首がたり
譚月遊生季
首がたり
目を覚ますと、そこはあばら家だった。
冷たい板の感触が頬に触れ、固い床に寝ているのだと理解する。
「おお、目覚めたかい!」
明るい声が、頭上から響く。活き活きとした、男性の声だ。
何があったのか、頭に霞がかかったように覚えていない。……けれど、事情はともかく、私は誰かに介抱してもらっているらしい。
「今、温かい茶を用意している。何はともあれ、まずはゆっくり休みな」
ありがとうございます。
そう言おうとしたけれど、声が上手く出ない。
記憶も曖昧だし、声も出ないし、頭でも落としてしまったのだろうか……なんて、くだらないことを考えたけれど、鈍い頭痛が次第に現実を連れ戻しに来た。
そうだ。
私は、死にに来たのだ。
首に手を持っていくと、縄の痕がある。
縄が切れたのか、あばら家の住人が助けたのか、どちらにせよ、私は「失敗」したのだろう。
「ほれ、茶を淹れたぞ。話なら後で聞いてやるから、飲んだ飲んだ」
頭上の声が言ったかと思えば、足音が近付いてくる。
そういえば、さっきから声はずっと、頭上の同じ場所から聞こえている。お茶を持ってきたのは別の人なのだろうか。奥さん……とか?
鉛のように重い身体を起こす。
ぼんやりした目で辺りを見渡すと、狭い小屋の中に赤い夕陽が差し込んでいるのが分かった。
屋根も、おそらくはまともに機能していないのだろう。ぽたりぽたりと、そこかしこに雫が漏れている。
漂ってくる茶葉の香りは、緑茶……いや、煎茶か?
霞んだ視界の前に差し出されたお盆から、湯呑みを取る。端の欠けた湯呑みから、指先に温かさが伝わる。程よく冷ましてあるのか、「熱い」とは感じなかった。
カラカラに乾いた喉が求めるまま、一気に飲み干す。内臓にまで染み渡るお茶の温かさが、生きている実感を急速に引き戻した。
そうか。
私は、助けられたのか。
「ありがとうございます」
ようやく出た声は掠れていた。
差し出されたままのお盆に湯呑みを戻し、真っ直ぐ、相手の目を──
見れなかった。
というか、目がない。
正確に言えば、
下の方に視線を向ける。
見覚えのない、いや、正確には博物館か何かで見たことのある服装。
「おう! 良い飲みっぷりだ!」
背後から、例のハツラツとした声が響く。
寝ている時は頭上から聞こえていた声が、今度は間違いなく「下の方」から聞こえている。
振り返りたくないけれど、振り返らないと
意を決し、一気に背後へと振り返った。
生首だ。
黄昏の真っ赤な光に照らされる、青白い肌。時代錯誤な
朗々と輝く、片方しかない眼。
顔の三分の一ほどは骨に覆われ……いや、逆だ。肉が
「気分はどうだい?」
そうか……。
頭を落としても、声は、出せるのか……。
***
私が
「おれは先の戦でやられちまってな。それで数百年、ここで過ごしてる」
「はぁ……」
「先の戦」って、いつの話だ。
そう思いつつ、差し出されたお茶を受け取った。
なんだかんだで、お茶は美味い。
「……どうしましょうね」
ぽろりと、本音が漏れる。
「もう生きていくのは懲り懲りなのに、死ぬのに失敗したらしたで、もう一度死ぬ勇気もなくて……」
思えば。
首を吊った時は、溢れんばかりの自己陶酔があった。「これが世のため人のためだ」と、満足感まであった気がする。
今はもう、何もかもが
ぼそぼそと呟く私に、生首はばつの悪そうな顔をした。
「どう伝えたもんだか、分からねぇが……」
片方しかない目をきょろきょろとさ迷わせ、男は、気まずそうに言葉を続けた。
「それで言うと、おまえはとっくに『成功』しているよ」
ああ。
「おれはただの地縛霊だ。生きてる奴に、ここまで露骨に干渉できるもんか」
その言葉を聞きたかったのか、聞きたくなかったのか。
乾いた笑いが漏れる。後はただ、俯くしか無かった。
***
やがて、長い沈黙が気まずかったのか、男は頼んでもいないのにべらべらと喋り始めた。
「おまえがただの遭難者なら、おれにだって手立てがあった。帰る路を指し示せば、それで
「…………」
「首吊りや身投げはなぁ……。刻の狭間で一時の生を留めたところで、誰かの助けを呼んだところで……この山奥じゃあ……。……最近は、また人数が増えていやがる」
気を遣っているのか、言葉数が次第に増え、早口になっている。
「……。でしょうね……」
何か返した方が良いとは思ったが、
「何とも不憫なことだが、そういう奴らほど無念と未練の塊だ。てめぇで死を選んだ者ほど、死にきれぬ想いを抱えて苦しんでいやがる」
それは、そうだろう。
彼らとて死以外で解決できたなら、そうしていたはずだ。
でも、私たちにはそれしか残らなかった。
そうなる前に救いがなかったから、ここに行き着くしかなかったのだ。
生きていればいつかは雨は止む?
もう少し耐えていれば救いがあったかもしれない?
そんなことは分かっている。
分かっていても、降りしきる雨の冷たさに耐えられなかった。
生の苦痛に耐えられなかった。
けれど、本当に欲しかったのは、死による安寧ではない。
生きたまま幸福が得られるのなら、それに越したことはなかったはずなのだ。
「すまねぇな。おれは生きてた時から、ただの俗物でしかねぇ。……おまえを救う術なんざ、これっぽっちも思いつかん」
生首の方が目を伏せたと同時に、首なしの身体が、肩を落としたようにも見えた。
「…………私が、弱かっただけですよ」
「そうさな……。確かに、おまえは弱いのかもしれん。弱さゆえに、苦しんだのかもしれん。だがな、強き者のみが生き残る世は、地獄だろう」
地獄か。
彼が生きた時代は、尚更そうだったのだろう。
けれど、強者だけが生き残る時代なのは、現代だってそうだ。
ただ、「強者」の基準が違うだけ……。
「おれはな、そんな地獄が良いとは思えんな」
「でも、実際、世の中は地獄なんです。仕方ないじゃないですか」
「…………そうかい。おまえは、ひと思いに
重い沈黙が場に落ちる。
静寂を破ったのは、相手の方だった。
「なるほどな。死にたがりが増えたのは、そういう理由かい」
「……これまで、何人も見たんですか?」
「ああ、見てきたよ。おまえの話を聞く限り、これからも、見ることになるだろうな」
「これからも、救おうと?」
「……。おれはな、槍で人を突き殺した。何人も、何人もだ。どうせあの世もこの世も地獄なら、その
「遭難者なら手立てがあった」……その言葉を思い出す。
ああ、そうか。
彼がどうして私に世話を焼くのか、ようやく、理解できた。
「優しい人ですね」
「……なぁに、自分のためだよ」
きっと彼は、非業の死を遂げたからこそ、人を救う道を見出したのだ。
死してなお、彼の未来は
……素晴らしいことじゃないか。
「茶は、美味かったか」
「……はい」
「そうかい。そんなら、気を付けて逝きな。もし極楽に行けりゃ上等だ。無理なら地獄で、一生懸命閻魔様に頼み込むこった」
「いいえ」
その台詞は、ほとんど反射的に飛び出した。
「もう少し、ここにいます」
「……うん?」
生首は予想外とばかりに目を見開き、首のない身体がわずかに首(?)を傾げる。
「遭難者ぐらいなら、助けられるんですよね? 手伝いますよ」
一人よりも、二人の方が救える命は多い。
何より……生前何も為せず、死に希望を見出すしかなかった私の運命も、きっと報われる。
私の提案に、彼は、明らかに頬をひくつかせ、目を伏せた。
「……救いたがりは救われたがりってヤツか。泣かせる話だが、気持ちだけで充分だ」
「でも」
「良いかい。これ以上ここにいたら、おまえも無念と未練だらけの魂の仲間入りだ。そうなったら、それこそ救いようがねぇ」
私の声を遮るようにして、生首は
「なぜ、そんなことを」
「おまえだって楽になりたかったんだろう。苦しみたくねぇからここに来たんだろう。なぁ? そんならもう、楽になれ。どの地獄も、今、この瞬間ほど甘かねぇんだ」
私の問いが、相手に届いている様子はない。
本当に、それでいいのか?
もう私の「生」は終わってしまったけれど、今からでも、何かを変えられるんじゃないのか?
「何もかも、もう遅い。お終いなんだよ。……おまえはもう、苦しまなくていいんだ」
ふっと視界が暗くなる。
遠のく意識は眠る前のようでいて、死ぬ前のようでいて……。
「あばよ」
最期に聞いた声は、甘ったるいほど優しくて、底冷えがするほど冷たかった。
***
「
床に座っていた
寂れたあばら家に、冷たい隙間風が吹き抜ける。
雨漏りを受け止めた湯呑みの中は、塵だらけで濁っていた。
自らの首を拾い上げ、男は、低く呻く。
続く言葉は、懺悔のようで、弁解のようで、恨み節のようでもあった。
「おれぁ、アイツらを満足させてんだ。それで良いだろう……」
首を小脇に抱え、男はふらふらとあばら家の外に出る。
木にぶら下がった屍が、冷たい風に吹かれ、ゆらゆらと揺れていた。
「おれは死にたかねぇ。生きたかったし、還りたかったんだ。死にてぇヤツらをいくら喰おうが……バチは当たらねぇさ……」
孤独な「怪異」は、今日も魂を喰らい、存在を保ち続けているという。
首がたり 譚月遊生季 @under_moon
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