第10話 side 音
最寄りの駅前についた。
琴葉の仕事場は、電車で二駅先にある。
さすがに、もうついてるか……。
琴葉が現れた!
声をかけようとしたら、隣に知らない男が立っている。
俺は、慌てて見えない場所に隠れた。
傘越しに見ると、琴葉が嬉しそうに笑ってるのが見える。
「音、もう別れなさい」
「また?もういいって」
「聞こえる子はね、聞こえる子同士といるのが幸せなのよ。いっとき、付き合えたって最後には音を捨てるんだから……それぐらいわかりなさい」
半年前。
母さんに言われた言葉を思い出す。
聞こえる人といるのが幸せ。
そっか……。
そうだよな。
二人の姿を避けるように家に帰る。
【母さん、美弥子の連絡先教えて】
【会ってくれる気になったのね。向こうに音の連絡先送ってていい?そっちの方が早いでしょ?】
【じゃあ、そうして】
聞こえる相手とは、いっとき……。
だったら、割り切って付き合わなくちゃいけないよな。
部屋に入って、机の引き出しをあける。
「澄み渡った空の匂いって何か好き。わかる?音」
琴葉が言うから、好きになった。
耳が聞こえなくなっていく俺に、琴葉はいろんなものを教えてくれた。
鼻孔をくすぐる香りや手に触れる感触や目で見る色彩。
舌の上を滑るように落ちるチョコとか……。
耳が聞こえてるうちに、音と連動して様々な事を教えてくれた。
だから……。
引き出しに入った茶色箱。
蓋を開くとサファイアの指輪。
琴葉と見た、あの満天の星空の夜の色が忘れられなかった。
海のパシャンパシャンと跳ねる音。
砂を踏む音。
この色を見ただけで、全部思い出せる。
明後日は、付き合ってから5年目だった。
だから、プロポーズしようと決めてたんだ。
スマホを開いて、予約した店をキャンセルしてリビングに戻る。
「ただいま、おと」
「お腹、大丈夫?」
「だいじょうぶ。おとのかおみたらなおった」
「よかった」
「うん。なにかのむ?」
「別れようか」
「えっ?何?」
「俺達、別れようか」
「どうして?」
「俺、もう琴葉を好きじゃないから」
「えっ?ちょっと何で?意味わかんない。ちょっと待って、頭の整理がつかないから」
「悪いけど、出てってくれない?一週間以内に……」
「何で?そんな事言うの?もしかして、結婚の事でお義母さんに何か言われたとか?だったら、気にしなくていいよ。私、まだ結婚とか考えてないし」
「ゆっくり話して!!」
テンパっている琴葉は、早口で話しているから……。
唇を読むのが追い付かなくてイライラした。
俺は、スマホを取り出した。
「もう一回話して」
「私、結婚なんて考えてないよ」
「もっと長い言葉だったろ?二回言うのめんどくさかった?耳が聞こえてる人なら、こんなの見なくても普通に話せるもんな」
「何で、そんな言い方するの?」
「ごめん。俺は、もう琴葉に優しく出来ない」
顔を見たら泣いてしまいそうだったから、部屋に行く。
「パタンって閉まる音がするでしょ?ほら、持って。行くよ」
このドアは、文字にすればパタンって音が聞こえるドアだ。
何度も、何度も、琴葉が教えてくれた事。
「キュウリ食べる時は、頭の中にポリポリって音が響かない?」
「見てみて。お風呂のお湯。パシャンとかピチャンって聞こえない?」
「揚げ物をする時の、パチパチって音が好きなの。わかる?」
「ねぇーー、音」
「この靴の音、覚えてて。お気に入りだから」
「音が忘れないように同じの買うから……」
「同じ曲聞くから……」
「映画は、これ。最後に耳が聞こえた時に聞いたやつ」
俺は、琴葉に新しいものを触れさせてあげる事が出来ない存在なんだ。
だけど、さっきの人は違う。
琴葉に新しいものを教えてあげられる。
日本映画に字幕をつけて見なくたっていいし、音楽だって今ヒットチャートに上っているのを聞ける。
琴葉が欲しい靴を履いてもいいよって笑ってあげられる。
【結婚なんて考えてないよ】
さっきの羅列に胸を締め付けられる。
琴葉の優しい嘘は、いつだって俺を苦しめるんだ。
大好きだけど、大嫌いだ。
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