綴り書き 弐ノ壱拾弐

 面倒ごとは厭うが、今更だ。一つ息を付いて、曇天はそのシルエットへと近付いて声を掛ける。


「どうかされました?」

「曇天さんっ!」


 パッと顔を上げた女性は曇天に気が付くと、安堵したように微笑んで抱きついた。柔らかく細い身体。身長は曇天の15センチほど低い。


 大きなアメジスト色の瞳に長く艶やかな黒髪。悪魔ヴェパルの面影を僅かに残す美しい少女。否。


「ベルさん?」


 目の前の女性は20代前半。その少女が成長した姿をしていた。夜空から見下ろす天頂の満月。ああ。と、瞬時に状況を理解して、曇天は頷いた。


「良かった。気が付いたらここに居て、ベル一人ぼっちで……」

「貴方もなんですね」

「すごく不安だったの。でも、曇天さんが来てくれたからもう大丈夫。私を見付けてくれて嬉しい」


 涙を拭うベル。その仕草が美しいと思った。


「パパたちどこに行っちゃったんだろう……海影も……早く見つけなきゃ」

「もうタイムリミットかもしれませんよ? 出口がありそうには見えませんし」


 満月を見上げて指を指す曇天。ベルも満月を見上げ、自身の身体を確認する。そして、諦めたように微笑んだ。


「そっか……そうだったね。パパは目の前で……紅パパの所に戻るのは嫌だな……お風呂で健康診断されるんだもん……私の鱗を剥いで、長い管で沢山血を抜くの。大きくなったら奥の方も診るんだって。いつもとっても痛いのに、嫌だって言ったらぶたれちゃうの。ベル大きくなっちゃったからきっともっと痛いことされちゃう……」


 身体を強張らせ、小刻みに震えるベル。顔は青白く、乾燥した唇がカタカタと鳴らされる。


「そんなに嫌ならば逃げてしまえばいいのでは?」

「逃げられないよ。紅パパの小鳥さんたちがいつも私を見てるんだから」


 微苦笑して首を横に振ったベル。そのアメジストには諦めの色も浮かぶ。曇天から離れ、数歩歩いて満月を見上げたベルは少しの間の後に振り返る。


 月光に照らされた彼女は、柔らかく微笑んで、そして悪戯めいて首を傾げた。


「ねぇ。曇天さん。いっそこのまま……ここで二人だけで暮らしちゃおうか? ここはなんだか心地がいいし、お腹も空かない。面倒なことはぜーんぶしなくていいし、ずっとだらだらしていても、誰も文句は言わないよ。ここには私と曇天さんしか居ないんだもん……みんな居なくなっちゃったし、ね……」

「そうですね……それもいいかもしれません……色々あり過ぎて、なんだか僕も疲れてしまいましたから……」


 泣き出しそうな笑顔を浮かべるベル。なんとなくほっとけなくて曇天は頷き砂を踏みしめた。


「ど……して……?」


 距離があったはずなのに、いつの間にか曇天はベルを抱きしめていた。その身体が柔肌を貫いていて、生ぬるい返り血が半身と左手を濡らし、月明かりに艶めかしい紅色が煌めいていた。


 …………ドサッ。


 左手に握られていたのはシースナイフ程も大きさのある鏡の欠片。月明かりの下スローモーションのように崩れ落ちて地に伏すベルの身体。


 鏡の欠片から滴り落ちる鮮血と、冷凍庫の人魚のように恨みがましく見上げられたアメジスト。紅を浴びて治っていく火傷跡が夢ではないぞと曇天を嘲笑う。


『壊す方が得意でしょ?』

『そうやって逃げ続けて来たツケだろっ!』

『お前、オレの気持ちとか考えたことねぇんだろっ! 結局お前は何も信用してねぇんだっ! オレのことだって……』


 否定できなかった言葉たちが足元の深淵から曇天に手を伸ばし、引きずり込もうと口を開ける。


「ッッ!?」


 抗うように、振り払うように、曇天は思わず駆け出していた。躓き転んだ口の中に苦い砂粒を噛みしめると、鉄の味と不快感が口の中を犯す。


 砂漠の流砂のように、突然砂浜が抜けて、惨めに転がる曇天の身体を重力が持っていかんと暴れ出す。


 必死で掴んだ一握の砂。左手に残る赤黒い煌めきを覆うようにくっ付いたその砂は混じり合って紅に染まっていく。


「あっあっ……うっ……うわぁぁぁぁぁ!」


 滅茶苦茶になった感情の所在をどうすることも出来ず、柄にもなく泣き叫び、無意識に抗っていた。ふと流砂が止まる。曇天は砂浜に跪いていた。


 俯く曇天の目の前に、夢人魚の像前で撮った写真がひらりと舞い降りた。ホテルで現像して貰ったものだ。


 思わず曇天はいつものヨウムの指定席を触る。柔らかい感触はなんとなく心を落ち着かせる効果があるようだった。


「ううっ……つ……うっ。ぐすっ……」


 砂浜にポツポツと黒いシミが浮かび、写真を濡らす。上を見上げた曇天は、そこでようやく自分が泣いていることに気が付いた。


 一度幼くなってしまったからか、せき止められない涙は堤防が決壊したかのように溢れ出す。


 図体は大人だ。少し冷静になった頭では誰もいないこの場所でも、大声で泣くのは憚られた。なので咽び泣く。


 心の内は子どものように頼りない不安で満ちていた。拾い上げた写真。頭上でポーズを決めるピィちゃんの姿は薄くなりかけている。

 

『お前が抗うなんて珍しいじゃねぇか。やっぱオレと一緒に居てぇんだろ? 本当はさ』

「そんな馬鹿なことあるわけ……」


 なんとなくムカつくドヤ顔と悪戯そうな笑み。そんないつものやり取りが聞こえて来たような気がして、ふと懐かしさを覚えた。


 迷惑な時もあるが、曇天もまた、ピィちゃんと色々と巻き込まれることが嫌いでは無かったのを思い出した。


「……言うと調子に乗りそうで癪ですが。まあ、伝えた時の顔を拝むのも面白いかもしれませんね」


 写真と鏡の欠片を握り、内ポケットへと仕舞う。立ち上がった曇天は砂埃を払い、浜辺を再度見渡した。


「間に合うかどうかは疑問なんですよね。さて、僕は足掻くべきか諦めるべきなのか……」


『でもな、オレはお前を信じ続けるぞ。相棒だからな』


 浮かんだのは水晶の破片となってしまう直前のピィちゃんとの会話。左手にこびり付いていた紅色はいつの間にか消えていた。左手を眺め、曇天は考え込む。


「……はあ。あのお節介極まりない悪魔に言わせれば、諦めるなんて言葉は辞書には存在しないのでしょうね。僕には到底理解できませんが。仕方がない。世話の掛かる相棒を探しに行きますか」


 そこまで言ってはたと動きを止める曇天。


「いや、お世話になっているのは僕ですね……お世話係を見付けにいきましょう。なんせ、怠惰な僕は手が掛かる。彼以外に僕の怠惰へ付き合える相手も居ないですから仕方ありません」


 相変わらずの調子に戻り、この世界からの突破口を探し始めた。手がかかりは今のところ見付からない。


「そういえば……」


『アイツの能力は精神の弱いとこに働きかけて病ませるものだしな。現実には干渉出来ねぇが、精神世界でなら無敵に近いと思うぜ』


 ヨウムの言葉を思い出した曇天は。ベルを刺した場所へと戻った。転がるベルの遺体を今度は冷静に観察してみた。


 恨みがましく見開かれた瞳を撫でて瞼を閉ざさせる。自分の死は厭わないが、人が死ぬのは気分が悪いと改めて思い知る。


「この光景が僕の深層心理を体現し、精神攻撃を受けているのだと仮定すれば……精神の大樹もどこかにあるのかもしれませんね」


 人の精神は一本の大樹を通してそれぞれの心の奥深く、深層心理で繋がっているというとある本の一説と大樹の図解を思い出してベルの死について考える。


「見つかったら一番ピィちゃんへの近道でしょうね。となると、ベルさんの死を一番望んでいそうな人物は……」


 愛しているから生きていて欲しい。助けたいと願う両親と従者。利用価値があるから生かしておきたい紅人。情に厚く悪魔らしさの欠片もないピィちゃんは絶対にあり得ないだろう。長く一緒に居るからこそそれはよく分かる。


「まあ。手駒が増えて一番得をするのはアンドレアルフスでしょうね。皆の弱点を付けば蹂躙されて恐らく総崩れでしょうし。あれこれ面倒な手順を踏むよりも楽だ。僕が彼の立場だとしてもそれを選ぶ」


 それに、自身なんかはピィちゃんの弱点としても最適解かもしれない。曇天はヨウムの力を取り戻すためにも必要な存在だ。派手な彼はヨウムを疎んじているようだった。


「だとしたらここは手駒を作るための舞台装置といったところでしょうね……どうにも気分が悪いな」


 曇天は低い声でボソリと呟く。利用するのは楽しいが、されるのは非常に気分が悪い。自分のモノを好き放題されるのも面白くなかった。


「……お仕置きを始めましょう」


 自分の中で何かがプツリと切れて、ほくそ笑む。だが一人では力不足だ。


「まあ。怖いカオ」


 その時聞こえた声に僅か肩を震わせて振り返る。そこには月夜に浮かび上がる華美を体現した人物。アンドレアルフスだ。


「そろそろ折れちゃったと思ったのに、参謀ボウヤはまだまだ凛としてるのねぇ」


 猫背の自分を指して凛としているとは妙な言い回しだ。

 


 ――――19――――

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