やり直し令嬢は箱の外へ~気弱な一歩が織りなす無限の可能性~

悠月

第1話 令嬢は悪夢を見た

 全て真っ黒な空間で、一人の女性が歩いている。


 ゆっくりとした足取りで、まるで全てを諦めたかのように、気力を失った体を無理に引きずるように……

 彼女はまるで幽霊のように、何の目的もなく、ただ呆然と前に向かって歩みを続けていた。


 突然、不意に、どこからともなく枯れた花びらがひらりと落ちてきた。

 それはまるで彼女の歩む道を阻むかのように、一枚、また一枚と無数に床に散らばっていた。


 だが、彼女は無表情のまま、迷いもせず、それらを踏みつけて、進み続けた。


 一体、何処へ向かうのか、彼女自身にも分からない、ただ、本能に任せて歩いているだけだった。


「デン」と足元から鈴の音が響き、潰された花から光が放たれ、目の前に過去の記憶の映像が浮かび上がた。


「あぁ、可哀想なフリージアお嬢様、奥様が生きていれば……」


 花壇の隅に身を隠し、外で会話をするメイドたちの言葉に耳を傾けながら、幼い彼女は、亡き母が残した銀制の指輪を両手で強く握りしめていた。


「なんでお前がここにいるんだよ!さっさとどっか行け!僕にはお前みたいな妹、いねぇからな!」


 兄の誕生日に、彼女は初めて自分の手で縫ったハンカチを兄に贈ろうとした。だが、宴の扉の前で兄は彼女を押しのけ、冷たく言い放った。


「あの子さえ生まれてこなければ……エリナ、私を一人にしないでくれ……?!、誰があの子をここに入れた!部屋に閉じ込めろ!」


 母の形見の指輪をなくし、探し回る彼女の姿を見た父は、酔った勢いで怒鳴りつけ、彼女を庭から追い返されてしまった。

 彼女は望まずに生まれた子なのだと、その声が未だに彼女の胸に深く突き刺さっている。


「お嬢様、大丈夫です、旦那様は酔っておられただけです。だから心にも無いことを話したのだ、明日になればきっと…」


 乳母はそうやって彼女を慰めていたが、酒を飲んだ後に発せられた言葉が真実であることを彼女は知っている。


「お嬢様、どうか泣かないでください。お嬢様のお体が弱いから、長旅には耐えられないと旦那様がご判断なさったのです。王都での生活が落ち着きましたら、必ずお迎えに参りますでしょう。それまでどうか、ご自分のお体を大事になさってください…」


 国王の命令により、父は王都の職務に就き、兄と一緒に領地を去った。彼女は乳母と共に叔父一家が管理することになった屋敷に残された。


 しかし、乳母が叔父に逆らい、追い出されてからは、彼女は誰の保護もなくなった。


「これが貴族令嬢の食べ物?誰も取りに来ないなら、冷めないうちに、私たちで分けようか」


 彼女のために用意された食事でさえ、使用人たちに奪われた。


「あらまあ、あれが噂の令嬢かしら、体調不良でずっと領地に住んでいるというフリージア様ね? でも、あの不気味の髪の色は……」


 14歳のとき、初めて舞踏会への出席を許されたものの、周囲の令嬢たちは彼女を好奇の目で遠巻きに眺めながらひそひそと囁き合うばかりだった。誰一人として、彼女に話しかけてくれる者はいなかった。


「フリージア、すまないが、君との婚約を破棄したい、僕には真実な愛を見つけたんだ!」

「フリージア様、私たちは心から愛し合っています!どうかユリウス様を解放してください」


 それは、めでたいはずの卒業式の日だった。彼女は婚約者から突然婚約破棄を言い渡され、公衆の面前で『捨てられた女』と呼ばれることになった。


「我がスペンサーグ公爵家に婚約を破棄された令嬢など存在しない。出て行け!今日限り、お前との親子の縁を断ち切る!」


 その日、彼女は実家からも見放される運命を辿ることになった。

 彼女は、自分が常に『捨てられる側』であることを、ずっと心の奥で認識している。


 ***

 過去の映像が次々と過ぎ去り、18年間の短い人生が走馬灯のように現れては消えていく。彼女は心の中でため息をし、絶望したように目を深く閉じました。


「何も、なかった……」


 そう呟いた彼女の足元は、いつしか泥沼と化していた。冷たく湿った黒闇がじわじわと彼女を飲み込み、緩やかな速度で彼女を覆い尽くそうとする。


 彼女短い人生は、排斥と圧迫、そして孤独の中で過ごされました。彼女にとって、顧みるような事など、何一つも、なかったのだ。


 時間が流水のように静かに過ぎ、黒闇が彼女の躯の半分も覆い、体が徐々に冷たくなり、意識が朦朧としてくるのを感じている時に、突然耳慣れない優しい女性の声が聞こえてきた――


「まあ、こんなところに娘さんが倒れているじゃねぇか!大丈夫、おばさんは医師だ、絶対にあなたを助けるからな」


 暗闇の中で僅かな温かい光が点滅しているのを感じ、ぼんやりと目を開けると、又ぼつぼつと断片的な記憶が蘇り始めた。


 家から追い出された後、彼女は何者かに追われながら必死に逃げ続けた。あちこちに身を隠し、体力を削られ、最後には力尽きて道端で倒れてしまったのだ。

 絶望の中、見知らぬ女性が手を差し伸べてくれた。その人の名はエマ。


 エマは温かな声で励ましながら、彼女を自宅に連れ帰り、何も尋ねることなく手厚く看病してくれた。そして、行き場のない彼女を娘のように迎え入れ、薬草の採集や薬の調合方法など、生活に必要な知識を優しく丁寧に教えてくれた。


 それはすごく穏やかな日々でした、貴族令嬢としての人生が幕を閉じ、平民『シア』としての新たな人生が始まったのだと信じていた。


 しかし、それは間違いだった。


 彼女は無自覚のまま、我儘にエマに依存し、その結果、エマを自分の事情に巻き込み、彼女の命を奪うことになってしまった。


 その悲劇は、あまりにも唐突に訪れた。


「フリージア嬢で間違いないな。かわいそうに、拙者はアンタの命を奪い来た殺し屋でござる。心配せずとも、すぐに終わるさ」


 冷酷な声とともに、殺し屋が現れた。


「シアちゃん、振り返らないで、山に逃げて……ああっ!」


 エマは彼女を必死に庇ったが、その直後、鋭い刃がエマの胸を貫き、赤い血が一瞬で白い服を染めていく。


「エマ…さん?エマさん!?!!」


 彼女は足がすくみ、動けなくなり、目の前で倒れ行くエマの姿を茫然と見つめるしかなかった。心の奥底から怒りと絶望が一気に込み上げ、耐えきれないほどの悲しみが胸を締め付ける。


 彼女は力なく膝をついて、その場に崩れ落ち、溢れる涙とともに、悲痛な叫びを上げた。


「エマさん!!!」


 突如として、柔らかい緑色の光が彼女の体から溢れ出し、木の根が地面から湧き出し、信じられないほどの速度で成長していく。太い根が彼女の全身を包み込み、血の海に横たわっているエマの体をも守るように取り囲んだ。


 「ドンドンドン…」と彼女の心臓が不自然に高鳴り、まるで息ができなくなったかのような感覚に襲われた。

 空気が次第に薄くなり、周囲の音が徐々に遠ざかっていき、視界がぼやける中で、息苦しさに飲み込まれながら、彼女は自分の意識が薄れていくのを感じた。


 そして、視界が完全に真っ暗になったその瞬間、彼女は不思議なほどの安堵感を覚えた。

 ――これで、すべてが終わったのだ。


 ***

 ところが、運命の女神は彼女をもてあそぶかのように微笑んで、一度は幕を閉じたはずの人生が、予告もなしに、再開のゴングを打ち鳴らしたのだ。


 彼女――

 いいえ、あの人は私、すでに18年の人生を過ごし、そして命を散らした、過去の私。

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