第14話 ー間唱ー 【花と少年/小龍】 前


 少年は、初めて花を美しいと思った。

 自分とは永遠に縁遠いものと思っていたのに、手が届くと思ってしまった。

 届くと、思ってしまったのだ。



 少年――小龍は、物心ついた時から、母と二人で生きてきた。


 時間のほとんどは刃物の扱いを覚えること、そして母のしない家事をすることに費やされた。

 その生活の中では何かを美しいと思うことも、楽しいと思うことも、喜びを感じることもなかった。でも、それでよかった。自分はそのために生まれたと思っていた。


 小龍の母は、人を殺すための術を極めた一族の末裔だった。

 静かに後を付け、あるいは家に忍び込み、音もなく跡も残さず対象者の命を奪う術。

 母はよく、あんたはなにもかも人並みね、と言っていた。せっかく龍族の家に奉公に行って龍の血を貰ってきたのに、毒を飲んでも平気な顔をしているくらいしか取り柄がない、と。だから、毒の味の見分け方とそれの隠し方、油断させるための料理の作り方は徹底的に仕込まれた。


 母が急逝し、仕事を求めて眠浮にやってきたのは春先のことだった。

 法のない獣の民の土地とはいえ、縁もゆかりもない場所で仕事を探すのは簡単ではなかった。

 父がいるという龍族の家に奉公に行くこともできたから、そうしたらよかったのかもしれないとも思った。でも、もう帰る金もない。人間や獣の愉しむ酒や薬も効かない体。

 それが良かったのか悪かったのか、堕ちることのできるものも何もなくて、沈むこともできない。

 

 何をするでもなくいつものように路地裏でぼうっとしていると、獣の男が転がり込んできた。黒い毛皮の、豹の顔をした男。続いて後を追う靴跡が聞こえる。三人だ。


 獣の男は小龍のほうを見た。金色の眼が、焦燥にいろどられて光っている。

 彼は小龍が子供だと気づくと諦めるようにため息をついて、巻き込まれるぞ、と言った。


 小龍は自分が用なしと言われたようで少し苛ついた。

 とっさに腰に仕込んだナイフを手に駆け出す。腰を落として路地に駆け込んでくる男たちとすれ違うようにその足元に滑り込んだ。その動きを見逃さないように見上げると、男たちの様子が目に入った。

 男たちは路地の奥から出てきたのが獣の男ではなかったことに戸惑い、あるいは路地の奥に狙っていた獣の男がいたことに色めき立ち、立ち止まっている。


 小龍は目を見開き、驚いた。



 ――何が、人並みだ。



 目の前の男たちは明らかに素人ではなさそうな雰囲気なのに、こんなにも遅い。

 自分でも、容易くやれる。


 小龍は足元に迫った壁を蹴って向きを変え、這うように駆けながら右手を閃かせた。腱が切れた三人の男たちが支えを失って倒れる。

 ひといきに、一、二、そして三。頽(くずお)れる順番に蹴り上げて喉を潰した。

 その一部始終を見守っていた獣の男が、何で助けた、と問う。小龍はただの腕試しと答えた。続けて、なにか仕事のつて、ない? とも。

 

 獣の男はにやりと笑って、今空きができたところだ、と言った。



 獣の男――黒は小さな盗賊団の長だった。


 だが、さきほどの三人と金銭のいざこざで争いになり、嵌められたという。

 小龍が住処もないことを伝えると自分の家に来いと誘った。うますぎる話だとも思ったが、いまさら失うものなんてない。だから素直についていくことにした。

 

 黒の家は眠浮ではありふれた共同住宅の一室だった。

 廊下に据えられた重い鉄の扉を開くと、短い廊下の先に居間が見える。一つ一つのつくりが狭い、と思った。

 居間の奥からおかえりなさいと声が聞こえて女が顔を出した。

 ゆったりとした金髪を後ろで一つに束ね、眠浮の……自分の元居た東方の民族衣装に近い服を身にまとっている。透けて見えるような安っぽい薄い布地は、女の体の線を隠していない。

 黒は小龍のことを舎弟と紹介して、寝る場所を決めるよう言った。女が迷惑そうな顔をしたのでなるべく邪魔にならなさそうな台所の端を選んだ。

 だが、結局居間のソファが自分の寝床に決まった。

 

 女――雪梅は黒の妻で、娘の小影との三人暮らしだった。

 小影は小龍によく懐いて、家に居る時には遊ぶようにねだった。小龍は子供の喜ぶ遊びは知らなかったので、雪梅に教えてもらったり玩具屋で玩具の使い方を教えてもらったりして世話をした。そのほかの時間は家事を手伝い、夜は黒の仕事を手伝った。

 

 概ね穏やかな日々ではあったが、小龍には一つだけ困ることがあった。

 週に何度か寝床を追い出されることがあるのだ。居候の身だからそのことについて自体は特に文句はない。最初に提案したように台所の床でも眠れる。だが、カウンターの向こうから時折漏れ聞こえてくる声は、それを許さなかった。

 

 小龍は次第に雪梅を意識しないように、避けるようにしていた。

 それでも、夜眠るためにソファに寝転ぶだけで、残り香が香ってくるようで苛まれる。早く一人で住めるだけの金を溜めてここを出ていこうと考えていた。



「ねえ、朝ごはん、一緒に食べにいかない?」


 それは突然の誘いだった。

 

 前夜、仕事から少し遅れて帰ると行為の真っ最中だったその姿が目の裏に浮かんだ。

 黒はおそらく、見せつけようとでもしたのだろう。

 しばらく一緒に仕事をしていて黒のその悪趣味さには気付いていて、そういうところには心底辟易していたところだった。当てつけようと、いかにも関心なさそうに振舞って仕事に使った刃物の片づけをしたが、結局眠れなかった。だからあまりに眠くて、つい頷いてしまった。

 朝食を食べた後は屋上に誘われた。

 

 そこは、色とりどりの花が咲く花畑だった。

 

 鉢植えの花や小さな樹木が花を咲かせていて、久しぶりの太陽の光にくらくらした。

 小影は水をやりながら自分が育てた花を教えてくれている。

 

 雪梅は、ここは黒も知らない場所だと笑った。

 

 

 どうして、そんなことを言うのだろう。

 

 どうして、今まで見せなかった笑顔を見せてくれるのだろう。

 


 小龍は、その笑顔をここに咲いているどんな花よりも美しいと思った。

 その心を見透かすように、雪梅は耳元でささやいた。



 小影が昼寝したらもう一度ここで会いましょう、仕事に少し早く出ると言ってくるから。


 小龍は導かれるように頷いていた。

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