第四章 2-2 輝美の過去
*
胸よりも腹が突き出た恰幅のいい貫禄のある男は、黒光りする壁をした大きな建物の自動ドアをくぐり、外へと歩み出た。
ドアの左右に立つ警備員に軽く手を上げて挨拶し、スーツの襟を正しながら背の高い秘書とともに建物の前に停まっている黒いセダンへと近づいていく。
「やぁ、久しぶり。お、に、い、ちゃんっ」
黄土色のロングコートの裾を翻して男とセダンの間に立ち塞がったのは、輝美。
ふざけたような口調で言い、自分より若干背の低い男を余裕のある笑みを浮かべて見下ろす。
「ひっ、ひいいいぃぃぃぃぃーーっ」
一瞬呆然とした男だったが、目を見開いた瞬間、それまで漂わせていた貫禄を投げ捨てて悲鳴を上げた。
「酷い反応するわねぇ、久しぶりだってのに。それにこれが貴方がワタシに対する応じ方なのかしら?」
入り口の警備員が輝美に走り寄り、腰から抜いた警棒を構えてみせる。
「貴方がどうせまだ持ってるコレクションのタイトル、全部読み上げてもいい?」
「待て! このお方は私の知り合いだ。久しぶりでちょっと驚いただけだ……。下がっていい」
男に言われ、警備員たちは不審そうな顔をしつつも、渋々輝美の側から離れた。
「車に乗ってくれ。プチシャ――、早乙女さん、だったよな?」
「そっ。お腹が空いてるから何か食べたいかなぁ」
「おい。いつもの店を予約してくれ。奥の部屋だ」
「あーっ、どこかいいところ知ってたら、ウナギの方がいいかな? 最近食べてないから、美味しいとこがいい」
「……それで頼む」
男に言いつけられた秘書は、運転席側の扉の横で携帯端末を取り出し、どこかに電話をかけ始めた。
促され、輝美は男とともに後部座席に乗り込む。リムジンのように向かい合って座れるわけではないが、充分に広さがあり、運転席と後部座席の間には仕切りがあって前と後ろでは会話ができないようになっていた。
「元々そういう家系だったけど、あんたが官僚とはねぇ」
「――うっせぇ」
「それも文部省とか、大問題よね。来期辺りには出馬予定だっけ? この子供の敵が」
「ぐっ……」
輝美よりも十歳は年上だろう男は、滑るように静かに走り始めた車内で、彼女の言葉に喉を詰まらせて黙り込んだ。
「その上結婚までして子供がいるとか、笑っちゃうわよね。このロリコンど変態。子供は娘さんだっけ?」
「どこで調べてきやがった、この野郎!!」
顔を真っ赤に染め、立ち上がらん勢いで男は怒鳴り声を上げた。
「調べるも何も、あの子はワタシの知り合いだからね。あの子はあっちの世界の被害者よ。あの幼すぎる姿も含めてね。大変だったのよー、あの子が出産するとき。ワタシも手伝ったんだから。医療的にじゃないけど」
「……いったいどうやって潜り込んだんだ」
「あの病院はワタシの知り合いが経営してるところだから」
「もっと大きな病院を勧めたのに、あいつがあそこを固持したのはそういうことか……」
諦めたようにため息を吐き、男は顔を両手で覆って深く俯く。
「それでも、貴方だからあの子に会わせてみたの。重度のロリコンで、暴走すると変態になって、十歳以上年下の女の子に結婚を前提に交際を申し込むほどどうしようもない奴だけど、貴方の気持ちはいつも純粋だったから。過ぎるほどにね。ワタシを恨むかしら?」
覆っていた両手から顔を上げた男は、ため息を漏らしつつも元の威厳とは違う、真っ直ぐで真剣な目を輝美に向けてきた。
「輝美のやったことは、俺にとっても、たぶんあいつにとっても、正解だったと思う。いまさらだが、ありがとう。しかし、いまのあいつと、あいつとの子供の平穏をお前が壊すようなら、俺はお前を許さん。俺が持てるあらゆる手を使ってお前を潰す、輝美」
脅しが含まれた睨みとも違う、静かな目で男は輝美に宣言した。
「ワタシがそんなこと望むはずないでしょ。できればこっちの世界には巻き込みたくないわよ。でもあの子の力と身体はまだまだ不安定だからね。警戒くらいはしてる」
「わかった。何かあれば俺にできる限りのことはする。しかし輝美、今日はそんなことを言うために来たんじゃないんだろ?」
お互いに携帯端末を取り出して連絡先を交換しつつ、輝美はその質問に答える。
「サクヤが封印を破って復活した。たぶん」
「な……、に?」
パーソナルな情報を含んだ電子名刺の送信ボタンを押して顔を上げた男は、驚愕の声とともに表情を硬直させた。
「本当なのか? あいつの封印期間は千年じゃなかったのか? まだ二十年ちょいだぞ」
「うん、そうだったんだけど、解いちゃったみたい。相変わらずそういうところは要領いいみたいね」
唇を震わせている男に対して、輝美は平然と話す。
輝美と男のしがらみは三十年近く前に遡る。その頃輝美は小学生で、男は大学生で、サクヤは最初は仲間で、後に敵となった。
「まだワタシの方じゃ直接会ってないけど、ほぼ確実。例の結晶の破片を組み込んだ、アニメに出てきそうなオモチャが撒かれちゃってる。誰にでも使えるものじゃなさそうだけど、送り先を吐かせるためにはあいつをとっ捕まえないと」
「オモチャだと? いったいどんなものを、どうして……」
「オモチャを撒いた理由はわかんないけど、目的の方は相変わらずなんじゃないかな? 思い通りにならなくて、下らない世界の破壊と再構築。――ときに、お爺さまはご健在?」
「亡くなった、と言いたいところだが健在だ。惚けてすらいない。もう九十は過ぎてるのにな。だから色々細かい動きがしづらくて敵わないんだが……。まぁあの方が墓の下に落ち着く前には顔を見せてやってくれ。喜ぶ。結局あのときは、あの方まで巻き込むことになったからな……」
「その話は止めましょ。いまワタシも貴方もこうして生きてる。それだけで充分」
「そうだな……」
もう五十過ぎた男に刻まれたシワは、年齢以上に深く、彼の顔に影を落としていた。
「しかしなんでまたあの方なんだ。俺や、親父の範囲で済まないのか?」
「もとより貴方の力なんて借りなくて済むならそれが一番なんだけど、もうすぐ学校に絡むところで大きなドンパチが起こりそうだからね。早ければ今晩にも。その戦いもそうだけど、その後も戦いが続くなら、貴方や、警察だけじゃなくて、国にも裏から支援してもらわないと無理かも」
「お前の勘か。やっかいだな。しかし学校が絡むって、お前は何をやるつもりだ」
「ワタシは何も。ワタシの息子がやる気だから全部任せるつもり。こっそり手伝いくらいはするかもだけど」
「お前に息子……。しかしよくあんなのと結婚したよな、お前も」
「はっはっはっはっ。そりゃあもう、貴方に比べれば何億倍もいい男だったからねぇ」
「……そういうところは相変わらずだな。安心したよ」
ため息を漏らしつつも、満面の笑みを浮かべる輝美に、男は苦笑いを返していた。
「できる限り表沙汰にならないようには頑張りたいけど、無理かも知れないからね」
「わかった。サクヤ絡みなら仕方ないだろう。……そろそろ店に到着すると思うが、食ってくか?」
「んー。持ち帰りに変更でお願い。鰻重特上大盛りで、……えぇっと、七個」
「ずいぶん多いな」
目を見開いて驚きながら、男は脇のボタンを押して秘書に指示を飛ばす。
「息子と、その仲間にね。ひとり素敵に可愛くて、たくさん食べる子がいるの。わたしも近々ひと仕事ありそうだから、力着けておきたいしね。支払いはよろしくっ。家までのタクシーの手配も!」
「いろいろ利用されてきたもんだが、本当にお前はちゃっかりしてるよ。昔も、いまも」
「それがワタシの持ち味だからねぇ。その分、ちゃんと支払うもんは支払ってきたつもりだけど?」
「わかってる。いまは先払い分が大きすぎる。しっかりやらせてもらうよ。その代わり、輝美の方もしっかり頼む。もうあんな事件の再来は勘弁したい」
「もちろん。それじゃあよろしくね」
静かに速度を落として停車した車から降り、輝美は男に手を振って横付けされた大きな門構えの店の中へと入っていった。
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