藤巻ふじまきれんは、ノート型パソコンの画面に表示されている自分が作成した不等式の文章題を最初から読み返すと、白い無地のティーカップにそそがれた紅茶で唇を湿らせた。

 もうすっかり冷めてしまっていたが、ダージリンの香りと檸檬レモンの酸味は、まだしっかりと生きている。


 出勤日はいつも、学校近くの早朝から開店しているこの喫茶店に立ち寄り、なにかしらの用事をこなしつつ時間を潰すことが日課となっていた。

 そのゆうは、ただひとつ──通勤ラッシュが嫌いだから。

 こうして余裕をもたせて朝早くから電車に乗れば(ほとんど始発の時間ではあるけれど)、満員の護送車のような車両でせめぎあい・・・・・の拷問を受けることなく、快適にすわって到着できるのだ。

 正規雇用の教員ではなく非常勤講師である蓮児にとって、一杯四百円の嗜好品は安くはない。それでも、ストレスフリーな交通手段と、この優雅ともいえる一時ひとときを考えれば高くもなかった。さけ煙草タバコ、ギャンブルはやらず、交友関係は狭く恋人もいない蓮児だからこそ可能だった。


「おっと!」


 パソコン画面のすみに表示されている現在の時刻に気がつき、慌ててファイルを閉じて立ち上がる。冷めた紅茶も飲み干してから、蓮児はビーチ材の背もたれに掛けていた上着を手に取り羽織った。



 入店時は、空と同じ深海のような世界だった街並みが、すっかりと明るいパステルカラーに変わっていた。見上げれば、電線の向こう側に少し欠けた月が浮かんでいる。


「うわっ、寒ッ……」


 近頃、心の声が思わず言葉に出てしまう。

 蓮児は二十代だが、独り身のさびしさがそうさせるのかもしれない。

 まだ眠りから覚めない住宅街を、ガードレールに沿ってひとり歩く。ところどころ傷が目立つのは、誰かが故意にこすった痕跡なのだろうか。

 そんなことを考えていると、不意に対向車線から車が一台、ため息のような走行音と白いガスをきながら通り過ぎた。

 一台、また一台……あとはもう、やっては来ない。

 首に巻いているアラン模様のスヌードを片手で掴んだ蓮児は、気休め程度を覚悟の上で、あごを埋めて冷気から顔を守ろうとした。


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