綴り書き 参ノ壱拾弐

 深い傷を負ったヴィオラの身体はやはり回復していない。弱々しく頷くヴィオラ。ベニトを抱きしめたベルも大きく頷いた。曇天は小さく息を吐いて、改めて宝石を眺める。しかし壊し方は分からない。ヨウムが炎弾を当てたり、嘴で突いたりしてみるも、澄んだ青い宝石はただ凛と輝いていた。


「オレがどうにかしようとしてもダメっぽいな。そういや曇天。鏡覗いた時、お前の懐光ってなかったか? すぐ消えちまったけど」


 ヨウムの言葉に懐を探ると、アンドレアルフスの世界で拾った鏡の欠片をずっと持っていたことを思い出した。自身の捕らわれた浜辺でベルを刺してしまったあの欠片だ。


「……すみません。青人さん」


 懐から取り出した鏡の欠片を左手で握り込んだ曇天は、右手を添えて中心を一突きする。あんなに硬かった宝石は思いのほかあっさりと砕け、一糸纏わぬ姿の青人が現れる。


「どうしてコイツはまた服着てねぇんだろうな」

「流石に魂状態の身体に服を纏うのは難しいのでは?」


 ゆっくりと開いた青人の瞳の色は紅色。曇天とヨウムを確認すると、再び刃を向けんと水球を飛ばす。気が付いたヴィオラは、ベルとベニトへ体当たりをして、曇天たちの方へ二人を寄越し、拘束を解こうと暴れる青人(紅人)を抱きしめる。


 ベルとベニトを支えたものの、細い身体故にバランスを崩してしまった曇天が扉へぶつかると、持っていた鏡の欠片が扉へと吸い込まれ、欠けていた取っ手と鍵穴の部分が修復され始めた。


「ちっ! そうはさせないわヨ!」


 いつの間に目覚めたのか、アンドレアルフスが扉へと光球を飛ばすと、現れた扉が消え始める。あろうことか鍵穴から消え始めたのだ。鍵は青人の足元。青人が鍵を拾い上げようとしたその瞬間、どこからともなく現れた海影が鍵を奪い取り、曇天へと投げ寄越す。


 曇天が鍵を受け取ると、海影の姿はヴェパルへと変わり、アンドレアルフスの光を水鏡で反射して返す。光球の勢いが強く、ヴェパルの鏡にはひびが入り始めていた。


「早く行きなさい!」


 ヴェパルに促され、曇天が鍵穴へ鍵を差し込むと、後方の世界が端からゆっくりと崩れていく。消えゆく母親と父親の姿へ不安げに手を伸ばすベル。ヴィオラは首を振り、柔らかく微笑んだ。


「大丈夫よベル。貴方はもう素敵なレディなんだから。ベニトをお願いね。今は私がこの人を連れて行くけれど、きっとまた二人で会いに行くから」


 尚も正気を取り戻せていないのか、暴れ続ける青人を抑え込んで、曇天とヨウムへ一礼する。世界が消え去る瞬間、アンドレアルフスが曇天とヨウムを睨みつけ、そして微笑む。続いてウィンクをしながら投げキスを寄越した。恐らくアンドレアルフスからの宣戦布告。再会を示唆するジェスチャーなのだろう。


 完全に戻った静寂は、扉の向こう側へ誘う。扉の先は青人が落ちた底なし沼の真上だった。曇天とベル。ベルが抱いているベニトを背中へ乗せて、底なし沼上空で一度旋回したヨウムは躊躇う。空にヒビが入り、消えたはずの扉をこじ開けようとしているのか、鈍い音が響き、チカチカと出現したり、消えたりを繰り返す扉の端がパラパラと欠け始めていた。


「出口はきっとこの先だと思います。ピィちゃん。覚悟を決めてください」

「本当にいいのか!? どうなってもしんねぇぞ? この先がオレらの居た場所に繋がってるって保障なんてねぇんだからなっ!」


 底なし沼を指差し、無言でヨウムを見つめる曇天と不安げな表情のベル。ベルの腕の中のベニトは、状況を飲み込めていないのか、楽しそうに瞳を輝かせて手を叩いていた。三人の視線がヨウムへと注がれる。注がれた視線たちに居心地が悪くなったのか、ヨウムは深呼吸をして。


「だ――――っ! わぁ――ったよっ!」


 底なし沼へと飛び込んだ。不安を煽られる暗闇だけの空間が続く。落ちているのか進んでいるのかも分からない。方向感覚がおかしくなる浮遊感。底なし沼の中のはずなのに、纏わりつく泥もなく、呼吸がし辛いということもなかった。


 辿り着いた先は、波止場の祠の傍ら。洞窟前の浜辺だった。空はほんのり白み、八百山の間から光が差し始めている。潮の香りを運ぶ潮風、足元に当たる水は冷たく、砂浜に置いた掌は少し痛い。


「戻って来た……のか?」


 ヨウムの言葉に顔を見合わせる。不意に競り上がって来た高波が、曇天とヨウムの頭上から降り注いで、底なし沼の泥を洗い流した。唇へ触れた水は塩辛く、ほんの少しの苦みを伴う。


「どうやらそのようです。先程の海水に塩味を感じていれば間違いありませんよ」


 一緒に戻ったはずのベルとベニトの姿が見当たらない。肩をプルプルと震わせて、両の翼をヨウムが勢いよく伸ばして伸び上がる。

 

「………………っしゃ――――――っ!」

「ふぉぎゃ――ふぎゃあぁぁぁん!」

 

 ヨウムは雄叫びを上げた。その声に驚いてしまったのか、赤子が泣き出す。曇天とヨウムが声の方へと向かうと、海辺の岩の上に座るベル。泣き出してしまったベニトを慌ててあやしていた。見ていた曇天は微笑む。


「ここは今、危ないですから立ち入り禁止ですよ」


 通り掛かった漁師だろうか。曇天とヨウムへ近づいて来た船が波止場へと停まり、下りて来た二十代前半の男が声を掛ける。

 

「すみません。僕たちが乗って来た観光船がこの島を通り掛かった時に難破してしまって……三日ほど助けを待っていたのですが現れず。このように帰れていないんです……よろしければ僕たちを乗せて頂けませんか?」


 洞窟脇の難破船を視線で指して、曇天は申し訳なさそうに男へと言葉を返した。ベルの下半身は尾ひれになっており、その姿を隠すようにベルは岩陰へと隠れて様子を窺っている。


「それはお困りでしょう。分かりました。船長に聞いてみますね」


 男が船内へと戻って行く。そのタイミングで曇天は、ベルとベニトへと視線を戻した。ベルの尾ひれが人間の足へと戻れば一緒に船へ乗れるかもしれない。だが、ベルの尾ひれと身体は僅かに薄くなってきており、それが何を意味するのかは曇天には分かっていた。


「嬢ちゃんその足……」

「うん。私は一緒に行けないみたい……長くあっちへ居すぎたからかな?」


 ヨウムの言葉を肯定し、哀しいというよりは、寂し気に微笑むベル。曇天へとベニトを手渡して、そのまま曇天を抱きしめた。


「私……貴方が好きだったよ。この世界に帰してくれてありがとう」


 耳元で小さく囁いて、そっと頬へ唇を寄せたベルは離れる。言葉の意味を思考するように考え込んだ曇天は、動きを止めて瞬いた。微笑んだベルの姿は、そのまま海の風へ攫われて消える。

 

「おぎゃあおぎゃあ――ふぇ――ん!」


 突然泣き出したベニトが、腕の中から自ら海へ飛び込んだ。慌てて腕を伸ばす曇天と、引き戻そうと追い掛けたヨウムをすり抜けて、小さな手が消えかけたベルを引き戻す。人魚は総じて怪力なのか、銀髪で、紅と碧のオッドアイを持つ十歳位の少年が、ぐったりとしているベルを腕に抱えていた。


 「この度は、姉と俺を現実の世界へ連れ戻してくださりありがとうございました。衰弱が激しく、今回姉は一緒には行けません。なので、海底宮のヴェパル様へ、姉が回復する方法を相談してみようと思います。いつになるかは分かりませんが、必ず。姉と二人でお礼へ伺います」


 言葉を失い、状況を飲み込むのに時間が掛っている曇天とヨウムへと、年齢にそぐわない所作で礼を述べる少年。凛とした佇まいは大人びているが、微笑む表情は柔和で。青人の面影も漂う。


「人魚の成長は早いとお聞きしていましたが……」

「いやっ! 流石に早過ぎんだろっ!」


 困惑する曇天とヨウムを横目に、再度一礼したベニトは、ベルと海の中へと戻って行った。静寂と波の音だけが浜辺に残る。


「大丈夫だそうです。乗船はお一人ですか?」

「はい」

「おい。曇天! オレは!?」

「わあ。お喋りが上手なインコさんですね」

「ペットはノーカウントでは?」

「お、オレはペットじゃねぇぇぇぇ!」


 賑やかな声が響くしばしの船旅。若い漁師にはもう直ぐ子どもが生まれるそうで、「男の子なんです」と、幸せそうに微笑んでいた。昼過ぎに辿り着いた天桜市の漁港へは漁師の家族も出迎えに来ていた。


「パパ!」

「お帰りなさい。無事でよかった。今回も、長い船旅お疲れ様」

「体調は大丈夫かい?」

「ええ。もう直ぐ会えるわね」


 母親に手を引かれていた小さな女の子が、若い男へと飛びついて頬擦りする。ふくよかなお腹の漁師の妻は、少し遅れて男の元へと歩み寄る。二人を抱きしめて、漁師の男は照れ臭そうに微笑んだ。


「元気なお子さんが生まれるといいですね。船に乗せて頂きありがとうございました」


 愛おしそうに腹部を撫でる漁師の妻の女性と漁師へ、自分から礼を告げる曇天の行動に驚いたように目を見開いて、足早に立ち去る曇天を追い掛けるピィちゃん。その瞳が少し揺らいでいるのをヨウムは見逃さなかった。



 ――――31――――

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