどこか違和感を含んでいた。
屋敷の中は儀式の厳かさとは対照的に、明るい雰囲気で満ちていた。広間に用意された長い宴席には、
上座に座る橘家当主、橘
「
「皆様の協力のおかげで、本年も無事に『月影の集い』を終えることができ、橘家の祖先との約束を守ることが叶いました。ささやかではありますが、どうぞこの席でゆっくりとお楽しみください。」
宗近が杯を掲げると、他の者たちもそれに倣い、一斉に声を上げた。
「乾杯！」
席が再び和やかな雰囲気に包まれる中、紗月は春江や他の世話役たちとともに、料理や酒を運ぶため忙しなく動いていた。
分家の当主たちは順番に宗近へ挨拶をし、儀式の無事を祝う言葉を交わしていた。それぞれに続く雑談や笑い声が、宴席に賑やかな色を添えている。
紗月は厨房と宴席を行き来しながら、その光景を横目に見ていた。褒められる息子や娘たちの姿がまぶしく、彼らとは違う自分に小さく肩を落とす。
（結局、うちはここで料理を運ぶだけや。それでも、これがうちの役目……頑張るしかない。）
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥にわずかな違和感が残る。石碑の音――あのひび割れが、頭を離れない。
（……月影の集いが終わっても、本当にこれでええんかな。）
その時、春江の指示で酒を運ぶよう声がかかる。
「紗月、
「は、はい！」
紗月は急いで酒瓶を持ち、橘南家の当主、
「おっ、紗月か。元気にしていたか？」
「は、はい……」
不慣れな敬語で答える紗月に、明良は柔らかい笑みを浮かべながら続けた。
「
紗月は一瞬驚いたが、すぐに答えた。
「はい、今は少し歩けるようになりました。」
「そうか……それはよかった。
「はい……ありがとうございます。母も喜びます。」
紗月は深く頭を下げた。その瞬間、隣にいた少女――橘南家の娘、
「父上、橘の血を引いていながら術も使えないような下人と話すのはおやめください。気分が悪うなります。」
その言葉に、紗月の手がわずかに震える。酒瓶を抱えたまま、顔を上げることができなかった。
「
明良がたしなめるも、
「事実を申し上げただけです。」
それだけ言い残し、
紗月は下を向いたまま、なんとか震える声で答えた。
「お気遣いありがとうございます……失礼します。」
そして足早に宴席を離れ、炊事場へ戻った。目頭が熱くなるのを感じながら、紗月は必死に深呼吸を繰り返した。
（……うち、やっぱり何をやってもあかんのやろか……。）
紗月が炊事場に戻った後も、酒宴は続いていた。広間に用意された長い宴席では、橘家の家族と分家筋の人々が和気藹々と杯を交わし、笑い声が絶えなかった。
「そういえば、本家の跡取りである、雅彦君の陰陽師協会入りが決まったらしいですな。」
「そうらしいですね。これで橘家も安泰です。宗近様もやっと肩の荷が降りたんではないですか。」
その時――庭から低い「ゴゴゴ……」という不気味な音が響いてきた。宴席の和やかな雰囲気が一瞬で凍りつく。
「……何だ、今の音は。」
宗近が杯を置き、険しい表情で立ち上がった。宴席の人々もざわめき始め、誰もが庭に目を向けた。
紗月も慌てて炊事場から顔を出し、その音の正体を探ろうとした。
音は徐々に大きくなり、光が窓の外から差し込んできた。その光は柔らかいものではなく、何か異質な、禍々しい気配を帯びている。
「まさか……封印の石碑が……？」
宗近が呟き、すぐさま広間を飛び出した。
「庭に出るぞ！」
分家の当主たちも立ち上がり、宗近の後を追って廊下を駆け抜けていく。彩花も焦った表情を浮かべながら、父の背中を追って庭に向かった。
紗月はその場に立ち尽くし、震える手で自分の胸を押さえていた。
（なんや……何が起きてるん……？）
しかし、紗月もそのままではいられなかった。下人たちの「紗月、見に行くな！」という声を無視し、足が勝手に庭へと向かっていた。
（見に行くなと言われても、あの音……うちが聞いたあの音と同じやった。）
屋敷を出た瞬間、肌にまとわりつくような不気味な気配が広がっているのを感じた。
庭の中央、石碑のひび割れから、黒い霧のようなものが細く立ち上り、その霧は、まるで生きているかのように渦を巻き、庭の周囲をじわじわと包み込む。どこか遠くから、耳鳴りのような低い音が響き、紗月の足元に伝わってきた。
「な、何これ……。」
その場に駆けつけた橘家の人々は、ひび割れた石碑を見つめて言葉を失っていた。石碑の表面が、さらに砕けるように音を立て続けていた。
「……封印が、解けつつある……。」
宗近の顔が険しさを増す。分家の当主たちもそれぞれ霊符を手に構え、緊張感が張り詰める。
「ゴッ……パキッ……！」
石碑全体がひび割れ、周囲に渦巻く黒い霧が空へと舞い上がっていく。
紗月は思わず後ずさり、胸の奥がざわめきで満たされた。
（やっぱり……儀式の時の音……これやったんや……。）
庭に集まった全員が次に起こる事態を予想しながら、息を呑むように石碑を見つめていた。
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