夫の胃袋を掴み損ねたので、次は国民の胃袋を鷲掴みします
@naka007769
第1話|料理の香り
朝もやの立ち込めるキッチンで、クラリスは丁寧にハーブをすり潰していた。透明な乳鉢に入れられたローズマリーとタイムの香りが、蒸気と混ざり合って漂う。窓の外はまだ暗く、わずかに射し始めた光が調理台に細い帯を作っていた。
奥の大きなかまどでは、既に館の料理人たちが朝食の準備に追われている。貴族の館にふさわしい豪華な食事を、大勢の使用人のために作らねばならないのだ。その中で、クラリスだけが小さな調理台で、夫のための特別な一皿を作っていた。
「今日は特別よ」
クラリスは小さく微笑んだ。沸騰したスープから立ち上る湯気に顔を近づけ、深く息を吸う。豊かな香りと、完璧な味の予感が鼻腔をくすぐった。
貴族の館で暮らし始めて一年。実家の小さなレストランとは比べものにならないほど立派なキッチンだが、料理人として働くわけではない。それでも、毎朝、夫のためだけに料理を作ることを、特別に許されていた。それは、クラリスの密かな誇りだった。
デュモン家の三男坊として生まれたヴィクトールは、兄たちとは違い、自分の力で這い上がらねばならなかった。そんな彼を支えてきたのは、幼い頃から家で働いていたエレオノールだった。彼女もまた、没落貴族の娘として、かつての身分を取り戻すことを夢見ていた。二人は互いの野心を理解し合い、密かな絆を育んでいった。
しかし、ヴィクトールはクラリスの料理に出会い、心を奪われた。その才能があれば、貴族社会でも認められる。純粋な愛情と野心が交錯する中での求婚だった。エレオノールは表向き、その結婚を祝福した。だが―。
スープに仕上げのハーブを加え、銀の器に注ぎ入れる。隣には焼きたてのブリオッシュ。表面は黄金色に輝き、ほのかな甘い香りを放っている。最後にフルーツを添えて、トレイの上の配置を整える。全てが朝の光を受けて輝いているように見えた。
「おはようございます、奥様」
階段を上がろうとした時、背後から声がかかった。振り向くと、黒いドレスに身を包んだエレオノールが立っていた。侍女長でありながら、その卓越した料理の腕前で館の食事も取り仕切る彼女は、いつも完璧な立ち居振る舞いでクラリスを圧倒させた。その立ち居振る舞いには、かつて貴族だった誇りが垣間見える。没落の痛手を味わった者特有の、冷徹な計算と野心が隠されていた。
「おはよう、エレオノール」
クラリスは微笑みかけたが、エレオノールは淡々とした表情を崩さない。彼女の手には既に、朝の紅茶が載せられたトレイがあった。
「旦那様は今朝、早めに目を覚まされました。書斎でお待ちかもしれません」
その言葉に、クラリスは一瞬足を止めた。普段、夫のヴィクトールは寝室で朝食を取る。書斎で仕事を始めているというのは珍しい。
「ありがとう」
階段を上がりながら、クラリスは何か違和感を覚えた。エレオノールの声に、どこか意地の悪い響きがあったような気がした。気のせいだろうか。
書斎のドアをノックすると、中から低い声が返ってきた。
「どうぞ」
クラリスがドアを開けると、ヴィクトールは窓際の机に向かって座っていた。朝日が彼の整った横顔を照らしている。クラリスは、その姿に今でも心を奪われる。デュモン家の三男とはいえ、その佇まいには生まれながらの貴族としての気品が漂っていた。
「おはよう、ヴィクトール。朝食を持ってきたわ」
「ああ」
そっけない返事。ヴィクトールは振り向きもせず、手元の書類に目を落としたままだった。机の上には、領地の経営に関する書類が積み重ねられている。兄たちの庇護下にある今の立場から抜け出すため、彼なりに必死なのだろう。
クラリスは少し戸惑いながらも、机の上の書類を避けるようにトレイを置いた。
「今日のスープは特別よ。市場で見つけた新鮮なハーブを使って...」
「クラリス」
ヴィクトールの声が、彼女の言葉を遮った。
「今は忙しいんだ。それに...」
彼は初めてスープに目を向けた。その瞳に、かすかな嫌悪の色が浮かぶ。かつて彼を魅了した香りが、今では逆効果になっているのかもしれない。
「最近の君の料理は、香りが強すぎる。もっと控えめにできないのか」
その言葉は、クラリスの胸を刺した。これまで彼は、クラリスの料理を心から愛してくれていた。むしろ、彼女の才能に惚れ込んで求婚してきたはずだ。
「ごめんなさい。でも...」
「エレオノール」
ヴィクトールは突然、声を上げた。すぐに、ドアの外で待っていたかのようにエレオノールが姿を現す。まるで、この展開を予測していたかのように。
「はい、旦那様」
「君の料理が食べたくなった」ヴィクトールの声が柔らかくなる。「朝食を頼めるかな」
その声音には、幼い頃からの安心感が滲んでいた。エレオノールの料理は、彼にとって故郷の味なのかもしれない。
「承知いたしました」
エレオノールの唇が、わずかに微笑みの形を作る。その表情には、没落貴族の娘としての誇りと、長年の想いが込められていた。クラリスには、それが無言の勝利宣言のように見えた。
部屋に重苦しい沈黙が流れる。窓の外では小鳥が明るく囀っているというのに、クラリスには遠い世界の音のように聞こえた。
「下がっていいよ」
ヴィクトールの声は、もう完全に他人のようだった。クラリスは黙ってトレイを持ち上げ、部屋を出た。廊下に出てドアを閉めると、足が震えているのに気付いた。
キッチンに戻る途中、階段の踊り場で足を止める。手の中のスープから、まだ香りが立ち上っていた。彼女が丹精込めて選んだハーブの香り。夫への想いを込めた、彼女の誇りの証。
しかし今、その香りは彼女の胸を締め付けた。エレオノールの料理。それは彼女が館に来る前から、ヴィクトールの心に根付いていた味なのだ。野心と愛情が交錯する中で選んだ妻の料理よりも、幼い頃から共に在った彼女の味の方が、今の彼には必要なのかもしれない。
窓の外を見ると、屋敷の庭に朝日が差し込み、バラの花々が輝いていた。去年の今頃、ヴィクトールはこの庭で彼女にプロポーズした。料理の才能を認められ、愛されていることを、この上なく幸せに感じた日々。
クラリスは深くため息をつき、まだ温かいスープを見つめた。これまで料理は、彼女の人生そのものだった。実家のレストランで腕を磨き、それが縁で貴族の夫を得て、新しい人生を始めた。しかし今、その料理が夫との溝を広げている。
いや、違う。料理は変わっていない。変わったのは...。
「奥様」
エレオノールの声が背後から聞こえ、クラリスは我に返った。今や、彼女の声音には明らかな優越感が滲んでいた。かつての没落貴族の娘は、着実に自分の望む場所へと歩を進めているようだった。
「私が朝食を用意いたしますので、そちらはお下げしましょうか」
「ありがとう。でも、自分で」
クラリスは背筋を伸ばした。まだ何も終わっていない。夫との関係を修復する方法を考えなければ。そうだ、今夜は特別なディナーを作らせてもらおう。ヴィクトールの好みを完璧に押さえた、最高の一品を。
しかし、階段を下りながら、クラリスの背中にエレオノールの冷たい視線が突き刺さっていた。それは、まるで獲物を狙う蛇のような、不吉な視線だった。その視線の主が、自らの料理の腕前を武器に、着々と罠を仕掛けていることに、クラリスはまだ気付いていなかった。
キッチンに戻ったクラリスは、銀の器に残されたスープを見つめた。表面に映る自分の顔が、歪んで見える。そこには、これから訪れる運命の予感が、薄い膜のように漂っていた。
後ろの調理場からは、エレオノールが朝食の準備を始める音が聞こえてきた。包丁を扱う音一つ一つに、プロの料理人としての技量が感じられる。しかしその音には、どこか冷たい響きがあった。
クラリスには今、はっきりと見えていた。エレオノールの立ち居振る舞いの完璧さ、野心を隠した瞳の奥の決意、そして何より、ヴィクトールへの執着。彼女は単なる侍女ではない。没落した貴族の誇りと、失った地位を取り戻そうとする強い意志を持った女性なのだ。
そして、その野望の前に立ちはだかる存在が、自分なのかもしれない。
朝日はすっかり昇り、新しい一日が始まろうとしていた。しかしクラリスの心の中で、何かが終わりに向かって動き出していた。それが何なのか、まだ彼女には分からない。ただ、これまでとは違う風が吹き始めていることだけは、確かだった。
窓から差し込む朝の光が、銀の器に残されたスープの表面で揺らめいていた。
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