W- ②
数分後、ずっと水で手を洗う宮川の背を眺めて、僕は煙草を加えた。その先に火を付けようにも、手が震えてどうにもならなかった。頭の隅には「警察」の二文字があったが、どうしても身体が動かなかった。
気力と判断力の欠如は、宮川も同じだった。頭蓋骨の割れ目で手を切ったと言うが、彼の触れる水の中に、切傷は見られない。乾いた脳漿と血液も、流水と共に下水へと流れ落ちている。だというのに、宮川は硬い掌の皮膚がふやけて破れかけてもなお、洗面台から動くことは無かった。
僕は火の点いていない煙草の先を、唇で上下させた。狭いトイレの壁に背を付けて、乾いた床の上に尻を置いた。
煙草で鼻腔と肺を燻したかった。分単位で自分の鼻に入り込む血と生ゴミの臭いは、次第に甘いフルーツ入りのヨーグルトに似た香りへと変貌していく。それが、ヒトの死体の腐る臭いであることは、経験上理解していた。
「宮川」
僕が名を唱えると、彼は「はい」と裏返った声で応えた。
「手は洗い終わった?」
そう問うと、宮川は黙って首を横に振る。左右に揺れ続ける彼の頭を眺める。何故だかフッと笑いがこみ上げた。そうしてようやく、僕はライターの先に小さく火を灯すことに成功した。
「交番行ってくる。消毒液置いておくから、気が済んだら使って」
制御下に置いた指先を膝に置いて、足を立たせた。細かく震える足先に力を込める。上げた視線の先では、未だ宮川が首を横に振り続けていた。
口先で小さく溜息を吐いて、紫煙を転がす。視線を下げて、足の踏み場を探した。血液の付いた車輪でも転がしたような、細く赤い道がある以外は、血液が広がっているだとか、肉が散乱している様子は無かった。
妙に、綺麗だと思った。ヒトが死んでいるにしては、
もっと言えば、頭蓋骨が割れて脳が損なわれている以外は、死体に不自然な箇所が無いのだ。暴れた様子も、苦しみ藻掻いた様子も無い。脳が失われる直前まで、普通に歩いていたのが、唐突にその場で脳が頭蓋骨を割って、
そんな、違和感と言うには決定的な不明点を飲み込んで、僕は玄関まで足を速めた。考えれば考えるほど、自分の思考に感覚を飲まれると思った。
考えても終わりが見えない状況では、思考より感覚が頼りになる。それは、経験上の事実だった。
「おーい」
耳を澄ませる。玄関を一〇歩ほど先に置いて、僕は足を止めた。
確かに、声が聞こえた。僕と宮川以外の誰かの声。その主には覚えがあった。
玄関の扉を叩く音と、海の波が打ち付ける音とが混ざり合う。
扉を押し開く。僕は縋るようにして、その声の主の前に身体を出した。
「井畑さん」
僕の目の前で、目を丸くする中年男性は、「何?」と朗らかに笑った。彼――――井畑さんは、近所に住む造船所の社長である。たまに海の家へ社員達を連れて飲みに来ていた。
見知った顔が、いつも通りの表情で立っている。それだけで、安堵を隠すことはできなくなっていた。
「どうしたの京次郎くん。何かあった?」
眉を潜めながら、肩をすくめながら。井畑さんは苦く笑って僕を見上げた。僕が口を歪ませていると、彼は「ちょっと良いかな」と言って、一歩、玄関の中へと足を置いた。埒が明かないと思ったのだろう。彼はきょろきょろと部屋の中を見ると、数秒身体の動きを止めた。
それは、まるで思考を止めているようだった。
当たり前だ。床に散らばるのは、頭蓋骨が縦に割れた男達。進む腐敗の匂いに当てられれば、何を言葉にすれば良いかわからなくなる。
「井畑さん、あの」
喉奥のつっかえを押しのけて、僕は彼の名を呼んだ。朝から起きた出来事の全てを、説明しようと、舌を回す。何をどう言葉にして、どうその言葉を整列させるかは、計画していなかった。ただ、一つでも弁明の意思を見せなければ、次に向けられるのは敵意だ。それだけは確信していた。
「京次郎くん、オーナー達はどうしたの? 買い出しでも行っちゃった?」
言葉の代わりに唾液を口の端から垂れ流す僕に、井畑さんはそう尋ねた。
彼は周囲へ目を置きながら、淡々と足を床に置いた。その足先は、確かに意思を持って死体や血痕を避けている。しかしその目の焦点は、輪郭に沿って動くことはあっても、その物体そのものの重心を捉えることは無かった。
それはまるで、床に散らばったヒトの死体が、見えているのに見えていないかのようだった。
首から上と下が全く異なる思考をしている。そう形容するのが正しいだろう。
井畑さんはフッと小さく溜息を吐くと、腕を組んだ。視線の合った僕に苦笑を向ける。呆然とした僕の顔を、「仕方が無い」と言って、彼は鼻で笑っていた。
「ごめんね京次郎くん、バイトの君に頼むことじゃないかもしれないんだけど」
平然と、何事も無かったかのようにして、井畑さんはそう言葉を落とした。乾き始めた血溜まりの上を撥ねるようにして、彼の爽やかな前置きが僕の頭の中を滑っていく。
「外にワゴン車停まってるだろ。あれ、昨日オーナーが声かけてた客のでしょ? 邪魔だからどかして貰えないか」
明るい表情で、井畑さんはそう笑った。
半開きになった玄関扉の隙間を見る。そこには、確かに見覚えの無い古びたワゴンがあった。
後部座席には遮光カーテンが掛けられていて、中身を覗き見ることは出来なかった。
力の抜けた僕の顔を覗き込んで、井畑さんは「ちょっと付いてきてくれるだけで良いから」と付け加えた。
井畑さんの背を、僕は無意識のうちに追いかけていた。自分が次に起こすべき行動が見当たらなかった。だから、違和感を飲み込むしか無かった。そんな言い訳で自分の脳を騙す。
滲む思考で胃が満杯になった頃、ノック音が耳についた。それは井畑さんがワゴン車のガラス窓を叩く音だった。
皮膚を隔てて硝子と骨がぶつかる音は軽かった。その音の背後で、くぐもった獣の唸り声のようなものが、蠢いていた。
カーテンの隙間が広がる。暗い車内から、うっすらと白い円が見えた。それは確かに、人間の眼球だった。蒼黒い瞳が、ぎょろりとこちらを見る。一瞬、それが細くなると、ワゴンの扉が開いた。
「何? 駐禁? 所有者に許可貰ってるんで放っておいてくんない?」
気の抜けた欠伸を一つ置いて、男はそう呟いた。昨日と変わりのない、人懐っこそうな表情で、ケラと笑う。言葉の端に一種の敵意を感じるものの、そこに悪意があるようには見えなかった。
その男は、僕を見ると態とらしく首を傾げて見せた。
「昨日のバイト君じゃん。どうしたの?」
井畑さんに目もくれず、彼は僕と目を合わせた。スッと、胃の上部から不快感が過ぎる。僅かに緩和された吐き気が、僕の喉奥から応答を捻り出した。
「……昨日のお客さんですよね、うちに泊まっていかなかったんですか」
「オーナーさんが飲んだくれちゃったからね、隙を見てこっち戻ったの。あんまり目の離せない荷物多いんでね。車上荒らしの方が怖くて」
じゃあ何で外で酒なんか飲んでいたのか。
そう一種の悪態を飲み込んで、僕は「そうですか」と置いた。
「おっちゃんは近所のヒト? 何か用?」
ワンテンポ置いて、男はフッと小さく笑った。男と目があった井畑さんは、ぽかんと開けていた口を真一文字に結んだ。表情を落とした彼と併せて、男もまた口角を下げた。二人が視線を刺し合ったコンマ数秒の空気が、僕の喉を撫でた。僕が間に入ろうと口を開けるよりも先に、作り笑顔を浮かべたのは井畑さんだった。
「ここね、確かに私有地なんだけど、物品の搬入口も兼ねてるから、駐車しないで欲しいんだよ。オーナーから聞かなかった?」
表情こそ柔らかに見えたが、その口先は鋭かった。
一触即発。そんな言葉が浮かんだ。目の前でワゴン車から降り立つ男が、理性的であることだけを願った。
「そうなんですか? そりゃ悪いことしたなあ」
あっけらかんと、男はそう苦く笑った。
「いや、失敬、昨日はオーナーも他の皆さんも酔っていて、説明されなかったんですよね。そういうことならすぐに退きますよ」
胸の奥にあったモノが、全て身体から溶け出るような、そんな感覚が全身を襲った。
理不尽な暴力が飛び散ることも、激昂が飛び交うこともない。ケラケラと声を上げる男の声に釣られて、僕の口角も歪んだ。それは井畑さんも同じだったようで、彼もまた一歩身体を引いて、引き攣った口元で笑みを作っていた。
「そうだ、おっちゃん、俺からも少し良いですかね」
運転席に乗り上がろうとする手前、男がふとそう振り返った。彼の顔を見上げていた井畑さんは「何?」と肩をすくめた。
「目、見せて貰って良いですか?」
そうはにかむ男の手には、運転席から取り出したらしいペンライトがあった。以前、客の一人が酒の飲み過ぎで倒れた時に、居合わせた医者が使っていたのを見たことがあった。
「目? 別に良いけど、何で?」
井畑さんはそうたじろぎつつも、何の抵抗もなく男の前に顔を出した。男は慣れた手つきでゴム手袋を嵌めると、ペンライトの先を井畑さんの目に当てた。
違和感は、あった。ペンライトから放たれる光は、白や仄かな黄色ではなかった。
「ちょっと気になって」
「何、お兄さん目医者さん?」
「いや、大学院生です。水産系の」
短い言葉の応酬での中で、井畑さんは「ハ」と小さく困惑を吐いた。一瞬、井畑さんの瞳孔が、キラリと光ったように見えた。
赤いペンライトの先が、僕へと向いた。咄嗟に顔を背けた僕を、男はまたケラケラと悪戯っぽく笑った。
「イカの目ってじっくり見たことあります? 眼球周りの構造が面白いんです。医者が頭に付ける円盤あるでしょ。あれ、額帯鏡っていうんですけど、アレと同じ仕組みで光を集めるようになってるんです。でも、それ以外の構造はヒトと殆ど同じ構造で、色覚もかなり近いらしいんです」
「は……はあ……それで?」
「分類学的には『門』レベルで違う生き物なのに、凄い似てるんですよ。生きている環境が全然違うから収斂進化ともまた違うし……面白いと思いません?」
男の問いに、井畑さんは「そうだね」と呟いた。その答えに満足したのか、男は満足そうに頬を持ち上げた。流れるような手つきで、男は車内へペンライトを放り投げる。そうして次に手に取ったのは、スマホだった。
「でも、海の中と陸とじゃ周囲の光の種類が違うんですよね。水は赤い光を吸収するから、海の中にいるイカは赤色を判別する必要が無くて、赤色の認識は苦手だそうです。そこが『人間』との決定的な違いですね」
赤。そう唱えた彼は井畑さんの前と僕の前に立ち、指先でスマホの画面を叩く。
フッと小さく息を吸って、男はその画面を僕たちに向けた。
「要するに、
そう吐き捨てた彼の掲げる画面は一面緑色に見えた。じわりと認識できた赤い文字は『しゃがめ』と表示されていた。
意味はわからなかった。ただ、それに従うべきだと、本能的に理解する。腰を落として、頭を低くした。
ぽかんと口を開けている井畑さんの顔を見上げる。
その次の瞬間、井畑さんは腕を伸ばした。「やめろ」と声を、あげようとしていた。その行動の全てが無駄であることを理解したのは、一秒後のことだった。
井畑さんの頭蓋の斜め横。そこには先程まで談笑していた男の拳があった。その手の中には、アイスピックの柄が納まっていた。
柄の先の、太い金属の先を見る。そこには、眼球があった。井畑さんの眼孔に、アイスピックの先が全て吸い込まれていく。体液の一つも流れることの無いまま、男は手首を捻った。
ゴリ。
その一音は、頭蓋骨の一部、目の奥の骨が無理矢理「開かれる」音だった。
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