第2話 未知への航海

探査艇はゆっくりと海に沈み込んでいった。窓の外には水面が揺らぎ、薄暗い青の世界が広がり始める。音も光も次第に失われ、代わりに無限の闇が探査艇を包み込んでいく。


「水深500メートル到達。潜行速度、安定しています。」


通信機から流れるオペレーターの冷静な声が、船内の緊張感をわずかに和らげた。アヤはモニターの数値を凝視しながら、何度も深呼吸を繰り返している。水温、塩分濃度、そして深海の静寂そのものが数値として現れ、どこか神秘的ですらあった。


「初めてだろ、こんな深いとこ来るの?」


隣に座る村上が小声で話しかけてきた。彼は音響装置のエンジニアとしてこの探査に参加しており、柔らかな表情と軽快な口調で、緊張した空気を和らげることに長けていた。


「ええ、正直、少し怖いです。でも……それ以上に楽しみです。」


アヤが答えると、村上は笑みを浮かべる。


「だろうな。怖くて当然だ。でも、深海は静かで美しい場所だ。音が支配するこの空間を一度体験すれば、きっとやみつきになるぞ。」


その言葉にアヤは思わず笑みを返した。窓の外には無数の光を放つ小さな生物たちが漂い、それはまるで夜空に瞬く星々のようだった。


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「水深800メートル到達。」


オペレーターの声と共に、モニターに新たな波形が映し出された。規則的で、どこか人工的なパターンを持つ音波のようだった。アヤはそれを見て思わず息を呑む。


「高橋さん、音が……。」


彼女の言葉に、高橋がすぐさま反応する。


「確認しろ。音響装置を最大感度にセットだ。」


村上が手際よく装置を操作し、ヘッドホンをアヤに渡す。アヤがそれを装着すると、微かな音が耳に飛び込んできた。規則的に繰り返されるリズム。しかし、それは単なる自然音ではなかった。不規則ながら、どこか意図的な動きを感じさせる。


「これが……?」


アヤの呟きが船内に静かな緊張を広げた。


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「聞いているよ、アヤ。」


通信機越しに篠原教授の声が響く。地上の制御室からリアルタイムで探査を見守る彼の声には、冷静さの中に興奮が混じっていた。


「これを記録し続けてくれ。どうやら、ただの自然現象ではないようだな。」


教授の言葉が確信に満ちていた。アヤは頷きながら、慎重に装置を操作して音の詳細を記録していく。


「これは……何かが送ってきてるんですか?」


村上が静かに呟いた。


その瞬間、探査艇が小さく揺れた。


「何だ?」


高橋が厳しい声で確認を促す。揺れはわずかだったが、何かが探査艇の外部に接触したのは明らかだった。


アヤは窓の外を見つめた。何も見えない。深海の闇は厚く、それ自体が壁のように感じられる。


「外部カメラをズームしろ。」


高橋の指示で村上が素早く操作を始める。モニターに映し出された闇の中で、微かな光が漂っていた。それは動いている。生物だ——だが魚とは違う。


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「何だ、あれは……。」


アヤは窓の外に目を凝らす。その光は青緑色に輝き、探査艇の周囲を漂っていた。まるで意図を持つかのようにゆっくりと近づいてくる。


「発光生物にしては……異常だ。」


村上が驚きの声を漏らす。光は次第に形を持ち始め、輪郭が浮かび上がる。それは小さな人影のように見えた。人間ではない。だが、何か意思を持った存在——それが視覚的に確信できる形になりつつあった。


「どうする……?」


アヤが窓越しに見つめながら呟く。高橋はしばらくその光の動きを観察した後、短く言った。


「今はその場を維持しろ。様子を見る。」


探査艇はその場で静かに漂い、青緑色の光の影を注視した。


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音がさらに変化を見せた。リズムが整い、まるで「語りかける」ようなパターンを形成していた。それは生物的な意思を感じさせるものだった。


「記録を続けろ。」


篠原教授の声が通信機から響く。アヤは震える手で操作を続けながら、光の中心を見つめた。その動きは、何かを伝えようとしているかのようだった。


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「消えた……?」


光が一瞬にして闇の中へと溶け込む。船内は一気に静寂に包まれた。全員が息を呑み、モニターを見つめる。


その時、探査艇の外壁にコンコンと小さな音が響いた。


「叩いている……?」


村上が呟く。音は規則的で、まるで「ノック」のように感じられる。


アヤは窓に顔を近づけた。何も見えない。ただ闇が広がるだけだ。だが、その闇の中で「何か」が確かに存在している。そう信じざるを得なかった。


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探査艇が静かに浮上を始める中、アヤは心の中で問いかけていた。


「これは……何を伝えようとしているの?」


その答えを知るための道のりが、今始まったばかりだった。

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