第6話 令嬢は母の日記を読む③
婚約者のジュリアン様はハイデルベルク侯爵家の長男で、侯爵様とお父様は親友のため、両家間で婚約を締結したらしい。
彼は悪い人ではないわ。ハイデルベルク侯爵様に無理矢理に私との婚約を強いられたため、愛する幼馴染の位置を奪った私を嫌うのは当たり前のことだと思っていた。
彼の幼馴染のセラフィーナ・モンフォール侯爵令嬢は、長い金髪に明るい青色の瞳を持ち、華奢な体型と繊細な容貌を持っている人形みたいに可愛らしい人だ。
男性なら私より、彼女を選ぶのは当然でしょうね。
しかし、貴族の婚約とは、個人の感情を度外視し、家同士の利益を最優先にするもの。愛情よりも義務、想いよりも計算が重視されるのが常だった。
だからこそ、正式な場ではセラフィーナ様と適切な距離を保ちながら、婚約者としての私を立ててくれるジュリアン様の態度に、私は信頼と安堵を抱いていた。
彼は貴族としての責務を理解し、私を尊重してくれているのだと、そう信じて疑わなかった。
だが、その信頼は卒業式の日に打ち砕かれることになった。
式典の華やかな祝賀ムードに包まれる中、私はジュリアン様に人の少ない庭園へと呼び出された。
卒業後の未来について前向きな話ではないかと期待しながら足を運んだ私の目に映ったのは、セラフィーナ様を優雅にエスコートするジュリアン様の姿だった。
胸が高鳴る一方で、奥底に嫌な予感がじわじわと広がっていくのを感じた。
「フリージア、すまないが、君との婚約を破棄したい。僕には真実な愛を見つけたんだ!」
ジュリアン様の口から告げられた言葉が耳に届いた瞬間、私の胸に重たい石が落ちるような感覚が襲った。
さらに追い打ちをかけるように、セラフィーナ様の鈴を転がすような声が響いた。
「フリージア様、私たちは心から愛し合っています!どうかジュリアン様を解放してください」
その言葉に、ジュリアン様が彼女を庇う姿は、まるで私が二人の邪魔者であるかのように見えた。
周囲の祝賀ムードは一瞬で消え去り、いつの間に周囲の視線か注がれた。冷たい視線の中、胸の中に広がる孤独感を一層強めた。
「フリージア、君には申し訳ないが、僕たちの愛を妨げることはできないんだ。どうか理解してほしい」
ジュリアン様のその言葉は、もはや言い訳にも聞こえないほど冷たさを帯びていた。
やがて、この事態を聞きつけた国王陛下が式典に姿を現し、彼に罰を与えることとなりました。
しかし、その罰は彼の地位を揺るがすほどではなく、ハイデルベルク侯爵家の長男としての
それだけで済んだ彼は、予定通り第一騎士団に入り、その後の道は順調そのものであった。邪魔者がいなくなった彼は、ほどなくしてセラフィーナ様との婚約が発表され、モンフォール侯爵家に婿入りすることが決定した。いずれ彼がモンフォール侯爵となるのも、時間の問題に過ぎなかった。
百年前と三十年前、二度にわたる大規模な戦乱が、人と魔物、そして国々の間で繰り広げられた。その長き戦いにより、貴族階級は甚大な被害を受け、数を大きく減らした。
この深刻な状況を打開するため、貴族たちは家門の存続と勢力維持を最優先課題と位置づけ、健康で豊かな魔力を持つ子孫を多く残すことを義務化した。
国王陛下にとって、子供が多く産まれることさえ確保できれば、どの令嬢がどの令息と結ばれるのかは些細な問題に過ぎないのだろう。
アストラル王国の貴族令嬢は華やかに見えるが、その実態は、子供を産む道具として扱われる運命に他ならなかった。
愛のある婚約は幸せに導かれるかもしれない。しかし、たとえ愛のない婚約であっても、白い婚約(形だけの婚約)がすでに禁止された現在、貴族たちは覚悟を決め、義務として子供を産む必要があった。
ジュリアン様へ対する『軽い処置』もこれに関連するかもしれねい。
なにしろジュリアン様魔力量はレベル6、セラフィーナ様も同じくレベル6、お似合いではないか、きっと魔力の高い子供が産まれるだろうな……両親の愛のもとに……
捨てられた私の運命を考えれば、もし貴族籍のままでいたら、いずれ誰かの
それでも、私がこれまで受けてきた教育の影響で、そのような話を受け入れる覚悟はしていた。それが貴族令嬢としての義務であり、最後の
『愛』などという儚いものは、私のような者が期待してよいものではない。
そう考えると、家を追い出され、平民になったことは、悪いことばかりではなかったのかもしれない。
もちろん、あの殺し屋がいなければ、の話だけれど……
当時、婚約を破棄され、家族と絶縁され、体は海の底に沈む寸前まで追い詰められ、世界が色を失ったように感じた。
でも、エマさんの助けがあって、私はだんだん平民の生活にも馴染むことができた。
そして、あの穏やかな日々の中で、ふと気づくことがあった。貴族時代に培った能力が、知らず知らずのうちに、私を一人でも生活できるように支えてくれているのだと。
識字率の低い平民の中で、完全に読み書きができることは大きな強みだった。また、貴族社会では『婚姻の場への入場券』に過ぎなかったレベル4の魔力量も、平民社会では非常に高い能力として評価された。
さらに、家庭教師と学園の先生方から学んだ学習方法のおかげで、私に書物を通じて自力で勉強する力を持っていた。
こうして、私はただの平民にしては恵まれた環境で、新しい生活を始めることができたのだ。
私は再びお母さんの質問に目を落とす。
『フリージア、あなたはいま幸せですか?あなたはどうなりたい?
生まれながらにして貴族令嬢の貴女はどうなりたい?貴族令嬢としての役割に忠実でいたいのですか?それとも、変化を求めていますか?』
――夢の彼女、いいえ、あの人は過去の私だ。
過去の私は、選択肢など与えられていなかった。ただ貴族の道を選ぶしかなかったのだ。
『真実の愛』が流行っている貴族社会の中で、結婚に夢を抱く貴族令嬢たちとは違い、勉学も魔力も平凡以下だった私は、公爵家の七光りに甘んじて、愛のない婚約でも喜んで受け入れていた。
それで最低限の貴族令嬢として役目が果たせれば、家族に認めてもらえるのではないかと、わずかに期待していた。
しかし、私は捨てられた。婚約者に、家族に、そして貴族社会に……
失うことばかりだった私は、たぶん薄々その予兆に気づいていたのかもしれない。それでも、目を瞑り、捨てられる運命を、ただ待ち続けているだけだった。
その証拠に、婚約破棄された時、最初に浮かんだ感情は「やはり」だった。
過去の私が歩んだ貴族の道は、もう塞がれている。たとえ未来の一部を知っているとしても、過去よりも良い結末を迎えられる自信はない。
私は、変わりたい。待つだけの自分を、変えたいのだ。
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