平安時代の陰陽師に取り憑れた少女、落ちこぼれから最強になる?!

南極コアラ

第一章 プロローグ

第1話 紗月と鏡

教師が黒板に「平安時代の陰陽師」と大きく書き、静かな教室に向かって口を開いた。


「平安時代、陰陽道は最盛期を迎えました。有名な陰陽師と言えば、まず安倍晴明の名前が挙がりますね。しかし今日は、その後、平安時代後期に活躍した陰陽師――『白鴉しらがらす』について学びます。」


ここは現代の陰陽師を育成する京都帝陰学院、2年C組の教室。歴史学の授業が進む中、教師の話に耳を傾け、真剣にノートを取る生徒たち。ただし、1人だけ、机に突っ伏したまま不機嫌そうな顔で窓の外を眺めている生徒がいた。


(平安時代の陰陽師なんて何やの。ただの古臭い儀式とか、お祓いする人らと違うん?)


その生徒、橘紗月たちばなさつきは心の中でため息をつきながら、教師の声を右から左へと流していた。


白鴉しらがらす――彼は平安時代後期の陰陽師で、陰陽寮の実務部隊を率いて妖異退治や呪詛解除を専門としていました。その術は大胆かつ奇抜であり、その名は数々の伝説とともに語り継がれています。当時の陰陽道の枠に収まらない発想力と技術で、数多の危機を救ったと言われています。」


教師の言葉に生徒たちが興味津々の表情を浮かべ、熱心にノートを取っている。それでも紗月だけは、どこか興味なさそうに机に突っ伏したままだった。


白鴉しらがらすはその卓越した実力を示す場面が多々ありましたが、特に有名なのが『千年京の術戦』です。この術戦は陰陽師同士が自らの力を試し、競い合った伝説的な記録の一つです。」


(そんなん、どうせうちには縁のないことやし……聞いたかて意味あらへん。)


教師が黒板に「千年京の術戦」の流れを簡単に図示する。


「まず、一方の陰陽師が『鬼霧結界きむけっかい』を発動しました。空間そのものを霧で閉じ込め、相手の動きを封じるための高度な結界術です。」


(……つまらん……)


「しかし、白鴉はそれを破るため『五芒星の転写』という独自の術を使いました。この術は相手の結界を逆転させ、その力を返すというものです。」


生徒たちはざわめきながら、教師の言葉に引き込まれていく。その中で、紗月だけが依然として興味を示さない。


「その後、対抗する術として『九字護身』が使われましたが、白鴉はさらに『式神封じ』を発動し、相手の動きを封じ込めました。」


生徒たちは目を輝かせて聞き入るが、紗月は机に突っ伏したまま心の中でぼやく。


(……結局、すごい人の話やってことやろ?そんなもん、聞いたかてうちには関係あらへん。)


突然、教師の視線が窓の外をぼんやり眺めていた紗月に突き刺さる。


「橘、聞いているのか? じゃあ質問だ。ここで白鴉しらがらすが最後に陰陽師を圧倒した術は何だと思う?」


静まり返る教室の中、紗月はハッとして姿勢を正すが、頭の中は真っ白だ。


「えっと……その……た、多分、五行……何とか……?」


教師は肩をすくめ、小さくため息をついた。その音が静かな教室に響く。


「違うな。もう少し授業に集中するんだな。」


その瞬間、教室のあちこちから小さな笑い声が漏れる。


「下人の子にわかるわけないって。」


「そもそも雑用係が陰陽師なんて無理に決まってんじゃん。」


「ほんとだよ。なんでこんな奴がこの学院にいるんだ?」


囁き声がじわじわと広がり、紗月の耳に突き刺さる。机の上に拳を握り締めながら、必死に笑い声を聞き流そうとするが、頬が熱くなっていくのを止められない。


(……どうせ、うちなんかが何をやったってダメなんや……。)


終業のチャイムが響き、教室がざわめき始める。生徒たちはカバンを手に次々と教室を出ていく中、紗月は急いで席を立ち、教室の中央にいた彩花あやかのもとへ駆け寄った。


「彩花様、お疲れ様です。帰りましょう。」


丁寧に言葉をかけながら、紗月は彩花のカバンをさっと手に取る。彩花は面倒くさそうな顔で一瞥すると、小さくため息をついた。


「……紗月、放課後の予定は?」


「あ、はい!」紗月は慌てて胸元のメモ帳を取り出し、手書きでぎっしりと書かれたスケジュールを確認する。「まずはお屋敷に戻られて、夕餉の準備が整うまで休憩。そして今夜は『月影の集い』がございます。」


「……月影の集い?」彩花は眉をひそめる。「また、あの退屈な行事ね。」


「はい、橘家たちばなけの皆様が一堂に会して結界の調整を行う日です。年に一度の重要な行事ですので、当主様も楽しみにされているとか……。」


「楽しみにしているのは父だけでしょう。」


彩花はうんざりとした口調で椅子に座り直し、窓の外を見つめる。


「あんな古臭い儀式、私がやったところで何の意味があるのかしら。」


「でも、橘家の伝統ですし……皆様が揃われる貴重な機会ですから。」


彩花は何も答えず、ふいっと立ち上がった。そして淡々とした口調で言い放つ。


「どうせ私は形だけでいいのよ。父と兄が満足するなら、それで十分なんだから。」


紗月はその言葉に答えられず、少し俯きながら彩花の後を追った。手にしたカバンが妙に重く感じられる。


(彩花様にとっても、やっぱりあの家の重荷は大きいんやろな……。)


玄関へ向かう廊下を歩きながら、紗月はふと立ち止まった。


(今夜の儀式……また私だけがいない者として扱われるんやろな……。)


無意識に小さなため息をついた瞬間、前から鋭い声が飛んできた。


「紗月、何してるの? 早く来なさい。」


振り返った彩花が、少し苛立った顔でこちらを睨んでいる。


「す、すみません!」


紗月は急いで歩みを速め、彩花の背中を追った。


外に出ると、真夏の暑さが容赦なく襲いかかる。


「ジリジリ……」


蝉の鳴き声が辺り一帯を埋め尽くす中、鴨川沿いの小道を二人は歩いていた。


「暑いわね……こんな日は早く家に帰りたいものだわ。」


彩花がぽつりとつぶやく。うっすらとした汗が額に浮かび、扇子で軽く仰いでいる。


橘家の屋敷は南禅寺の奥、鬱蒼とした木々の中に隠れるように広がっている。その静かな佇まいは、まるで外界と隔絶された別世界のようだった。


(はぁぁ……私の一日は、これからが本番なんや。)


日が沈む頃には、橘家の儀式や雑務が待ち構えている。休む暇もないことを考えると、鴨川の涼しい風さえ、どこか遠いものに感じられた。



「紗月!何してるの、このお膳、早く持っていきなさい!」


紗月にとっては「怖いおばさん」的な存在である、水尾春江みずおはるえの声が炊事場に響き渡る。蒸し暑い空気の中、湯気と忙しない足音が混ざり合う音がする。


「は、はいっ!」


慌ててお膳を持ち上げた紗月は、よろめきながら廊下へと急ぐ。炊事場の出入り口で柱にぶつかりそうになりながらも、なんとか持ち直した姿に、周囲の世話役たちはちらりと苦笑を浮かべる。


春江は手際よく台所を仕切りながら、その背中をじっと見つめた。紗月が廊下に消えた瞬間、小さくため息をつく。


(同じ橘の血筋なのに……。)


指先で布巾を握りしめ、炊事場の奥に置かれた古びた神棚に目を向ける。そこには橘家の家紋が刻まれた小さな祠が置かれていた。


(分家が主家を裏切って没落したことが、どうして今のあの子にまで影を落としてるのかしら。いないものとして扱われるなんて、あの子に何の罪もないのに……。)


「春江さん、次は何を運びますか?」


若い世話役の声に、春江はハッと顔を上げた。


「あぁ、そこの大皿を食堂に運んで。紗月が戻ったら、次の膳を準備するように言っといて。」


(あの子は、橘家にいる限り、ずっと報われないままかもしれない。それでも……。)


再びため息をつき、湯気の立つ鍋をかき回しながら、春江は忙しなく動き続ける。それが、橘家の世話役としての役割だと、自分に言い聞かせるように。



夕飯の配膳が終わると、紗月は炊事場の隅で急いで夕飯を済ませた。冷めかけたおかずを口に運びながら、ふと壁に掛けられた時計を見る。


(もうすぐ月影の集いや……。)


食器をさっと片付け、紗月は「蔵」へと足を向ける。夜の儀式で使う符を取りに行くのが、彼女の役目だった。符を作るのも世話役の仕事で、紗月は幼い頃からその作業を続けていた。


(式の意味もわからんし、陰陽術もまともに使えへんけど……これだけは、うちの得意な仕事や。)


誰よりも早く、誰よりも正確に符を作れる。それだけが、紗月が自分を誇れる唯一の技だった。


蔵の扉を開けると、ひんやりとした空気が迎えてくれる。木材の香りが漂う薄暗い空間には、橘家の歴史を物語る古い品々が無造作に積まれていた。紗月は慣れた足取りで奥に進む。


そして――必ず、やることがあった。


蔵の奥に置かれた古い鏡台の前に立つと、紗月は真剣な顔で鏡を見つめる。そして、いきなり顔を歪ませた。


「イーッ! アーッ! ウーッ!」


口を大きく開けたり、頬を膨らませたり、普段の彼女からは想像もつかないような奇妙な顔を次々と繰り出す。最後に両手で顔を引っ張り、眉毛を吊り上げたまま「ムンッ」と決めポーズを取ると、思わずクスッと笑った。


(ふぅ……やっぱり、これをやるとちょっと楽になるなぁ。)


この習慣は、幼い頃に始まったものだ。小さな紗月が、誰にも言えない辛さを抱え、泣きながら蔵に逃げ込んだことがあった。その時、偶然目にした鏡に映る自分の泣き顔――あまりの不細工さに、涙をこぼすのも忘れて吹き出してしまったのだ。それ以来、蔵に来るたびに鏡の前で変顔をして、自分を笑わせるのが習慣になった。


そして、いつものように鏡に向かって、今日一日の鬱憤をぶちまけ始める。


白鴉しらがらすって何なん?術も知らんし!空でも飛ぶんか、その人?羽でも生えてるんか?」


鏡の中の自分に向かって眉をひそめ、手を大きく広げてみせる。


「それに名前が『白いカラス』って……なんやそれ!カラスやったら黒いほうが普通やろ?ちょっと洒落てるからって名前にせんでええわ!」


鏡の中の自分が大袈裟にうなずいてくれるような気がして、さらに勢いが増す。


「おかげでみんなから馬鹿にされたわ!みんなが全員、術を知ってるわけちゃうやん。何でうちばっかり責められなあかんの?まぁ、ボケっとしてた私が悪いんやけど。」


鏡に向かってしっかりと言い切ると、紗月は一息つき、肩を落とした。


「ふぅ……。」


小さくため息をついてから、ふっと笑う


「よし、これで元気出た。」


紗月はそう呟いて、棚の上に置かれた符の束に手を伸ばした。その指先は慣れた手つきで一枚一枚の状態を確かめる。


「……ん? 何か今日は空気が重い気がする。」


蔵の中の静けさが、いつもより少しだけ不気味に感じられる。それでも紗月は気にしないふりをして、符を抱えて蔵を出たのだった。

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