夢魔に弟子入り

左原伊純

その夢はSOSだった


 新月の夜、誰もが帰った公園の池に可愛らしいパンプスが一つ浮いている。


 黒い水と一体化しているが本来はレモンイエローのパンプスで、ストラップの留め具に銀色の飾りがある。


 サイズから少女の物だったと分かる。


 朝日がパンプスを見つけ、桜舞う美しい公園の池のほとりのベンチに献花が溢れた。


 それから少し後。


 亜麻色の髪に白のリボンをくくられた少女は薔薇のアーチに潜るようにしゃがんでいた。


 上質な布のリボンも、それに似合う白いキャミソールワンピースも、可愛らしい水色の靴も、男に与えられたものだ。


 九歳の少女に遠くまで行く力は無い。


 男に呼ばれて少女は屋敷に戻る。

 暖炉の傍のテーブルにクラムチャウダーとサラダがある。

 銀の食器だ。


「食べなさい」


 作り物の優しさが入っている柔らかな男の声。


 少女はスプーンを握る。


 サラダはみずみずしい香りと音を初夏の部屋に放ち、クラムチャウダーは少女のお腹に重りを入れたような満腹感を与えた。


 食べる姿を見られる事はいくら幼いと言っても不快だった。だけど反抗的な態度を取る事はできない。


 私は再び殺されるんだと少女はいつも疑っていた。


 男が仕事に行っても少女に脱走の選択肢は無い。


 少女がこの屋敷に連れてこられてから三日経った日、男に軽く抱きしめられながらたくさんの花束を見せられた。


 いくつかメッセージカードが包装紙に引っかかっていた。そこに少女の名と共に、


『安らかに』と。


『もう君は死んでいるんだよ』


 だからずっと一緒だよと彼は言った。


 春の花。


 チューリップ、カスミソウ、たくさんの色に囲まれて少女は死を覚悟した。




 男のいない昼間、少女は与えられた自室のベッドで寝転んでいた。


 青系で統一されたファブリック。


 天蓋に包まれ世界から切り離された。


 私は花見の裏で殺されたと思っていた……と少女は振り返る。


 親戚のお姉さんが結婚する事になり、お祝いムードで少女の家族も花見に参加する事になった。

 大好きなお姉さんとたくさん話して彼女と婚約した男性とも一言二言挨拶をした。


 親が目を離したと、責められはしない程に男は狡猾だった。


 少女を影から盗み見ていたのだ。


 ライトアップした桜の影で何が行われたか、想像できるような人にしかできない。


 気が付けば屋敷にいた。


 靴が片方無くなっていた。


 誕生日に買ってもらった物だった。


 そして男は献花を全て持ってきて見せたのだ。


 靴を落とさなければ誰も気付かなかったのにとぶつぶつ言い続けた男にもう片方も捨てられた。


『君はもう死んだって、皆思っているから』


 少女は献花が並ぶ部屋に入ると一枚一枚メッセージカードをめくる。


 献花はそろそろしおれるだろう。

 花の香りに包まれていても地獄のような部屋だったが、花が枯れればさらに絶望的だった。


 私もこのままこうなるのかと少女はため息をつく。


 重苦しいそれが枯れていく花々の香りに加わった。


 天蓋の中で転がり落ちる数のぬいぐるみに押さえつけられながら、少女は眠った。


 男と一緒ではない眠りだけが安らかだった。



 ぬいぐるみが落ちるのが分かって目覚めた。


 男が来たのかと、一瞬のうちに恐怖で意識が尖る。


 だが誰の足音もしない。

 どうしてぬいぐるみが落ちたのかと少女はそっとベッドから起き上がる。



 驚いて動きを止めた。



 シーツに、床に、埋め尽くすほどの花びらが落ちている。


 色とりどりの春の花を丁寧に散らして部屋を満たしているようだった。


 春の空に溶ける香りを寄せ集めて固め、この部屋が春の化身になったみたいだった。


 ぬいぐるみにも花びらが落ちていて少しは綺麗に見えた。


 花片に気を取られて少女は自分の靴が水色ではなくレモンイエローだと気付いていない。


 春の香りに浸されて、何も考えずとも部屋の真ん中に行って腰を下ろす。花弁を撫でて色と香りだけでなく柔らかさも楽しむ。


 花弁の奥に何か物体がある。警戒もせず花弁をかき分けて、それが何か確認しようとする。躊躇なく。


 花弁の下に男がいた。逃げ出そうとしたが恐怖で足がすくむ。

 男は目を閉じていて動かない。

 寝ているのかと思ったが、違う。


 死んでいるのだと分かった。



 はっと目が覚めてぬいぐるみに焦点が合い、夢だと気付いた。


 夢で良かったと思いそうになったが、本当に『夢で良かった』のか分からなかった。


 あれが現実だとしても、それはそれで良いような気がした。


 男があとどのくらい帰って来ないか知りたくて、少女は時計を見ようとベッドから下りた。


 真後ろから花の匂いが溢れた。


「いい夢を見たのね」


 白の帽子とロングドレスの女性が立っている。

 甘い花の香りだが苦味が混じっている。


 まだ夢の中だったのかと少女は思った。

 それならいいやとも思った。


 起きたって面白い事は一つもない。


 それなら男が死んでいる夢の中に長居した方がいい。


 先ほどまで花弁に満たされていたのを見たせいか、青のカーペットも紺のカーテンも、全てがそっけなく見えた。


 その中で女性が身に纏っている純白のマーメイドドレスの裾が一際優雅だ。


「お姉さんが花弁を置いたの?」


 少女の問いに、女性は品の良い目じりが弧を描くような笑みを浮かべた。


「いいえ」


 それなら誰がやったのと聞こうと思ったが、もし男がやった事だとしたら聞きたくないと思い、つい口ごもった。


「あなたがやったのよ」


 女性にそう言われても、当然信じられずに少女は首を振るが、またしてもいいえと彼女は言う。


「だってあれは夢よ。あなたにもあれくらいできるわ」


 驚く少女の顔を見ただけで彼女の疑問を察し、女性は説明してあげると前置きした。


「今は現実よ。花弁にまみれた夢をさっきまで見ていたの。いえ、花弁で男を殺した夢、と言った方が合っているかしら」


 女性は言葉の内容に全く影響されないたおやかな笑みを浮かべている。


 夢とはいえ人を殺したのだと少女はぞっとした。


 男を殺した事ではなく、自分は殺人という行為をする人間だったのだという事にショックを受けた。


「私は悪い子なの?」


 少女にすがられた女性は、今までのひたすらに穏やかな笑みだけでなく、優しい哀れみを瞳に浮かべた。


 少女の髪を撫で、巻きつくリボンを取ってやった。


「あなたは悪い子じゃないわ」


 少女は安心して少し泣きそうになった。


 あの日公園で、トイレからの帰りに落ちている桜の枝を見つけた。


 拾ってお姉さんにあげようと思った。


 その途端に男に連れ込まれた。



 男に見せられたニュースで親戚のお姉さんが泣いている姿も映っていた。


 きっと結婚式は挙げられなくなった。


 男にこれ以上殺されるのが嫌で逃げ出そうともしていない。


 誰かに助けられたらきっと、どうして今まで逃げなかったのと怒られる。


 助けられたって、何をされたのか警察や親に言えるか分からない。


「私は悪い子じゃないの?」


「ええ。あなたは悪い子じゃないわ」


 女性の手に髪を撫でられているとそよ風に髪をなびかせているような感覚がした。


 窓の開いていない部屋で春の風を纏う女性のドレスにぎゅっとしがみついたけど、綺麗な生地を汚したくなくて涙だけはこらえていた。


 女性は長身で、柔らかな体のラインだ。


 手が大きく指も長く、華奢というよりは肉感のある体つきだ。

 折れそうな程か弱い少女の手足を優しく包む。


 廊下から男の足音が聞こえて、やはり夢の中ではなく現実だと実感した。


「怖いよ」


 女性を見上げると優しい笑みをくれた。


「それなら、私と一緒に来る?」


 どこへ行くのと聞くのが普通だろうが、少女はすぐに頷いた。


「お姉さんと一緒に行く」


 春の始まりから盛りに変わったように女性の笑顔が変化して、少女は始まりを予感した。


 女性が窓を開けた。少女を軽々と横抱きにするとそのまま窓から飛び出した。


 そのまま空を浮いても、少女は不思議に思わなかった。


 空に近づいて薔薇園を遠くにすると、森を一息で越える。夕日が煌めいた。


 夜になり、女性が梟の隣に腰かけて少女を膝の上に抱いた。


 満月が森を照らすおかげで獣の気配より安心感の方が強い。


 安心感は女性と一緒にいるためかもしれない。


「お名前を教えてくれるかしら」


紗里夜さりやっていうの」


「素敵。名前に夜を持っているなんて」


 月夜に歌い出しそうな上機嫌で、女性が紗里夜を抱き上げた。


 いきなりで驚いたが、紗里夜は怖くなかった。


「私はメリーアンっていうの」


 素敵な名前に心が躍った。


「外国から来たの?」


 その質問は時期尚早だったのだろうか。


「外国とは違うわね」


「じゃあ、どこから来たの?」


 教えて欲しいと、紗里夜は純粋な好奇心からせがんだ。


 メリーアンは少しため息交じりに笑った。


「私は人間じゃないのよ」


 優しい笑みの中に迷いもあったが、彼女はそれを飲み込んだようだった。


「私は夢魔のメリーアンよ」


 静かな言葉は森の空気にそのまま染み込むかと思われたが、隣の梟が翼を完全に開いて雄叫びのように鳴いた。


 すると森の木々に眠っていた小鳥達が一斉に飛び立ち、森が音で溢れた。


 鳥を見上げるメリーアンは一体何を思っているのか。


 夢魔であると、聞いてしまった。


 これが二人の出会いだ。

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