第12話 世界で一番嫌な女

 ファジュルたちに作戦の半分を任せ、シャムスは城に戻った。


 隠し通路のあるクローゼットの側には、青い顔をしたナジャーが待っていた。ナジャーはシャムスの姿を見た途端、その場に座り込んで泣きだしてしまう。


「姫様! ああ、姫様。無事に帰ってきてくださってよかった。姫様の身に何かあったらナジャーは……ううううぅ。なぜそのようにススだらけになっているのです」

「ご、ごめんなさいナジャー。泣かないで。ちょっと消火活動を手伝っていて……」


 ナジャーは寝ずにシャムスの帰りを待っていたんだろう。目の下のクマが濃い。ここまで心配させてしまって、申し訳なくてシャムスは頭があげられなかった。


「宴までには戻るという約束でしたのに。誘拐犯にでも連れ去られたのかと心配していたんですよ。それをまさか消火活動に加わっていたなんて」

「ごめんなさい。火事を消すのが最優先だと思ったものだから。……お父様には内緒にしておいてくれないかしら」

「言えるはずがありません」


 父に正直に話したところで、『夢でも見たんだろう』と笑われて終わるのは目に見えていた。


「明るいうちに戻ってきてくださって良かった。まだ日が高いですから、湯浴みをなさってください。その姿で宴に出たら、陛下が卒倒しますよ」

「お父様が泡を吹いて倒れる姿、ちょっと見てみたいわ」

「冗談はいいですから。さ、お召し物を用意しますので、姫様は先に湯殿ハマムに」


 イズティハルでは、夜になると浴場に妖精ジンが出ると言い伝えられている。だから明るいうちに入ってくれと、ナジャーが急かした。




 シャムスは汚れたドレスを脱ぎ、寝室から続いているシャムス専用の湯殿に入る。

 石造りで広く、中央に貯水の湯槽がある。

 水面からは湯気がたちのぼっていて、シャムスがいつ戻ってきてもいいようにしてあったんだとわかる。

 どれほど自分が恵まれているのか、改めて認識した。

 スラムの人たちは、1カ月に一日ですらお風呂に入れていないだろうから。


「姫様、湯に浸かる前にススを落としましょう」


 ナジャーが常のように蒸した布でシャムスの背を拭こうとする。シャムスはそれを手で制した。


「どうなさいましたか」

「……自分でできることは、自分でしてみたいの」


 シャムスが命令せずとも、いつも誰かが背を流してくれて、着替えを持ってきてくれる。入浴も着替えも食事も、シャムスに良いよう準備される。

 ファジュルは、召使いの一人すらいない中で生きてきたのに。


 ファジュルに対して引け目を感じている……というよりは、シャムスも自分の足で立つべきではないのかと思ったのだ。

 そうしないと対等になれないような気がした。


「姫様が望まれるのでしたら。力を入れ過ぎると肌が傷ついてしまいますので、ゆっくり優しく、ですよ」

「わかったわ」


 ナジャーは、シャムスに蒸した柔らかな布を渡してくれる。ローズオイルで作られた石鹸がすり込まれていて、優しい香りがする。


 傷に触れないよう慎重に腕を拭うけれど、力の入れ方が下手なのかあまりきれいにはならない。

 困っていると、結局ナジャーがやってくれた。

 湯浴みすら一人でできないことに気づいてしまい、情けなくなる。


「自分でするなんて、いつもはそのようなことをおっしゃらないのに。どういう心境の変化ですか?」

「…………スラムで、ラシードを見つけたの。従兄のファジュルとも会えたわ」


 シャムスの背を流すナジャーの手が、一瞬止まった。


「ラシードと?」

「ええ。彼らと話をして、わたくし、自分がどれだけ甘い考えで生きてきたのか気づいてしまったの。貴女の言うとおりとても立派な方ね、貴女の良人おっとは」

「ええ。あの人の妻であることが、わたしの誇りです」


 ナジャーは生まれてからずっとシャムスのそばにいた。

 いつも穏やかに笑っているけれど、今日、これまでシャムスが見てきた中で一番幸せそうに笑った。


 湯から上がり、髪と肌に香油を塗ってもらい、宴用のドレスに着替える。火傷が見えないよう、ナジャーが袖の長いものを選んでくれた。首元にはシルクのストールを巻く。


 汚れたドレスは隠し通路の中に忍ばせた。

 ススが繊維の隙間に入ってしまっていて、洗っても落とせないくらい黒く汚れてしまっている。

 シャムスはこういうものをどこに捨てればいいか知らない。代わりにナジャーに頼むにしても、捨てるところを誰かに見られたら、シャムスがスラムに行ったことを説明しなければならなくなる。

 連鎖してナジャーがシャムスのお忍びを見逃したこともバレてしまう。

 王族用の脱出用通路に隠す以外の方法が浮かばなかった。


 宴に向かう前に、シャムスは誰も私室の近くにいないのを確認してから、ナジャーに計画のことを打ち明ける。


 スラムにいる仲間たちがシャヒドの悪評を流し、ナジャーが姫の乳母に相応しくないとまわりに思わせる。

 噂を信じたふりをして、シャムスがナジャーを解任する。

 その後はスラムにいるファジュル達と合流してほしい。


 シャムスが語る計画を、ナジャーは一度も口を挟まず黙って聞いた。

 話を終え、シャムスはナジャーの両手を取って謝る。

 

「ナジャー、ごめんなさい。わたくし、貴女にひどいことを言わなければならないわ。わたくしが宴で口にすることは、本意でないことを知っておいてほしいの」


 シャムスの手を握り返し、ナジャーは静かに微笑む。


「噂は、もう城で働いている者のほとんどが知っているのでしょう。ここに来るまで、みんな私を見るなり逃げていくので、何事かと思っていました」

「もう城にまで噂が広まっているのね」


 ならば噂話を知っている侍女の誰かと接触して、誰かがシャムスに噂話を聞かせたという前提を作らないと。

 向こうから話を振ってくるよう仕向ける。


「ナジャー。わたくし、お腹が空いたわ。宴の前に何か軽くつまめるものを持ってくるよう侍女に伝えて」

「かしこまりました」


 ナジャーが下がり、すぐに侍女たちが食べ物を運んできた。

 皿に盛られているのは干した完熟デーツ。デーツで淹れたお茶も添えてある。


 体調を崩して寝ていたことにしてあるから、滋養強壮の効果があるデーツを選んだのだろう。

 お茶に銀のスプーンを差し込んで何も・・ないことを確認して、口をつける。



 デーツをつまみ、口の軽い侍女に問いかける。

 この人はとても噂好きで、誰々の娘が駆け落ちしただの、兵の誰々が嫁に逃げられただの、シャムスが聞いてもいないのに話してくれる。噂を知らないわけがないとふむ。


「ねえ貴女。わたくし、昨日は具合が良くなくて寝ていたから、退屈しているの。面白い話を聞かせて」

「面白い話でございますか」


 侍女はシャムスの顔色をうかがい、小声で話す。


「ここだけの話ですよ、姫様。昨日姫様が寝込んでいる間に、スラムで火事があったのです。その火事の原因は、ナジャーの息子。彼が火を放ったそうです。その男、城の兵で、つい一昨日まで普通に城の警備をしていたんですよ」

「まあ、怖い。一歩間違えば城に火をつけていたかもしれないのね」

  

 シャムスは大げさなくらい怯え、初めて聞いたようなふりをする。


「それにナジャーの夫も、先王様を手にかけた極悪人なのです。なぜ陛下がナジャーを乳母として重用しているのか、ずっと疑問でした。もしかして昨日姫様が調子を崩されていたのも、ナジャーが何かしたのではと考えているんです」

「そんな、まさかナジャーが?」

「ええ。間違いありませんわ。私、先ほど陛下にも進言したんですよ。このままナジャーを姫様のそばに置いたらいつか姫様の御身に危険があるのではないかって」


 やはりというかなんというか、この侍女は頼みもしないこと(主に余計なお世話)までやってくれる。

 最初はためらっていたのに、一度口を開くと止めどなくナジャーの悪口を話したてる。

 この人は日頃からナジャーのことを蹴落としたくて仕方なかったんだろうなと、言葉の端々から感じとれた。

 城中の勤め人が知っているというのも、この侍女がこの調子で話に尾ひれをつけて吹聴してまわったからだろう。


 ナジャーを排除すれば自分がシャムスの一番近くに収まれるとでも思っているのか。

 この先ナジャーを辞めさせたとしても、代わりにこの人を一番そばに置くという選択肢は絶対にない。

 延々と続く悪口雑言を聞き流してお茶を飲み、宴の時間となった。




 一座の人たちが入室してきて、深く頭を下げる。

 座長の挨拶のあと、楽士と踊り子が位置について曲が始まる。


 髪を後頭部で結った女性が杖を振りながら舞う。舞というより、戦いの一場面を見ているような力強さがある。

 楽士の中の一人……筒に皮を張った楽器を鳴らす少年は、もしかしたらシャムスよりも年下かもしれない。

 女性と対になるように、挨拶をした座長が杖を振るいステップを踏む。


 彼らの曲と踊りに引き込まれ、シャムスはあらん限りの拍手をしていた。ガーニムですら踊りを見て笑っている。


「ふむ。悪くなかった。褒美として、お前たちもここで宴を楽しむといい」

「もったいないお言葉です」


 座長ヨアヒムが膝をつき、頭を垂れて答える。


「ですが、本日はこれにてお暇させていただきたく存じます」

「なぜだ。この俺がいいと言っているのだぞ」


 断られると思っていなかったガーニムが眉をひそめる。


「ここに来るまでの間に、城下の民や城内の者たちが話しているのを聞きました。先日城下で不審火があったと。私どももテントや荷車など燃えるようなものが多いので、犯人が無事捕まるまでは長居を控えたく存じます」


 ヨアヒムの仰々しい台詞を一言で訳すなら


『放火魔のいる町に長居したくない』


 犯人が捕まっていない中、長居する人間はいない。

 ガーニムは押し黙ってしまった。


 ヨアヒムの後ろに座っていた楽士の少年が、シャムスと目が合うと意味ありげにウィンクした。

 少年は言葉に出さず、口の動きだけで何か言う。


 ──今がチャンス。


 彼らは協力者なんだ。

 なんて心強い。シャムスは呼吸を落ち着けて、声を上げる。


「その話、わたくしも聞いたわ。犯人はナジャーの息子だと、城中の噂になっているわね。お客様を不安にさせて、申し訳ないわ。誰か……ナジャーをここに」

「はい、姫様」


 シャムスの側で水瓶を抱えていた例の噂好きの侍女は、口角を上げて退室する。五分も経たずにナジャーを連れてきた。



 ナジャーはなぜ自分が呼ばれたのかわからない顔をして震えている……ように演技している。

 シャムスは椅子に深く腰掛けたまま、ナジャーを睨む。




 今宵限り、この世で一番嫌な女になろう。世話をしてもらった恩を仇で返した悪女と罵られても構わない。

 大切なナジャーを逃がすためなら、悪魔ジンになってみせる。  



「ナジャー。貴女の息子が、スラムに火を放ったという話を聞きました。わたくし、そんな危険な家族を持つ人をそばに置いておきたくないの。今この時をもって、わたくしの乳母を解任するわ。どこへなりと行くといい!」

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