十六歳の時、離婚届にサインをした 相手は、実の母だった

Q輔

第1話


 十六歳の時、離婚届にサインをした。相手は、実の母だった。


 一九九〇年、春。満開だった植樹帯のつつじが、春の真夏日に晒されて一斉に萎れ、淡いピンクが、茶色に変色してとても薄汚い。選挙ポスターを括りつけた歪んだフェンスの上から、一匹の毛の逆立った白い鳩が飛び立ち、雲ひとつない青空を、まるで青を切り裂くように飛んでいて、とても綺麗だ。


 僕は、地元で三流と名高い県立高校に進学をしていた。その日、登校をするなり、教室の異変に気が付く。え、なに、この重苦しい空気。


 わ、一輪の花を挿した花瓶が、机の上に置かれている。え、まさか、誰か死んだの? え、誰、誰が死んだの? て言うか、これ、僕の机だよね。あれ~、おかしいな~、僕、死んじゃったのかな~。ねえ、ちょっと。ねえ、ちょっと、みんな。……いやーん、クラスメイトが、誰も僕と目を合わせない。話しかけても返事がない。クラスの全員に、完全に無視をされている。


 いじめの原因は、きっと、昨日のあれだ。三限目を終えた休憩時間に、クラスで人気者の二人の男子生徒が、大声で、英語教師の悪口を言っていたのだ。僕は、その話を横で聞く限り、どう考えても男子生徒二人のほうに問題が多く、逆に、英語教師に一切非は無いように思えたので、彼らに向かい、その英語教師を庇護するような発言をした。


「おいおい、テルオちゃん、あの教師のこと庇うのかよ?」


「あいつ、テルオちゃんのこと、いつも害虫扱いしているぜ。人間扱いしていないぜ」


「確かに、そうだ。確かに、ムカつく教師だけど。でも、それはそれ、これはこれさ。今回の件に関しては、お前らが悪い。あの教師は悪くない。僕は、そう思う」


「……あっそ」


「……お前って、いち癪に障るよな」


 それで、クラス内で権力を持つあの二人から、クラス全員に、僕を無視するように、おふれが発令されたのだろう。


 ぶっちゃけ、僕を無視したいのならば、どうぞ気が済むまでしてちょうだい、って感じなんすけどね。でもさ、こうも律儀に無視をされ続けるとさ、人は、いかなる状況でも、人を無視し続けることが出来るのだろうか? ちょくら、実験したくなるよね。


 今日成し得ることは、明日に延ばすなかれ。さっそく、朝一番の英語の授業中に、僕は、おもむろに机の上に立ち上がって、ズボンを脱いでみる。


 案の定、クラスメイトが、一斉に僕を見た。


 ついでに、パンツも脱いでみる。


 そら見たことか、女子生徒たちが、悲鳴を上げた。


 この日、僕は、人は公衆の面前でパンツを脱ぐ者を無視できないという貴重な学習をした。


――――


「笑うな!」


 僕は、薄暗い生徒指導室の隅に立たされ、僕が授業を妨害した英語教師にビンタを張られている。


 教師がビンタをする度に、背広の袖の辺りから強烈なナフタリンのニオイがする。英語教師の後ろで、ワキガの生徒指導の教師が、机に座り、腕を組み、目を閉じて、黙り込んでいる。 


「答えろ! 何故、あんなことをした!」 

 

 ビンタ。


「何故、俺の授業中に、机の上でパンツを脱いだのかと聞いているのだ!」


 ビンタ。


 元はと言えば、あんたを庇ったからだよ。正直にそう言ってやりたかった。しかし、授業中に机の上でパンツを脱ぐに至るまでの経緯を、普段から僕のことをただのウジ虫としか思っていないこの教師に事細かに説明したところで、理解を得るのは土台無理であろうから、黙して語らなかった。


 僕が置かれたこの状況は、誰がどう見ても、笑える状況ではない。でも、どういうあれか、このナフタリンのニオイがぷんぷんする英語教師は、僕が、先ほどから笑っているように見えるらしい。


「笑うな!」ビンタ。


「笑うな!」ビンタ。


「笑うな!」ビンタ。


「……笑っていません」


「あ、また笑った!」ビンタ。


「……こういう顔です」


「だから、笑うなって言っているだろ! このガキ、教師を舐め腐りやがって!」ビンタ。ビンタ。ビンタ。


 口の中が切れた。十円玉をかじったような味がする。口内で溢れた血液が、食道にチョロチョロと流れ込んでいるのが分かる。


 不思議なものだ。ここまで来ると、逆に自分の置かれているこの状況を俯瞰で眺める余裕が生まれ、あまりの情けなさに、本当に笑いが込み上げてきてしまった。


「……ぷぷぷ」


「笑うな!」ビンタ。


「……ぷぷぷ」


「笑うな!」ビンタ。


「……ぷぷぷ」


「笑うな!」ビンタ。


「……あの、すみません。このままでは、笑い死にしてしまいます。死因が笑い過ぎだなんて、僕は、死んでも死にきれません。お願いですから、その、なんとかの一つ覚えみたいに『笑うな!』と繰り返すのを、やめていただけませんか」


 後ろで聞いていたワキガの生徒指導の教師が、突然立ち上がり、僕の頬を力任せに殴り、机に戻り、腕を組み、目を閉じた。


 こいつは、いわゆる熱血教師で、普段から生徒の面倒見が良く、優等生からも、不良生徒からも、人気があった。しかし、少し前の学校謹慎で僕とこの部屋で二人きりになった時に「てめえは、集団生活に向いてねえ。さっさと退学しろ、馬鹿。とっとと働け、クズ。消え去れ、諸悪の権化。俺は、お前を見ていると虫唾が走る」と、はっきり言うような一面もあった。


 僕はすぐにイーッとなる英語教師のことは苦手であったが、この生徒指導の教師のことは、まあまあ好きだっただけに、このような言われ方は、とても残念だった。


 おや、生徒指導室の、建付けの悪い引き戸を、ガタガタとこじ開けようとする者がいる。


 あ、母ちゃんだ。


 母が、少しだけ開いた引き戸から、身をよじるように部屋に入って来た。学校で問題を起こした生徒の保護者として、僕を引き取りに来たのだ。


「すみません、でございます。この度は、毎度毎度、うちの子が――」


 二人の教師に、ぎこちなく頭を下げている。突然の母の登場に、僕は、とても焦った。頼むよ、母ちゃん。頼むから、今日は教師と揉めないでくれよ。母がこうして下手に出て謝罪をするのは、いつも始めのうちだけ。教師の発言に、些細な険でも感じられようものなら、途端にその言葉尻に喰らいつき、最後はいつも激しい舌戦となってしまうのだ。


「……ぷぷぷ」


 ややや、やばい。この期に及んで、笑いが止まらない。母の前で、このややこしい展開。まさに絶体絶命だ。


「ちょっと、テルオ、あんた、なにを笑っているの。笑っている場合じゃないでしょう」


「……ぷぷぷ」


「ちょ、あんた、いい加減にしなさいよ。さすがの私も怒るわよ。ぷぷぷ……」


「……あはは」


「……あはは。やめて本当に。お願い。私まで笑っちゃうから」


「わははははははははは」


「もう無理。わははははははははは」


「だははははははははは」


「苦しい、苦しい、お腹痛い、お腹痛い。だははははははははは」


 親も親なら子も子。血は争えない。ある意味、血統書付き。そんな意味合いの罵声を浴びせられ、僕たちは、生徒指導室から追い払われた。


 教室を出る間際に、英語教師が、母の目の前で、僕の背中を思い切り蹴り飛ばす。激怒した母が、肩に掛けていた鞄で、教師に殴りかかる。室内に逃げた教師は、建付けの悪い引き戸を強引に閉め、ガチャガチャと音を立てて、内側から鍵を掛けた。


――――


 学校から自宅謹慎の処分を下され、家へと帰る道すがら。いつものことだが、母は、僕の存在を忘れているかのように、一人でツカツカと先を歩いて行く。


 十メートルほど先を歩いていた母が、くるりと振り返える。


「そうだ、テルオ。ナイスタイミングよ。ほら見て、市役所が目の前。ねえ、あんた、付き合ってちょうだい。私、これから、父ちゃんと離婚をします」


 白昼の大通りで、母が大声で僕に話しかける。内容が内容だけに、僕は、急いで駆け寄り母の口を塞ぐ。


――――


 半年ほど前から、父が、家に寄り付かなくなっていた。


 無職だった彼を「酒ばかり呑んでいないで、いい加減に働け、この社会不適格者」などと、母と二人で、激しく追い詰めたのが気に入らなかったのかもしれない。


 行方は分からない。何の音沙汰もない。箪笥の引き出しや本棚の隅に放置された小銭を、コソコソとかすめ取りに来ているような気配もない。


 最近になって、見た目の怖い大人たちが、家に訪ねてくるようになった。父がつくった借金の、取り立てにやって来るのだ。その大人たちは、父が、昔つるんでいた強面(こわもて)の人たちとはまた違う、独特の恐ろしさがあった。相手が女や子供でも、顔色ひとつ変えず淡々と命を奪いそうな冷酷な目をしていた。一見して分かりにくいが、会話のイントネーションから、日本人でないことは分かった。


「帰って下さい。ここに本人はいません」と、何度説明をしても、彼らはしつこく訪れた。激しく恫喝などはしないのだが、日増しに遠慮のない行動を取るようになった。先日などは、土足で家の中に上がり込み、押入れや天井裏に、父が潜んでいないか探し回った。訪問を重ねるにつれ、母に馴れ馴れしくなり、母は、さすがに身の危険を感じているようだった。僕は、母が風俗にでも売り飛ばされないか心配になった。


「一刻も早く父ちゃんと離婚をすることだよ。不幸中の幸いにして、母ちゃんは、父ちゃんの借金の保証人ではない。離婚をすれば、父ちゃんとはもう無関係だ。あいつらが、母ちゃんに手を出すことは出来ない。離婚さえすれば、もう安心。一件落着だ。母ちゃん、近いうちに、市役所に行って離婚届を取っておいで。僕が、父ちゃんの代わりに離婚届にサインをするよ。もし父ちゃんが現れたら、事情を話せばいい。先ずは、身の安全。何事も、命あっての物種さ」


 ――と、かねがね僕が提案していたことが、この日、唐突に決行されることになった。


「それぞれが押す印鑑は、恐らく、違う印鑑のほうが、書類上は無難だね」


 近くの文房具店に立ち寄って、同じ苗字の三文判を二つ買い、僕たちは、市役所へ向かい歩き始める。


――――


 市役所へ向かう途中、母が、横断歩道の直前で足を止め、背筋をぴんっと伸ばし、右手を真っ直ぐに上げ、車道を走行する車に、停止を促している。道を横断する時の、彼女の、お決まりの行動パターンだ。

  

 恥ずかしい。僕は、昔から母が人前でこの行動を取ると、羞恥心を覚えた。数時間前、クラスメイトの前でパンツを脱いでも平気だった自分だが、どうやらそういう意図的な演出と、この恥ずかしさは、まったく別ものらしい。


 僕は、これまで、母の日常生活における行動に、いちいち意見をすることはなかったが、今日からは、自分が彼女を守らなければ、という気負いが芽生え、それと同時に、彼女の行動の些細なとこが気になりだし、この時、それとなしに母にアドバイスをした。


「あのね、母ちゃん。大人は、誰も手を上げて横断歩道を渡ったりしないよ。車の通らないタイミングを見計らって、速やかに、ササッと渡るのさ。ほら見てよ。ドライバーたちが、フロントガラスの向こう側で、母ちゃんを見てニヤニヤと笑っているよ。いい歳こいたおばちゃんが、ピカピカの一年生みたいに手を上げて横断歩道の前で突っ立っているのだから、それは誰だって笑ってしまうよ。もちろん、母ちゃんのことを、馬鹿にして笑っているのではなくて、微笑ましくて笑っているのだろうけど。でもね、やっぱりこれはね、今まであえて言わなかったけれど、正直なところ、僕は、一緒にいてとても恥ずかしいよ。ごめんね、気を悪くしないでね」


 一台の車が、母の前で停止をする。続けて対向車や後続車が停止をする。母は、僕のアドバイスなど素知らぬ顔で、背筋をぴんっと伸ばし、右手を真っ直ぐに上げて、行進をするように、横断歩道を渡る。僕は、母の後ろを、少し離れて付いて行く。


 横断歩道を渡り切ると、母は、再度くるりと振り返り、それから、珍しく僕の横を並んで歩き、珍しく自分のことを話した。


「テルオ、私はね、美意識とは、何を美しいと感じるかではなく、何を恥ずかしいと感じるかだと思うの。あなたは、手を上げて横断歩道を渡ることが恥ずかしいのね。そんな私と一緒にいることも恥ずかしいのね。でも、私は、手を上げて横断歩道を渡らないことが恥ずかしいの。恥ずかしくて、恥ずかしくて、たまらないの。どうして大人は手を上げて横断歩道を渡らないの? と質問する子供の私を、当時の大人たちは笑った。大人になって、手を上げて横断歩道を渡たり続ける私を、今の大人たちが笑う。でもね、たった一人、私を笑わない大人がいた。私と一緒に、手を上げて横断歩道を渡ってくれた大人がいたのよ」


「……父ちゃん、だね」


「うん」


 なんだ、これ。キツいぞ。さっきの無思慮な発言を、取り消したい。無かったことにしたい。時間を巻き戻して、生徒指導室の扉の前で英語教師に背中を蹴り飛ばされるあたりから、やり直したい。


「昨日、私は、図書館で猿の図鑑を読んだの。テルオ、知っている? お猿さんの中には、どうしても群れに属することの出来ない『はぐれ猿』というのがいるのだって。なるほど、父ちゃんと私って、人間の、はぐれ猿だ。しみじみと、そう思った次第です。でも、安心しなさい。見たところ、あんたは、はぐれ猿ではない。今日だって、授業中に教室でパンツを脱いだか何だか知らないけれど、しょせん、あんたのそれは、はぐれているふり。あんたは若いから、若さゆえの、ねじくれた心で、無理をして、無茶をして、ヤケになって、わざとはぐれているフリをしているだけ。あんたは、いずれ群れに戻る猿。私や、父ちゃんとは、違う猿」


 ウッキー。ウホウホ。母は、両手を頭の上と顎の下でコチョコチョさせながら、猿の形態模写をした。


「あんたは、私たちに似ず、頭が良いのだから、たくさん本を読んで、いっぱい勉強をして、そしていつか、手を上げて横断歩道を渡らない、そんな立派な大人になりなさい」


 しばらく、母を、まともに見ることが出来なかった。


 市役所の市民課で、離婚届を入手する。向こうが透けて見えるような薄っぺらな紙だった。喫茶店でコーヒーを飲みながら、僕が、夫の欄に父の名前を書き、母が、妻の欄に自分の名前を書いた。その後、それぞれ押印をする。僕と行方不明の姉の親権は、母が取った。市民課に戻り、離婚届を提出する。こうして、父と母の離婚が成立した。


――――


 十六歳の時、離婚届にサインをした。相手は、実の母だった。


 そう、僕は、父の代筆をしたのだ。


 正しい家族のカタチを僕は知らない。それを意識した時に、それはもう破損していたから。それでも、かろうじて、恐らくこれが家族の残骸ではないかとおぼしき破片が、時として家の中に転がっていた記憶もある。だか、そんな貴重な破片すら、僕が母に提案した姑息な偽造により、この日、市役所市民課の受付にて、木っ端みじんに砕け散った。


 市役所からの帰り道。僕の先を歩く母が、また背筋をぴんっと伸ばし、右手を真っ直ぐに上げて、横断歩道を行進している。


 この時、僕は、小走りで母の後方に追いつき、試しに、母と一緒に、背筋をぴんっと伸ばし、手を上げて横断歩道を渡ってみた。ニカッ。これでもかと不自然な笑顔で横断歩道を渡ってみたのだ。


 はたと納得。「ここだ! 僕ならここにいるぞ!」と声なき声を張り上げている気分。


 四十を過ぎたおばちゃんと、学ラン姿の高校生が、空に手を突き上げ、足並みを揃えて、横断歩道をツッタカタッタと行進する。


 とある春の真夏日、僕は、母と一緒に、世間を横断した。

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