死神さんの初デート【カクヨムコン10短編】
蜜柑桜
episode 1
ざくっ……ざくっ……
梟の声に混じって、地の枝を踏みしだく音が暗い森の中に響く。眠っていた針鼠や栗鼠が外部者の気配に飛び起き、木の上や茂みの中に逃げ隠れた。
丈高いトウヒの間を進むのはまだ若い青年だった。漆黒のローブを纏いフードを目深にかぶっている。陽の届かぬ薄闇の中で、ローブの裾に銀糸で縫い取られた文字がぼんやりと光り、青年の足元を
青年の視界の先で密集していた木々が分かれ、白光が輝きわたる広場が見えた。光の源は広場中央に輝く月——いや、それは白詰草に囲まれた水面に映る満月の姿。
波一つたてぬ泉の前で、青年の足が止まった。
ローブの合わせから腕がそっと上がる。その左手には、ヴァイオリン。
楽器は青年の左肩に載せられ、弦に弓がそっと触れる。
すぅ、と息を吸うとともに青年の漆黒の瞳がしかと開き、弓が右の二つの弦の上で滑った。
——バサバサッ
水面の真円が崩れ、和音の律動に同調して水がうねり始める。青年は目を閉じ弦を掻き鳴らし続けた。ローブがはためき裾の銀文字が金に変わる。広場に旋風が巻き起こり青年の頭からフードを跳ね除け、黒の前髪が逆だった。
瞳をはっと見開き青年が弦を爪弾いたのと同時に、どう、と轟音が地を揺るがし水柱が真上に突き上がった。
「なに……せっかく気持ちよく寝ていたのに」
「おはようフィカ。良かった起きた」
一瞬のうちに水柱が消え、青年は楽器を肩から下ろした。泉の縁に虹色の靴のヒールを載せて立っていたのは、見た目は青年と同じ歳頃の娘である。灰青色の長くまっすぐ伸びた髪は毛先近くで緩く結ばれており、膝まで落ちる灰色の長衣の胸の辺りに、首からかけた球が玉虫色に光っていた。
「うん、死神の起こし方は習得したみたいだ。僕も腕を上げたかな」
「そのヴァイオリン、もともと私のよ」
「くれたのは君だよ」
「あまりに興味津々だったから貸してあげただけで……」
「E線を半音下げるのが君たちを目覚めさせる
にこにこ話す青年にフィカは言葉に詰まり、聞こえよがしに溜息をついて泉の縁に腰を降ろした。渡されたヴァイオリンを膝に置き、楽器に肘をついて青年を見上げる。
「いいけれど。それでウェネ、どうしたというの?」
「うん、ちょっと黄泉の国からの依頼をね、手伝って欲しくて」
ウェネと呼ばれた青年は懐から羊皮紙の巻物を取り出した。紙を留めている蔓草を解いて広げるが、中には何も書いていない。
ウェネは白紙の羊皮紙に指を垂直に立てて口の中で二、三言呟くと、指を素早く左右、斜め、縦に動かす。すると紙の裏側から銀の光が透けて表面に浮かび上がり、文字と像を映し出した。濃茶の髪と目をした若い女性の姿だ。
「
「そんなに前なの。私の管轄外よ。この
「でも死神の君なら彼女の未練は感じ取れるだろう?」
像を覗き込んで眉を
「そうだけれど、これだけ離れてしまうと彼女以外の人の情報は掴めないわ」
「未練自体も断片的にしかわからない、だろう? そこは大丈夫。はい」
ウェネは蒸し鶏とレタスを挟んだ分厚い南瓜サンドイッチをフィカに渡し、自分もふわふわの卵が溢れそうなほうれん草のサンドイッチを手に取った。フィカは受け取ったサンドイッチを一口齧る。
「いつもながらこのサンドは悪くないわね——でもあなたみたいな半人前の魔法使いが人間に干渉するなんて滅多なことじゃないでしょう」
唇についたパン屑を拭うと、フィカは灰色の睫毛を少しあげ、「まさか」とエメラルドの瞳を丸くした。
「これ、ヴィドゥス女史の」
「さすが察しがいいね。うん、障害を除く
木々の向こうに見える尖塔の天辺、魔法学校の灯火を親指でくいと指差し、ウェネは口の端を上げた。フィカは額に手を当て耳に聞こえるほどの溜息を吐く。
「だからヴィドゥス女史の試験は心してかかれと……試験なら、半人前とはいえ
「許可ありだ。
「本試験は存命の生き物が標的だったのでしょう」
「うん、本試験は依頼主の思念を読むところからやるんだ。再試だから甘いんだよ」
星明かりを鏡に集めて、ウェネはそれを照明代わりに羊皮紙の上に置き、自分も南瓜サンドイッチを頬張る。
「過去の人間の未練なら死神が強く読み取れるから、ってことね」
「フィカならもう彼女の未練の断片は見えてるだろう?」
「まったく……
サンドイッチの二口目を齧ったフィカは、言いかけたところでパンを持つ手を宙で止めた。
「食べちゃった……」
愕然とするフィカにウェネがしてやったりと横目で見る。
「ふふ。死神が
「仕方ないわね。本当に
「いいよ。何が見える?」
フィカは広げた掌を羊皮紙の上にかざし瞼を閉じた。フィカの爪が親指から順に薄緑、空色、群青、紫、薄紅に光っていく。
「ええと、百八十年と三年前、紅葉の頃。今の暦だと秋始まりから千四百四十時間後の昼過ぎ? いえ、分かったわ。地球の基準で太陽が地平線から西に三十七度の時刻。土地は?」
「標点α」
「αね、地球上の。どこかしら。人が多い……一緒に誰か、男性? 若い人」
「うん? 想い人とかかな」
「そこまでは……ええと、それからこれは? 風、と、手紙?」
フィカの爪が明滅し、色が羊皮紙に映る。
「手紙の像が強いみたい。待って。標的の声、聞こえそう」
ウェネはカタカタと風で揺れる鏡を手で押さえ、息を止めてフィカを見る。フィカの灰色の睫毛がぴくりと動いた。
「『た』、かしら。『た……なかった』? 『わた……』?」
「始め、『わた』? 『わた……なかった』……『渡せなかった?』」
「そう、ね。それだわ」
睫毛を上げたフィカの額に汗が光る。上がっていた肩から、ふっと力を抜いた。
「『手紙を渡せなかった』、それみたい」
「よし!」
パチンと羊皮紙を弾きウェネは勢いよく立ち上がった。ぱん、とローブを叩いて砂を落とすと、羊皮紙を丸めて泉に向き合う。
「じゃ、さっさか終わらしてくるかな。行こうフィカ」
「私でなくても」
「何言ってるのさ、フィカがいいんだよ」
え、とフィカの体が固まり、手にしたサンドイッチが長衣の膝に落ちる。
「あ、ほらスカート汚れるよ。だってほら僕、フィカ以外の死神は経歴数百年のじじばばしか知らないし。おっかない」
あっけらかんと言うので、フィカは「あっそ」と視線をスカートに落としてサンドイッチを拾い、乱暴に口に放り込んだ。そしてヴァイオリンに手を伸ばすと、軽く調弦して自分もパン屑を払って立ち上がる。
「いいわ。でも、交換条件があるから」
「え、何?」
既に魔法で杖を出しきょとんと振り返ったウェネに、フィカは眼を細めて唇を笑みの形にする。
「無事に再試を終えたら言うわ。ちょっとあるところに付き合って欲しいだけ」
「何だぁそれ? 気になるじゃないか」
「大したことじゃないわよ。ほら、ヴィドゥス女史なら時間制限もあるでしょう」
そうだった、とウェネは慌てて泉に向き直る。漆を塗った細い杖を水面と平行にし、それを両手の親指と人差し指の間に載せて、五指を開いた。杖の両端に小さな旋風が起き、ウェネの袖口がぱたぱたと波打つ。
「百八十と三年前の、
ウェネが凛と声を張ると水流が泉から線状に立ち上り、弧を描いて二人の周りを囲む。宙に踊る水の中めがけて月明かりが意思を持つが如く集まり、迸る水滴が宝珠のように煌めき
「飛ぶよ!」
宙に舞った水の珠が砕けて広場に眩い光の粒子を撒き散らす。
次の瞬間、光がたち消え、空中の水が霧になる。
——霧が晴れた後、そこに二人の姿はなかった。
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