第2話|祝宴の夜
朝霧がまだ薄く漂う市場の通り。クラリスは湿った空気を深く吸い込みながら、一歩一歩足を進めていた。昨夜は一睡もできなかった。ヴィクトールの心を取り戻すため、今夜のディナーは最後の望みなのだ。彼との出会いをもう一度蘇らせるため、最高の食材を探し求めていた。
「奥様、見てください!今日は特別に上等な子羊が入っていますよ」
肉屋の店主が、誇らしげに新鮮な子羊の肉を見せる。その肉はまるで宝石のように輝き、クラリスの目に一筋の希望の光をもたらした。彼女は肉の質感を確かめるため、そっと指先で触れた。柔らかく、しっとりとしている。
「これをいただきますわ」
値段は決して安くなかった。しかし、この子羊のローストこそが、彼女とヴィクトールを結びつけた思い出の料理。あの日のように、彼の心を再び掴むことができるかもしれない。
屋敷に戻ると、クラリスはすぐにキッチンに向かった。トリュフの芳醇な香りが立ち込め、新鮮なハーブが爽やかな彩りを添える。深いルビー色のワインがグラスに注がれ、全てが完璧な調和を見せている。
「懐かしい香りがしますね」
背後から聞こえる声にクラリスは振り向いた。そこには、黒いドレスに身を包んだエレオノールが立っていた。彼女の瞳には、一瞬冷たい光が宿っているように見えた。
「ええ、ヴィクトールと初めて出会った日の料理なの」
クラリスは微笑みながら答えた。彼女の実家のレストランで代々受け継がれてきた子羊のロースト。その伝統的なレシピに、彼女自身の工夫を加えた特別な一品だ。かつてヴィクトールは、この料理に心を奪われ、彼女に求婚したのだ。
「でも、人の好みは変わるものですわ」
エレオノールの言葉に、クラリスは一瞬心が揺れた。しかし、すぐに気を取り直し、料理に集中する。今は迷っている時間はない。
夕暮れが近づき、空が茜色に染まる頃、全ての準備が整った。食堂のテーブルには、美しくセッティングされた食器とキャンドルの明かりが揺れている。
「お待たせしました、ヴィクトール」
クラリスは銀の蓋をゆっくりと開けた。芳醇な香りが部屋中に広がり、ヴィクトールの表情が一瞬で変わる。
「これは...懐かしいね」
彼は目を細め、料理をじっと見つめた。
「ええ、あの日の料理よ。でも、少しだけ新しいアレンジを加えてみたの」
彼女の言葉に、ヴィクトールは微笑んだ。その笑顔を見て、クラリスの胸は高鳴った。
エレオノールが静かにワインを注ぐ。深い色合いのワインがグラスに満ち、二人の間に静かな時間が流れる。
「乾杯しましょう、ご夫婦の幸せに」
エレオノールの声が響き、グラスが軽やかな音を立てて触れ合う。
ヴィクトールは一口一口、丁寧に料理を味わっている。その表情からは満足感が伝わってくる。クラリスも安心して、料理を少し口に運んだ。
「本当に美味しい。君の料理は特別だ」
ヴィクトールの言葉に、クラリスの目に涙が浮かぶ。やっと、彼の心に届いたのだ。
しかし、その幸福感は長くは続かなかった。
食事を終え、自室に戻ると、突然激しい眩暈に襲われた。
「どうして...?」
体が熱く、視界がぐにゃりと歪む。足元がふらつき、壁に手をついても支えきれない。
廊下から近づく足音。振り向くと、エレオノールが静かに立っていた。
「お気分が優れないようですね、奥様」
彼女の声は冷たく、まるで別人のようだった。
「エレオノール、一体これは...」
言葉を紡ごうとするが、喉が詰まり声にならない。
「毒見をなさるとは、さすがですわ」
クラリスの心に冷たい恐怖が走る。まさか、料理に毒が?
「ご安心ください。致死量ではありません。ただ、しばらくお休みいただくだけです」
エレオノールの瞳には、底知れぬ闇が映っていた。
「なぜ...?」
クラリスの問いに、エレオノールは薄く笑った。
「なぜでしょうね。でも、ご安心を。ヴィクトール様は私がしっかりお支えしますから」
足の力が抜け、クラリスはその場に崩れ落ちた。
「お休みなさい、奥様。目覚めたときには、新しい世界が待っていますわ」
意識が遠のいていく。
やがて全てが暗闇に沈んだ。
……。
……。
……。
どれくらいの時が過ぎたのか、まるでわからない。
遠くで響くような音も、手を伸ばしたくなるような光もない。
ただ、深い闇の中を漂う感覚。
――ふ、と。
重いまぶたがゆっくりと開いた。
見慣れない天井が目に映る。
白く、静謐な空間――壁、そして清潔なシーツの感触が、ぼんやりと意識を呼び戻す。
「目が覚めましたか?」
穏やかな男性の声が聞こえる。看護師だろうか。
「ここは...?」
「療養所です。あなたは半年間、眠り続けていました」
「半年...?」
信じられない思いで、クラリスは天井を見つめた。
枕元に置かれた新聞が目に入る。震える手でそれを手に取り、見出しを読む。
「デュモン子爵、エレオノール嬢と盛大な結婚式」
写真には、幸せそうに微笑むヴィクトールとエレオノールの姿が映っていた。
「そんな...」
力が入らない手から新聞が滑り落ちる。涙が頬を伝い、シーツに染み込んでいく。
窓の外を見ると、明るい陽射しの中で花々が美しく咲き誇っていた。風がそよぎ、懐かしい料理の香りがかすかに漂ってくる。
それは、彼女の新たな人生の始まりを告げる、苦く切ない香りだった。
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