白花冥幻譚 紫燐ノ森(短編版)

浅里絋太

第1話

 森の天幕の向こうには鼠色の雲がはびこり、秋空を重く染めている。雨でも降り出しそうな湿った風に木々はざわめいた。


 周囲には水楢みずならや杉がひしめく。


 そんな薄暗い、石ばった山道をゆくふたつの人影がある。


 前を歩く青年の侍は、黒衣――それも墓地から掘り起こした屍衣しいのような、黒ずんだぼろをまとっている。大きな行李こうりを背負い、俯き加減の顔を強張こわばらせていた。


 ――侍の名は蓮二れんじといった。


 その後ろをゆくのは、笠をかむった白装束の巫女。――端然とした小顔に薄桃色の唇を結び、笠の下の白磁の肌を刺す日光すら厭わず、歩みを進めてゆく。


 常に力のこもった、己を閉じ込めるようにしかめた眉は、巫女に課せられた宿命と、その内圧的な性質によるものだろう。


 ――巫女の名は沙耶さやといった。


 沙耶は息を切らせ、いかつい侍に遅れじと懸命に歩いているようで、顎に締めた笠紐にも汗が伝っている。


 上等な生地と知れる白衣はくえに、目の覚めるような色合いの緋袴。左手には樫の杖を突き、白足袋たびを土に汚し、前をじっと見据えて歩む。


 白衣に縫い取られた『白花しろはな紋』は、彼女が『白ノ宮』にゆかりのある巫女だと示していた。



   *



 蓮二は道行きの遠さにうんざりとしながら、息詰まるような緑の中を歩いていた。


 ふと、背後の沙耶の足音が止まったことに気づいて振り返る。すると、沙耶が山道の端にうずくまっていた。


「おい、なにやってる。置いてくぞ」


 そうは言ってみたものの、監視の役目を放って、置いて行けるわけがない。蓮二は舌打ちして足を止めた。


 沙耶は笠をとって横に立てると、咎人のような弁解がましい目で、


「石塔が、あったのです……」


 たしかに、沙耶のかたわらには苔むした小さな石塔が見えた。


 膝の高さほどのそれは、矢尻の先端を天に突き立てたような形をしていた。


 石塔の前面には白花紋らしきものが彫られており、文字の内側にも苔が張り付いていた。白花紋――それは花弁がそれぞれ八方に張り出した意匠であり、白ノ宮の巫女たちが奉る象徴でもある。


 とはいえその石塔は気持ちのよいものではなかった。数匹の蟻がつき、端々が欠けている。触れるだけで祟られでもしそうだ。



「その石塔がどうした」

「石塔の周りに、瘴気しょうきが、とどこおっておりますゆえ」


 沙耶はそう云って石塔に顔を向ける。


「なんだと」と蓮二は呼吸を整え、目を細めて石塔を見る。すると、薄墨のような暗い空気の層が、石塔や周囲の草むらを浸しているのが見えた。


「蓮二さんも、恐らくご覧になれるかと」

「たしかに、瘴気が妙に溜まってやがるな……」


 蓮二はそう答えて、まばたきをした。瘴気は視界からすうと消えた。――この観気ノ術は、銀狼衆に入ったおりにすぐ憶えたものだ。


「だからなんだ。放っておけ。益体やくたいもねェ」といささかきつめに云ったつもりだったが、まだ巫女は動かない。


 沙耶は目をつむって両手を合わせると、息を大きく吸い込んだ。すると、桃色の蕾のごとき唇を開き、実にゆったりとした抑揚で、吟じはじめたのだ。



 白花しろはなは 穢れし土へ根をはらむ

 花開きては 浄しなるかな



 巫女たちが『白花しろはな浄歌じょうか』と呼ぶものだ。


 沙耶は両手を石塔に伸ばすと、赤子でも抱くように手を当て、静かに目を閉じた。――はあ、と音をたてて息を吐いた。


 ついで、沙耶はわずかに顎を上げて、深く息を吸い込んだ。


 まるで、あたりの瘴気をすべて取り込もうとするかのように……。いや、蓮二はそれが、ではないことを知っていた。


 巫女の顔は雨に濡れた薄衣うすぎぬのごとく青黒く染まった。がくりと前方に崩れかけた。


 蓮二は思わず駆け寄りそうになるが、それをこらえる。


(ちッ。甘えられたら敵わねェ)


 代わりに目を細めて、また観気ノ術で気の流れを見る。


 ――先刻までひしめいていた瘴気の大半は消えていた。その代わりに沙耶の体は、黒い藻のような瘴気に取り囲まれていた。


 沙耶は屈み込んだまま、石塔から手を外した。こめかみに青筋を浮かべ、血の気の引いた朦朧もうろうたる表情でその目を閉じるに、両手を合わせた。そうしてまた、苦しげに唇を押し開けてうたうのだ。

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