綴り書き 参ノ六
『大勢の人魚を犠牲にした呪いかもしれないな……』
人魚たちの血で紅く染め上げられた赤鬼のような姿を鏡で見てしまったその日を境に、青人は自身が食べるのを諦めた。川で身を清めてから島の果物や山菜、魚や野生動物を浜辺の洞窟へ捧げ、海の女神へと許しを請う日々を過ごしていた。いつの間にか人魚の悪夢は見なくなっていて、少しずつ、食べ物や飲み物への味覚が戻って来ている。髪色は紅いままだが、瞳の色は碧眼へと戻っている。心身の回復と比例して、青人の海神信仰は益々厚くなっていく。
ある日、いつも通り浜辺の洞窟へ捧げ物を持っていくと、洞窟の入り口に美しい女が座っていた。上半身は人間。下半身は魚。よく知る人魚の居住まいだが、妖艶なその人魚は神々しく、膝を折って深く礼をした青人は、彼女を海の女神だと確信した。
「私の領域を沢山荒らしてくれていたみたいだけど、すっかり心を入れ替えたみたいね? でも、捧げものと祈りって……人間がする事はなんて愚かで愛おしいんでしょう。こういうのは天使の領分だけど、ちょっと面白そうだから真似してみようかしら」
好奇心旺盛なアメジストの瞳が悪戯っぽく細められる。
「我が名は海の女神八百比丘尼。信心深いアオト。主に許すための試練を与えよう。これは主と縁浅からぬ卵だ。この卵を無事孵してみせよ。主の心が邪ならば、この卵は化け物と化し、御霊ごと主を滅ぼす。しかし、主の心が本当に改心しておれば、我と海は主を許し、永遠の孤独とは無縁な日々を約束してやろう……ふふっ。上手に出来たかしら?」
それだけ伝えると、踵を返して海へと飛び込んだ女神は、尾ひれで海面を強く蹴り、水しぶきを上げて海中へと消えていった。
「絵本と同じ……と、いうか、あれは恐らくヴェパルさん。ですよね?」
「ああ。キッカケは、面白そうな元人間の男を好奇心から見に来たヴェパルの悪戯心だったのネ。ま、お陰でアタシはやりやすかったから、ヴェパルには感謝しないと♡」
受け取った卵を眺めながら青人は思案する。何が孵るのかは分からないが、永遠の孤独と無縁な日々という言葉にひどく心惹かれた。 しかし、長生きはしているものの、子育てなどをする機会などなく、青人は浜辺に座り込む。海を見詰めて途方にくれてしまっているようだ。
「そろそろアタシの出番ヨ♡」
口元をにんまりとあげ、両手を組んで頬に当てたアンドレアルフスは楽し気に手を打ちながら、曇天の視線を海へと促す。ゆらゆらと揺れる黒い影が青人へと近付き、ザバリと海面を持ち上げて、海藻の塊が立ち上がった。
「ん、もう! ヴェパルったら。面白いオモチャを見付けたっていうからついて来たのに、途中で振り落とすんだモン。ひどいわァ~! アラ?」
その、おぞましい姿が、海面から現れると、青人と曇天が同時に身を竦めた。
「海の……魔女?」
身体に絡んだ海藻がカーテンのようになり、顔は確認出来ないが、大柄でがっちりした体型がより不気味さを際立たせている。
「魔女の花……って、そういうことだったんですね」
「そうヨ。魔女の花♡ 妖艶で美しくてミステリアスなアタシにピッタリでしょ?」
面倒くさくなったのか、曇天は肯定も否定もせず、アンドレアルフスの言葉を聞き流した。
「そこのアナタ。何かお困りのようね? って、卵は叩き割っても孵らないわヨっ!」
青人は、どうにもこうにも育て方の分からない卵を地面に叩きつけて孵そうとしていたのだ。青人のポンコツの片鱗が見えたような気がした。
「ここに居るのに、あちらにも貴方が居るのは不思議な感じがしますね」
「あら。そお? けど、ここの王はアタシだもの。何人にも増やせるわヨ♡」
「それは……暑苦しそうなので遠慮します」
「まあ、相変わらずの辛辣……でも何かシラこのカンジ……癖になっちゃいソ♡」
「気色悪いのでやめてください」
すっぱりと言い切る曇天。曇天は相変わらず曇天なのだった。
「一度絶望に落ちた人間はね、とっても扱いやすいの♡ 絶望の中の光の魅力にヒトは抗えないもの。そこに悪魔はエサを撒く。その人間が一番欲しているものをチラつかせて誘惑して、少しずつ甘い蜜を吸わせながら時間を掛けて熟成させて。それから最高の調理をするの。アタシたち悪魔ってとっても美食家なんだかラ♡ 一番美味しくなったところをパクリ。これが一番の快楽なのヨ」
うっとりと講釈を垂れながら、自分たちの食事について語る様は活き活きとしている。本能のまま、誰に憚りもなく三大欲求を満たすことを謳歌する悪魔たち。言動や感情にも悪びれない。人間の目指すところの自由とは、秩序云々はさておき、最終的にそういうことなのかもしれない。
さて、青人の世界はもう少し続く。アンドレアルフスに助言を受けながら、子育て(卵育て?)をしていた青人は、世の親がそうなってしまうのと同じように、口調や言動の角がだんだんと取れ穏やかになっていった。アンドレアルフスの精神浸食により、絶望の淵に居たあの頃の記憶は薄れ、表の人格は入れ替わっていた。
「アオト! やっとだ! やっとアンタの元に戻って来れた!」
「……ヴァイオレットなの、か?」
卵が孵ったその日、殻を破って青人の腕に飛び込んで来たのは最愛のアメジストを持つ人魚。青人は震える腕で、彼女の存在を確かめるようにその背へ怖々と手を回す。
「アンタと無理やり引き剥がされたあの日、アタシたちの船は沈んだ。けど、やっぱりアタシはどうしてもアンタのところに戻りたくってさ……海の女神にお願いしたんだ。アオトの元に戻りたい。アオトと一緒の歳月を生きたいって。そしたら、叶えてくれたんだ。アタシの大事なモンと引き換えに願いを叶えてやるって」
「レイとスタンは?」
青人の問い掛けに、人魚はゆっくりと首を横に振る。複雑な思いを抱きながら、青人はそうかと一言だけ呟いた。その日は二人きりで再会の宴を開き、盃を交わして、結び合って眠りにつく。目が覚めたヴァイオレットは、青人への想いだけを残して、全ての記憶を失っていた。
「……大丈夫。私だけが覚えていればいい。ヴィオラ。ヴィー。愛してるよ」
心の澱をじわじわと溜め込み、解離した人格の暴走の機を待つ。これこそがアンドレアルフスの筋書きだったのだろう。海神信仰に浸かり切った青人が気付けるはずもなく、無意識下の傀儡。卵が孵る頃にはすっかり、ポンコツで気性の穏やかなホテル支配人青人が出来上がっていた。
結ばれた二人は、長命の種族の利を活かし、移民を受け入れ、ライフラインや地域システム、農業や公共事業を整備した。リゾート開発や名産品の開発へも着手し、八百姫村の観光地としての知名度にも貢献する。抜群のビジュアルと、穏やかで気遣いの出来る気性は人々の信奉、人望を集めるのにも役立った。
八百比丘尼の宣言通り。孤独とは無縁。家族にも恵まれ、幸せの絶頂だった二人を襲ったのは、あの、心の澱。本来の主人格。紅人(仮)の暴走だった。様子が変わり、青人に成り代わって好き勝手をする紅人。それを弟だと刷り込んだのはきっとアンドレアルフスだろう。本来弟と呼ばれるはずだったのは、後から生まれた人格の青人(仮)だったはずだ。
全てを滅ぼす津波も効果はなく、娘を助けたかったヴェパルとヴィオラのノアの箱舟を模した計画も失敗する。良心を蝕んでアンドレアルフスの手の中で踊る紅人は悪魔に堕ち、気付かず蝕まれ続けていた青人を取り込んで、皮肉にも一つの人格へと戻ってしまった。信頼する人間に騙されてしまった哀れな人魚の自暴自棄が引き起こした人魚の呪い騒動。それがこの村の人魚伝説の顛末だ。
「長いこと付き合ってみましたが……実にくだらないですね。同情はしますが共感は出来ません。心を寄せると碌なことにならない。僕の中で結論は変わりません。ただ……」
心の変化を上手く言葉に出来ず、曇天は口を噤んだ。言葉の先は紡がない。
――――25――――
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