静かな地獄

@yuu_nishi

第1話

第1話:心の傷

春の風が、キャンパスを吹き抜けていった。桜の花が静かに舞い散る中、加賀美玲奈は一人、ベンチに腰掛けてその景色をぼんやりと眺めていた。新しい学期が始まり、大学生活が始まったばかりだというのに、彼女の心の中には何一つ新しいものが芽生えることはなかった。空気は温かく、周囲の学生たちは楽しげに話しながら歩いていくけれど、玲奈はその中に溶け込むことができずにいた。


「もう、何年経ったんだろう…」


心の中で呟く。あの人との別れから、もう数年が経つ。彼との関係は、玲奈にとってすべてだった。彼に愛され、彼と一緒に未来を描くことが、玲奈の唯一の希望だった。しかし、最後には裏切られ、壊れてしまった。


彼にとって、玲奈は結局は“都合のいい存在”だった。彼の冷たい目線、無視された言葉、無責任な言動。それらすべてが、玲奈を傷つけ、心の中に深い傷を残した。その傷を隠すようにして、玲奈は大学に進学した。新しい場所、新しい人々、新しい環境。それでも、心の中の空虚感を埋めることはできなかった。


「玲奈、そろそろ行こうか?」


背後から聞こえてきた声に、玲奈はゆっくりと振り返った。そこに立っていたのは、彼女の友人、佐伯千紗だった。千紗は社交的で明るく、大学に来てからすぐに友達ができるタイプだった。玲奈とは高校時代からの友人で、二人はよく一緒に過ごすことが多かった。


「うん、行こう…」


玲奈は薄く微笑んで答えるが、心の中では何も感じていなかった。千紗が何をしているのか、どこで遊んでいるのか、どんな新しい友達を作ったのか。それらはどうでもよかった。彼女は、ただその場にいるだけだった。


千紗は玲奈の様子に気づいていない様子で、にこやかに話しかけてくる。「最近どう?あまり話してないから、心配してたんだよ。」その言葉に玲奈は小さく息をつく。


「別に…普通だよ。」


千紗は玲奈の表情を見つめ、しばらく黙った後、ふっと笑った。「そうだよね。玲奈って、こういう時でも冷静だから。」


その言葉を聞いて、玲奈は一瞬だけ胸の中がざわつくのを感じた。千紗は、彼女がどれだけ傷ついているのかを知らない。でも、それでもいいと思っていた。傷ついたままでいる自分を、誰かに知られるのが怖かった。


「玲奈、今度のグループワーク、一緒にやらない?」


突然、千紗が提案してきた。玲奈は少しだけ驚いたが、その後すぐに頷いた。「うん、いいよ。」


千紗は嬉しそうに笑って、携帯電話を取り出してグループのメンバーに連絡を始めた。その様子をぼんやりと見ていると、玲奈の心は一層重くなった。グループワークをしていると、必然的に他の学生とも関わることになる。その中で、どんな人がいるのか、誰が自分に興味を持つのか――そんなことを、玲奈は自然と考えていた。


そして、その日の午後、グループワークの最初のミーティングが開かれた。


「じゃあ、まずは自己紹介から始めよう。」


教授が言うと、参加している学生たちがそれぞれ順番に自己紹介を始めた。玲奈は席に座り、うつむいていた。自己紹介など、もう何度も繰り返してきたことだが、いつも同じように「普通の学生です」とだけ答えてきた。自分が他の学生たちの中で、どれだけ浮いているかを知っていたから。


だが、その中で、一人の男性が彼女の目を引いた。


「高岡陽一です。よろしく。」


短く自己紹介を終えたその男性、高岡陽一は、他の誰とも違っていた。最初に目が合った瞬間、玲奈は彼の冷たい眼差しに少し驚いた。無愛想な表情が、他の学生たちとはまるで違う。彼は、まるで周りの誰にも興味がないかのように見えた。それでも、玲奈は何故かその目を離せなかった。


彼が自己紹介を終えると、次は玲奈の番だった。玲奈は静かに息を吸い込み、自分の番を待つ。彼女が顔を上げた瞬間、再び陽一と目が合った。彼は一瞬だけ視線を送ってきたが、すぐに目を逸らした。その仕草に、玲奈は少しだけ違和感を覚えた。


「加賀美玲奈です。よろしくお願いします。」


短い自己紹介を終え、玲奈は再び下を向いて手元のペンを握りしめた。その時、何故か心の中で、彼の冷たい眼差しが消えずに残っていることに気づいた。


陽一の存在は、どうしても玲奈の心に影を落としていた。それが、何故か心地よくも感じていた。

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