鳳翼の型

理乃碧王

前編

 7月。

 今日は金曜日で、時刻は午後の7時を回っていた。

 ここは東京都内にある「鳳翼ほうよく会館」という空手道場。

 約40畳のスペースには、びっしりと近代風の青畳が敷かれ、隅にはサンドバックが4つほど均等に天井から吊るされている。

 また、壁には砂袋が置かれ、パンチやキックミットが立て掛けられていた。


「フゥッ!」


 無声の気合が響く。

 青畳の中央には、髪を短く切った少女がいる。

 髪が長すぎては不便だからである。


「……ッ!」


 少女は両手を握り、左手を前、右手を腰に置く。

 体は半身で構え、腰を落としている。武道あるいは格闘技の構えのようである。

 幼い顔立ちであるが、凛とした佇まいは大人のそれ。

 彼女は武道家なのだ。


 その証拠に、その身は純白の道着に包まれていた。

 清廉として美しく、腰には強さの象徴である黒帯が巻かれる。

 道着の胸には赤糸の刺繍で「鳳翼会館」と縫われている。

 彼女の名は望月遥、年齢は18歳。

 段位は初段、空手歴は今年で丁度10年目になる。


「ヤッ!」


 遥は上段蹴りを繰り出した。

 鞭のような蹴りはしなやかであり、キレがあった。

 どうやら、型の演武をおこなっているようだ。

 まるで巫女が舞い踊るようであった。


 そう、ここは神聖なる場所。

 道場の中央、西の方角には神棚が掲げられている。

 その左右には「鹿島大明神」と「香取大明神」という二柱の神名を書いた掛軸が飾られていた。

 この二柱は日本の神話において、武芸の神と呼ばれている。近年のグローバル化に伴い、神棚や掛け軸を置くところは少ない。

 しかし、古式、伝統に乗っ取る道場では立て掛けるところが少なからずある。

 大都会東京の片隅にある、ここ鳳翼会館は古式、伝統を重んじる数少ない道場だ。


 この空手道場、昭和の時代から始まっている。

 正式名称はは「国際空手道連盟 鳳翼会館」という。

 国債の二文字がつけられているが規模は小さい。

 東京都内だけに、いくつか支部道場があるだけだ。

 しかし、それでも各種大会に入賞者を出すほどの実力老舗道場なのだ。


「ハァッ!」


 遥は細くも強い四股を動かし、舞い続ける。

 この武道における型。

 先人達が戦いの中で編み出し、磨きこんだ戦闘法のエッセンス。

 また後進が滞りなく、戦闘技法を学ぶための稽古法である。

 型の目的は、技の正確な所作や動作、趣旨を確認するためである。

 故に手足の位置、間、気合、どれも一寸の狂いがあってはならない。


「ハアアアアア!」


 遥は極めの拳を突き出す。

 寸分の狂いはない。

 完璧な型を演じきった。


「……時間か」


 遥は壁に立てかけられている時計を見た。

 時刻は7時15分、約束の時間より15分は過ぎていた。


「遅いな、あいつ」


 遥はポツリと呟く。

 今、道場には遥しかいない。


「待たせたな」


 が、これよりそうではなくなる。

 道場に青年が入ってきた、遥かとそう変わらない年齢である。


「たっくん、遅いじゃない」

「そ、その呼び名はやめろ」


 名は大場拓斗。

 髪は肩までかかる長髪、道着は淡く黄色味がかり白というよりも象牙色、遥とは違い少々の退廃性を感じさせる。

 しかし、並々ならぬ雰囲気を醸し出している――が、帯は茶色。

 所謂、色帯と呼ばれるものだ。

 この鳳翼会館においては一級の称号で。黒帯の一歩手前の帯である。

 道場内の序列では黒帯に劣る茶帯である拓斗であるが、遥かに親しげに語りかける。


「型をしていたのか」

「わかる?」

「そりゃあな。道場の外にまで聞こえてたから、お前のバカでかい気合」

「そ、そうなんだ」


 遥は何故だか照れくさくなった。

 普段、道場生が数人稽古しているので気にはならない。

 「えい」だの「やっ」だの、気合を出しながら基礎や型、ミット打ちなどの稽古を行うのだ。

 だが、今宵だけ――。

 自分の気合が、この拓斗ただ一人に聞かれてたのが、何故だか無性に恥ずかしくなった。


「顔が赤いぞ?」


 拓斗の言葉に、遥はハッと我に返る。

 どうやら、自分の顔が赤色に染まったのに気づかれたらしい。

 遥はブルブルと顔を左右に振り、誤魔化しの言葉を述べる。


「か、体を動かし過ぎちゃったのかな? それに今日は暑いのもあるし!」

「……冷房をつければいいだろ」


 素っ気ない態度を取ると、拓斗は床に座り込み、足を広げた。

 開脚ストレッチと呼ばれる柔軟運動を始めたようだ。

 拓斗は足は広げているものの体は固い。

 体と床は10センチ以上離れ、足もそれほど開けておらず、完璧な開脚ストレッチではない。

 そんな拓斗を見て、遥は茶化した。


「相変わらず、体が固いわね」

「うるせーよ」

「手伝おうか?」

「いらん、いらん」


 拓斗は体を屈めながら悪態をつく。


「だいたいよ、型なんて意味ないのに――」

「ぬっ!」


 悪態の言葉を耳にした遥、その表情は一変した。

 眉がつり上がり、口はへの字となっている。

 母親か教師が子供や生徒をしかりつける前兆といえるだろう。

 遥は拓斗の後ろ側に回り、両手で一気に背中を押した。


「げぇ!」


 鶏が締められるような声が漏れ出る。

 拓斗の表情は苦痛に歪んでいた。


「イ、イタタタタタ!」

「そういう態度はよくないぞ! だいたい稽古の開始は7時ジャスト! 15分オーバーだ!」

「よ、よせっ! 痛い! ストップ! ストップ!」

「時間も守れない男が、エラソーに言うんじゃない!」


 遥は語気を強めると、拓斗の背中を一層力強く押した。

 拓斗の上半身はより床に近くなるが、やられた方は激痛が走る。

 先程の強気な口調は一変し、拓斗は涙目で情けない声を出していた。


「ギブ! ギブだ! ここまでやる必要があるのか!?」

「これくらいやんないと、柔らかくなんないのっ!」

「バ、バカ! 早く手を放せ! 足がちぎれちまう!」

「バカはそっちだ! おおばか拓斗!」

「おわあああっ!」


 拓斗の悲鳴が情けなく道場内に響く。

 遥はゆっくりと、背中から手を放した。


「今日は何のために『特別稽古』するかわかってる?」


 遥の問いに、屈めた体を慎重に起こす拓斗。

 ゆっくりと顔を上げると、申し訳なさそうな顔となっていた。


「しょ、昇段試験のためです」

「よろしい。ほら、早く立ちなよ」

「は、はい」

「はいじゃなくて、押忍」

「オ、押忍!」


 拓斗は直立不動で立ち上がる。

 そして、足を肩幅まで開き、両手を十字に切った。

 空手式の礼法、挨拶である。


「押忍、特別コーチよろしくお願いします」


 対する遥も両手で十字を切る。


「押忍、それでは稽古を始めます」


 本来、金曜日は稽古日ではない。

 特別に道場を解放しているのだ。

 それもこれも、拓斗の昇段試験のためである。


(遥に教えてもらうなんてな……)


 拓斗はそう思い。


(私が拓斗を教えるなんてね……)


 遥もそう思った。


 望月遥と大場拓斗。

 入門した時期は同じであるが、明確な格差があった。

 段位、大会での実績はもちろん、才能、運動神経、道場内での人気――。

 遥は拓斗に後ろめたさを感じ、拓斗は遥に劣等感を感じていた。


「それじゃあ、早速だけど型を見せて」

「オ、押忍!」


 だが、道場での稽古は始まっている。

 複雑な感情の揺らぎの中、二人だけの稽古が始まった。

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