第5話

 灰里が部屋の前まで戻り、ふと隣の部屋を見ながら三城が呟いた。

「確か、隣は佐藤って名前だったな」

「どんなやつ?」

 灰里が興味なさそうに尋ねる。


「引っ越してきたときに挨拶しただけだ。詳しくは知らない」

 三城は少し眉をひそめながら答えた。


「まぁ、どうでもいいけどな」

 灰里は佐藤の部屋のドアに手をかけたが、開かなかった。


「……鍵かかってんな」

 灰里が舌打ち混じりに呟くと、少し考えた後で三城のほうを向く。

「おい、おっさん、幽霊だろ? 通り抜けられるんじゃねぇの?」


「そんな馬鹿な……」

 三城は半信半疑ながらも、恐る恐るドアに手を伸ばした。すると、その手は何の抵抗もなくドアをすり抜けた。


「いけた……」

 三城は驚きに息を呑む。

「ほら、便利だろ?」

 灰里は茶化すように笑う。


 三城はため息をつきながらドアを通り抜けて隣の部屋へ入る。中に入ると、薄暗く、閉め切ったカーテンが視界に入った。畳まれていない洗濯物が散乱し、部屋全体に生活感の乱れが漂っている。


「汚ねぇ部屋だな……」

 三城は思わず呟いた。

 床を見下ろすと、紙切れが一枚落ちているのに気づいた。拾い上げてみると、手書きの文字がそこに記されていた。


『入れ替わる方法、手鏡に向かって話しかける――』


 三城はその文字に目を凝らしながら、背筋に奇妙な感覚を覚えた。

 ふと目を上げ、机の上に置かれたパソコンに目を留める。そのパソコンは静かにスリープモードになっていた。

 何気なくマウスを触れると、画面が明るくなり、スリープモードが解除される。すると、突如画面にショート動画が再生され始めた。


『人生をやり直す方法』


 部屋は薄暗かった。窓の外から差し込むわずかな街灯の光が、机の上の手鏡に反射して、ぼんやりとした輝きを放っている。誰かの手が鏡を持っている。その指先はかすかに震えていた。


「このまま終わってしまって、本当にいいのですか?」

 女性の声が静かに響く。音源は不明だった。どこからともなく聞こえるその声は、穏やかだが、どこか冷たい。


 鏡を覗き込むと、なぜか自分の顔が映っていた。だがその顔は、どこか歪んでいる。影がちらつき、表情は暗く、瞳の奥に何かが潜んでいるようだった。


「毎日が同じことの繰り返し。変わりたいと思うのに、何も変わらない。

 それは、あなたが『正しい方法』を知らないからです。」


 声に促されるように、鏡を握る手に力が込められる。その瞬間、視界がぼやけ、別の風景が浮かび上がった。


 荒れ果てた街並み、ひび割れたアスファルトの道路、かつて家だったであろう瓦礫の山。

 その中に、一つの手鏡が落ちていた。


「たった一つの行動が、あなたの人生を変える。」

 声が続く。鏡の表面に、一瞬文字が浮かぶのが見えた。


「選ぶのはあなた」


 鏡の中には、ただの映像ではなく、自分自身が立っていた。その姿はくすんだ影のようで、手を差し出している。


「方法はとても簡単。本当の自分を知るための”鍵”を、あなた自身の手で握るだけ。」


 影の手を掴むべきかどうか、逡巡する。その間にも、声は囁き続けた。


「鏡を通して、あなたの魂を見つめ直してください。

 そして、本来のあなたが持つ力を呼び覚ますのです。」


 鏡の中の影が笑った。その笑顔は冷たく、慈悲を感じさせない。


「ただし、この道を選ぶのはあなた自身。

 すべてを捨て、新しい扉を開く覚悟があるのなら——。」


 手鏡の中の風景は、次第に真っ白になり、見えなくなっていく。その代わりに、鏡の表面には赤黒い文字が浮かび上がる。


「さあ、どうしますか?」


 手が震える。鏡を投げ捨てたい気持ちと、そこに映るものを知りたい気持ちがせめぎ合う。


 しかし、声はもう聞こえない。部屋は再び静寂に包まれていた。

 最後に残されたのは、自分が握りしめた鏡と、胸の奥に響く一つの問いだけだった。


「選ぶのはあなた」

 ――ブラックリリチャンネル。


 その奇怪さに三城は眉をひそめ画面を見つめていたが、動画が終わった瞬間、パソコンが突然フッと消えたように電源が落ちた。


「……なんだこれ……」


 不意に襲ってきた静けさと不気味さに、三城は身震いしながら部屋を見回した。あまりの気味の悪さに耐えかねて、そっと部屋を出た。


 廊下に出た瞬間、そこに待っていた灰里が不意に口を開いた。

「手鏡に向かって話しかけろって動画でも見たか?」


「――っ!?」

 三城は心臓が跳ねるほど驚き、灰里を振り返った。

「おい……なんで知ってる?」


 灰里はにやりと笑うだけで、「別に」と応じるだけだった。


「いや、マジでなんで知ってんだよ!?」


 三城は詰め寄るが、灰里は応えようとしない。


「気味の悪いこと言うなよ。ほんとに見たんだよ、さっき……ブラックリリチャンネルとか言う……」


「へぇ、そりゃ災難だったな。」


 灰里はどこか飄々とした調子で言い、三城の動揺を楽しむかのようだった。


「……何者だ、お前……」


 三城は低い声で呟いたが、灰里はそれ以上何も言わなかった。

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