第37話 失踪 その5

 俺の部屋に、ジャージ姿の春葉が入ってきた。その落ち着いた様子に安堵しつつ、ベッドの縁に座るよう促す。


 俺も隣に腰を下ろし、沸かしていたホットミルクを手渡した。


 春葉は湯気を立てるミルクをそっと口に運び、一口すすってから、「ふぅ」と白い息を吐き、微笑む。


「懐かしいなあ。昔もこうやって、冬也君の部屋で一緒にお茶飲んだよね」

「……そうだな。俺たち三人、一緒に遊んだり食べたりしてたよな」

「うん……。今だから言うけど、私も夏月も昔から冬也君のことが好きだった。だから、冬也君に告白して三人の関係が壊れるのが嫌だった。でも……」


 春葉の言葉に、自然と夏月の顔が浮かんだ俺は、つい目を伏せる。


「今、夏月の彼氏は拓真君だけど、私は昔から変わらない。冬也君のことが好き……大好き」


 その「好き。大好き」という言葉に込められた温かい抑揚が胸に沁みた。心が泣きそうになる。


 そんな俺を春葉はそっと抱きしめてきた。優しく、温もりを伝えるように。耳元で小さくささやく春葉の声は、さらに俺の心を揺さぶる。


「私、家出したって言ったけど……」

「ああ。養子になった話は聞いてたが、詳しいことは知らない」

「最初の家はひどかったの。ギャンブルに狂った父親が帰ってこなくて、母親は男に走って……」

「……そうだったな。図書館にひとりぼっちでいた春葉に出会ったのが俺たちの始まりだった。あの時、勇気を出して話しかけて良かったと思ってる」


 春葉の声が少し重くなる。


「今の家はネグレクトもないし裕福だけど、旧家だから厳しいの。ルールに縛られてばかりで……」

「それでも、昔よりはマシだろう。あの頃の春葉は、見るからに痩せ細っていたし」

「うん、それはそう。でもね……今は別の辛さがあるの」


 俺は春葉の言葉に耳を傾けながら、初めて知る彼女の家庭事情に驚きを隠せなかった。春葉が港南市の有力者に引き取られたことは知っていたし、裕福な家庭だとも思っていた。しかし、そこに隠された苦悩までは知らなかった。


「友達付き合いも親の許可が必要で、男の人と付き合うなんて絶対に許されない。将来は家のために嫁がされるだけ……。私は、自分で選べない人生のレールの上にいるの」


 言葉に詰まった俺は、どう返せばいいのかわからなかった。慰めの言葉を口にしても、それが春葉の心に届くとは思えない。


 だから俺は、無言で春葉を抱きしめ返すことしかできなかった。


 何もできない。何もしてやれない。ただ彼女をハグする。それだけが俺にできる唯一の行動だった。


 すると、春葉が俺に回していた腕をゆっくりと離し、真剣な表情で俺を見つめてきた。


「冬也君。今、自分は無力で何もできないって思ったでしょ?」


 その問いに驚きながらも、俺は小さくうなずいた。


「私を救いたいけど、何もできないから抱きしめてくれた。そうでしょ?」

「ああ……。確かにそうだ。俺はただの学園生で、何の力もない」


 春葉は強い眼差しで俺を見据えたまま、静かに首を振る。


「でも、そうじゃないの」

「どういうことだ?」

「もし冬也君が本気で私のことを好きで、救いたいって思ってくれるなら、方法はあるの」

「……そんなものがあるのか?」

「うん。ただ、覚悟が必要。でも私はもう、その覚悟を決めた」


 春葉の瞳には、決意と覚悟が映っていた。一途で、揺るぎない意志がそこにあった。


「冬也君、私のために覚悟を決めてくれる?」

「俺に何かできることがあるなら、春葉のためにしてあげたい」

「嘘じゃなく、本気で?」

「ああ、本気だ」


 その言葉に春葉は小さくうなずき、深い呼吸を一つ置いてから、静かに、しかし力強く言葉を紡いだ。


「私と――駆け落ちして」

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