逆行する4月28日――①

 ――一体、どうなっているんだ? メリアの手を握った瞬間、あたりがモノクロ写真で撮ったかのような白と黒だけのコントラストな景色へと様変わりした。


 それだけじゃない。ミーシャや白石に柚葉、他の人たちがまるでギリシャ神話に出てくる怪物――メデューサに見つめられて、石像になったみたいにピクリとも動かなくなってしまったのだ。


 時が止まった。目の前の光景を表すにはそんな言葉がぴったりだった。

 ふと僕は、壁にかかるアナログ式の壁時計に目を向ける。

 いや、どうやら止まっているわけじゃないようだ。カチカチと小さな音を立て時計の針が左から右へと進み、時を刻んでいた。


 あれ……? 僕は心の中に違和感を覚える。

 そうだ! 確か秒針って右から左の、右回りに動くはずだよな?


「いけとのこ、いなくしかおかんな」


 !? 今、僕は何て言ったんだ?

 ――何かおかしくない、この時計――って独り言をぼやいたはずだぞ!


 反対になっている、時間も言葉も……。

 全ての事象が巡行から逆行へと変わっていた。

 これがメリアたちが言っていた、過去に戻る――タイムレネゲートの力なのか……!?


「どう? そろそろ、この世界に慣れてきた?」


 キョロキョロと辺りを見渡していたその時、僕へと呼びかける声が聞こえてきた。

 音の方向である正面に目を向けると、声の主は今、僕が手を握っている赤髪の少女メリアだったのだ。


「ありめ、のるけごう」


 驚きのあまり僕は、――動けるの、メリア――と言った……、はずだ。


「ええ、わたしはね」


 僕以外の人物の動きが止まり、僕だけしか認識のできない世界だと思っていたが、どうやらそれは違っていたようだ。

 メリアの口はちゃんと動いていて、しっかりと聞き取れた。


 ん? そういえば、何で……、


「のいなゃじさかさ、ばとこのありめ」


 うおっ! まただ。


 ――メリアの言葉、逆さじゃないの――と言ったのに、まるで勝手に自動変換されたかのように、僕の口から出る言葉が逆さ文章になってしまう。


「天使はタイムレネゲート下でも会話ができるよう、訓練してるから平気よ」

「ねいごす、えへ」


 クッソ……! さっきから全然言いたいことと違う言葉が出てくる。


 待てよ? 言葉が逆さになっちゃうのなら、逆に最初から反対に言おうとすればいいんじゃないのか!?


「へえ、ごいすね」


 あぁ、もうダメだ! 頭がちんぷんかんぷんになってわけわかんねえ。


「別に言い直そうとしなくても大丈夫よ。ちゃんと意味は伝わるから。むしろ、変に逆さにして言い間違いされる方がわかりづらいわ」

「てえまあにばとこおあやじ、のなうそ(そうなの? じゃあお言葉に甘えて)」


 だったら、わざわざ言い換える必要はないな。

 僕の鳥頭じゃ、完璧に翻訳するのは難しそうだし……。


 そう考えると、メリアはすげえな。

 僕の逆さ言葉を完璧に理解して、しかも自身が話す言葉は巡行になるようこっちに気遣って話をしてくれる。改めて僕は、彼女に対し尊敬の念を抱いた。


 するとその時、メリアが握っている僕の手を突然離しだした。

 そのまま僕の後ろへと回りおもむろに立ち上がった。そんな彼女に続いて、僕も起き上がろうとする。


 ――あれ、おかしいぞ……。体が何故か僕の思いに反してまったく動かない。

 辛うじて動くのは首から上と手足の先の指くらいだった。

 立ち上がるどころかむしろ、頭の上に何かなまりを乗せられたかのような重さを感じる。

 気づけば僕は、腕をくの字に曲げ、額を地面にこすりつけた態勢になっていたのだ。


「えでんな、おおう(うおぉ、なんでぇ)」


 何も悪いことしてないのに一体僕は何故、土下座しているんだ!?

 敬意を持ったからか? 下々の民が神の威光に平伏するみたいに、僕が心の中でメリアのことをすごくリスペクトしたからなのか!?


「い~ざんば、まさありめ(メリア様、万ざ~い)」

「何、バカなこと言ってんのよ」


 メリアは、呆れたと言わんばかりの顔を浮かべていた。


「タイムレネゲートは目的の時間まで、これまで過ごしてきた時を順序通りに逆行する能力。直也、あなたはさっき、わたしたちに力を使ってほしいと頼むために頭を下げたでしょ? 今はちょうどその時まで逆らってる状態なのよ」

「のなうそ、へ(へ、そうなの?)」


 何だ、そういうことだったのか。


「おっう(うおっ!?)」


 突如体がまるで、操り人形の糸に引っ張られたかのように後ろから強い力で引き付けられると、僕はいきなり二足で立ち上がったのだ。


「立った」


 立ったぞ、僕……! 土下座する前の時まで戻ったんだ。ついでに何か知らんが、言葉も反転してねえ!


「ちょっと、直也。クラ〇じゃないんだから、立っただけで興奮しないで」


 メリアが僕をたしなめた直後、僕は突然後ろ歩きを始めた。


 そっか。逆行してるってことは歩くのも後ろから前じゃなく、前から後ろなのか。

 多分、今の僕の状態は、柚葉の眠る居間のふすまを開ける前の時まで戻ろうとしているのだろう。

 うん、やっぱりそうだ。だんだんと僕は後ろ歩きでふすまの方へと近づいていた。


 あれ……? その時、僕の足が何故かぴたっと止まる。

 不思議に思い、僕はあたりをキョロキョロと見渡した。


 コポコポ


 ん? 何だ、まるで水分が泡立ったような音。音の方は、僕の足元……?

 足元に僕は視線を落とした。


「ああぇげう(ウゲェ、アァ!)」


 吐瀉物だ。眼前にあったのは、柚葉の姿に狼狽えたあまりに吐いてしまった僕自身のゲボだった。


 やばい、やばいやばいやばいやばいやばい!


 今、僕の脳内では最悪のシチュエーションを思い描いていた。

 そう考えているそばから、大小さまざまな形をしたふやけた固形物が白い液体と一緒に宙へと浮かび上がる。


「るでんかうがんぱのょちぐょちぐがんぱ、れくてけすたありめ(メリア助けてくれ、パンがぐちょぐちょのパンが浮かんでる)」

「汚い食レポ」

「あぁわう(うわぁあ)」


 メリアがぼそりとつぶやくと、宙に浮く吐瀉物たちが一斉に僕の口目掛けて飛んできた。


 為す術がなかった。体が動かないんじゃしょうがなかった。

 ゲボはまるで掃除機に吸い込まれるかのように口の中へと入っていったのだ。


「ぷっう(ウップ)」


 条件反射のせいなのか、僕は思わずえづいた。


「ちょっと、無限ループやめてよね」


 そんな僕に、メリアは険しい顔をして注意する。


「まあでも、吐きたくても吐けないんでしょうけど……。直也、落ち着いて。もし本当に吐瀉物が口に入ったら、もの凄い味がするものじゃない?」


 うっ……! 確かに、言われてみれば味の類は一切感じなかった。

 

 あれ? それどころか口の中に感触も感じない。

 飲み込んだ記憶もないのに僕の口内はきれいさっぱり空っぽだった。


「タイムレネゲートはそうね。人間の感覚で一番近しいものだと、夢の中で起きる出来事のようなもの。腹いっぱいのステーキを食べる夢を見たとしても、実際に腹が膨れるわけじゃないでしょ? タイムレネゲート中は直也、あなたの身に何も変化は起きない。尿意や睡魔諸々も感じないと思ってくれてかまわないわ。何故なら、時を逆らっているだけだから。ただ、もし何か変わることがあるのだととすれば……」


 メリアはそう言うと彼女の視線が、僕の手の指先へと向けられた。


「直也のその手の怪我、城ケ崎に職員室に傷つけられるより前の時まで戻れば、おのずと怪我は治るわ。まあ正しく言うなら、治るんじゃなくて戻る――なんだけど……」


 メリアが話す最中、彼女は後ろ歩きで部屋から出た。

 その直後、僕もメリアと同じように後ろ歩きで体が勝手に歩き出す。


「流れに身を任せて。時が一秒、二秒と順序通りに進むように、タイムレネゲートもまた同じように時が逆らう」


 僕は和室を出ると、ふすまの引き手に手をかけた。閉じながらも僕は最後、柚葉の姿を目に焼き付ける。


 必ずだ……。必ず、お互い無事な姿で再会しよう……!

 決意を胸に誓い、僕は流れるがままふすまの戸を閉めた。


「るけすたをはずゆずらなかはくぼ、ありめ(メリア、僕は必ず柚葉を助ける)」


 僕は隣に立つメリアをまじまじと見る。


「いしほてしくょりうょきにょしっい、らか……(だから、一緒に協力してほしい)」


 と言いかけた時だった。


 突然、もの凄い力に押されたかのように勢いよく、うつ伏せに倒れこんだのだ。


「ずいぶん、豪快な頼み方ね」


 尻を彼女に向け情けない姿になっている僕を見て、メリアがぼそりとつぶやいた。


「うがち、やい(いや、違う!)」


 ああもう、クッソ……! これじゃ、さっきと同じじゃねえか。

 城ケ崎に腹パンを食らい頭を踏みつけられた時へと、恐らく今の僕はその時間を逆行している最中なのだろう。


 メリアが後ろ歩きでリビングから出て行く。その後すぐに、まるでワイヤーに引き上げられたかのように起き上がる僕の体。

 メリアの後を追うようにまた僕は、後ろ歩きで廊下へと進みだした。


 平穏無事な姿の柚葉に会うべく発動した、時戻りの力――タイムレネゲート。

 僕の時間逆行の旅が今、始まった……!

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